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第四章 魔王の子と魔女の子

39話 ごきげんよう

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「まあ、エミール。何です? そのお顔」
「……」

 魔王城の会議室を後にした私は、隣でふよふよ浮いている相手を見上げて首を傾げました。
 大陸一の美男子と名高かったエミールの顔面が、苦虫を盛大に噛み潰したみたいになっていたからです。
 そんなエミールは空色の目で私をじろりと見下ろすと、憤懣やるかたないといった様子で口を開きました。

「許嫁の僕を差し置いて、他の連中とキスするなんて随分じゃないか」
「はあ、キス……」

 どうやら、ギュスターヴや魔女に精気を口移しで与えられたこと──それを私が平然と受け入れていたことが気に入らないようです。
 魔王城の広い廊下を歩きながら、私は小さく肩を竦めました。

「あれらをキスに数えるなんて、エミールは意外と純情なんですね」
「……は?」
「あんなの、挿し餌みたいなものです。私たちも昔、巣から落ちた小鳥に手ずから餌を与えたことがあったでしょう? あれと同じです。ただ、その餌がくどいというだけで」
「どれだけくどいんだよ」

 エミールは今度は呆れたような顔をします。
 かと思ったら、ふいに私に顔を近づけてきたのです。

「エミール?」

 額と額が、鼻先と鼻先が、そして唇と唇がぶつかりそうになり──けれども、結局私たちが体温を分け合うことはありませんでした。
 何しろ、今のエミールには実体がないのですから。

「……ちっ」

 小さく、彼が舌打ちをしました。
 生前は見たこともなかった粗野な態度に、私はやはり少し戸惑いを覚えてしまいます。
 前回、頭からインクをかけられたり目玉を抉られそうになったことだって、まだ根に持っているのです。
 けれども、私がエミールを嫌いになることなどきっと未来永劫ありえないでしょう。
 私達は幼馴染で許嫁で、兄妹のような、とても親密な間柄でしたから。
 この時、彼とキスができなかったことは、別段残念とは思いませんでした。
 けれども、せっかくこうして側にいるのに手も繋げないことは、少し寂しく感じたのです。

「ともあれ、エミールが今すぐ死んでしまうようなことはないと元天使が太鼓判を押してくれてほっとしました。せっかく魔界に来たのです。馴染みの場所を案内しますね」
「なんだかさあ……アヴィス、生きている時よりも生き生きしてない?」

 ほっとしたと言えば、オンラインフィットネスもどうにかこうにか解約手続きが間に合いました。
 すったもんだありましたが、最後の最後で手を貸してくれた、あの初対面のケンタウロスさんに感謝せねばなりませんね。
 しかしさすがに、今後無料体験を登録する際は必ず相談するよう、ギュスターヴに念押しされてしまいました。
 頑なに頷かない私に、ドリーがプリプリと怒っておりましたが知ったことではありません。
 できない約束はしない主義なのです。
 ドリーは口喧しいし、下座にいた門番も大腿骨を返せ返せとうるさかったものですから、エミールと一緒にさっさと逃げ出してきました。
 オンラインフィットネスで鍛えたこの俊足、伊達ではありませんよ。
 私はまず、エミールを連れて魔王城の庭にやってきました。
 老婆の声で話す古木の魔物を彼に紹介しよう思ったのです。
 ところが……

「おばあさま……おばあさま? ねえ、私の声が聞こえていらっしゃらないの?」

 今日は、なぜか何度話しかけてもうんともすんとも答えていただけません。
 私が首を傾げておりますと、エミールはふよふよと古木に近づいていき、訝しい顔しました。

「そもそも、これは本当に魔物なの?」
「あっ、いけませんよ、エミール。古木とてレディですから、そんな風に不躾に背後に回っては」
「いやでも、後ろに扉が……」
「エミール! いけませんったら! めっ、ですよ!」

 私に叱られたエミールは、何だかちょっと嬉しそうな顔をしていそいそと戻ってきました。
 いやですね。変な性癖に目覚めないでもらいたいものです。
 それはそうと、近くで門を守るガーゴイルの視線がいつにも増してうるさいですね。
 ギュスターヴ曰く極度の恥ずかしがり屋さんらしい彼は、いまだ私と目を合わせてくれたこともないというのに。
 それはそれで構わないのですが、しかし言いたいことがあるのならばはっきり言ってもらいたいものです。
 私は沈黙する古木のおばあさまに向けていたつま先を、挙動不審なガーゴイルへと移しました。

「ごきげんよう。何か、私の顔に付いておりますでしょうか?」
「……」

 顔に笑みを貼り付けて尋ねますと、彼はまた無言のまま金色の目をうろうろとさせ始めました。
 そういえば、さっき会議室で会った魔女と同じ目の色ですね。
 そんなことを考えていた時でした。
 突然ドカドカと凄まじい足音を立て、何やら見慣れない連中が目の前を通り過ぎていったのです。
 数にして三匹。揃って、立派な図体をしていました。
 全身が鱗に覆われ、頭からは二本の角が生えております。長い尻尾と、ジゼルのそれと似た翼もありました。
 そんな彼らが巻き上げた土埃に、私とエミールは思わず顔を顰めます。

「何だ、あれ。アヴィスの知り合い?」
「まさか。あんな粗野な知り合いはおりません」
「……ドラゴン族」

 私達の会話に、ふいに聞き慣れない声が混ざります。
 驚きました。ガーゴイルの声です。
 出会って一月余り経ちますが、実は初めて聞きました。

「しゃべったわ」
「じゃべったね」
「……」

 私とエミールがまじまじと見つめますと、彼はしまったとでもいうように、両手で口を押さえます。何だか、ちょっとだけ可愛く見えてきましたよ。
 
「会議室にドラゴンのような女の子がおりましたが、今のは彼女の関係者ですか?」

 私がそう問いますと、ガーゴイルは両手で口を塞いだままコクコクと頷きます。

「小さな子が追いかけられているように見えましたが、あれもドラゴンですか?」

 重ねた問いに、ガーゴイルはまた頷きかけて……

「よくわからない、です」

 蚊の鳴くような声で答えました。
 ともあれ、私が口にしました通り、三匹のドラゴンは何やら小さな子を追いかけていたのです。
 そうしてついに、その子が庭の隅に追い詰められているのが見えたものですから、私の俊足が発動してしまいました。

「──ちょっと、アヴィス? 迂闊に首を突っ込まない方が……っ!」
 
 エミールの慌てた声が追いかけてきますが、走り出した私を止められるものはおりません。
 近付いてみると分かりました。ドラゴン達に追い詰められていたのは、三つか四つくらいの幼子です。男の子か女の子かは、この時点では判然としませんでした。
 しかし、真っ黒い髪、真っ黒い服、真っ黒いとんがり帽子……どこかで見た姿です。
 ええ、そう──会議室で会った魔女のそれとお揃いではありませんか。
 違うのは、幼子の背に翼が──ドラゴン達のものとよく似た、皮膜を張った翼が生えていることくらいです。
 そういえば、会議室で見たドラゴン娘が似たような感じでした。ただし、彼女にはトカゲみたいな尻尾もありましたが。
 幼子は、三匹のドラゴンに囲まれてすでに泣きべそをかいておりました。
 そのうるうるの瞳に、解約画面に出てきた明日から餌を半分に減らされる猫ちゃんや、散歩を禁止されてしまうワンちゃんの姿が重なります。
 居ても立っても居られなくなった私は、すうと大きく息を吸い込み……


「ごきげんようっ!」


 幼子を取り囲んでいたドラゴン達の背中に声をかけました。
 とたん、彼らが弾かれたようにこちらを振り返ります。

「「「え、ご、ごきげんよう……?」」」

 私は、彼らに謝らねばなりません。
 安易に粗野だと決めつけてしまいましたが、ドラゴン達は戸惑いつつもちゃんと挨拶を返してくれたのですから。
 私はワンピースを摘んで小さく腰を落としてから、戸惑う彼らの前に回ります。
 そうして、うるうるおめめの幼子を抱き上げました。

「……っ」

 小さな身体がビクリと過剰なほど震えましたが、私はこの時、それをさほど気にかけませんでした。
 ドラゴン達は状況を理解できない様子で、え? え? と顔を見合わせています。
 そんな連中に、私はとびきりの笑みを向けて言い放ちました。

「それでは、みなさま。ごきげんよう」
「「「あっ、はい……ごきげんよう」」」

 ごきげんよう、というのは実に便利な言葉です。
 出会いの挨拶にも別れの挨拶にも使えるんですもの。
 そんなことを考えながら、私は幼子を抱っこしたまま堂々とドラゴン達の間を通り抜けます。
 そうして、トコトコと元いた古木の方へ歩き出したのですが……


「「「いや! ま、待てっ! 待て待て待てえぃ!!」」」


 口を揃えてそう叫んだドラゴン達が、大慌てて追いかけてきました。

「てめぇ、何者だ!」
「ぶっ殺すぞ!」
「そいつを返しやがれ!」

 ……前言撤回です。
 ドラゴン達は、やはり初見の印象通りに粗野な輩でした。
 品性のかけらもないその言い草に、ぞっとします。
 彼らの怒号に驚いたのか、幼子がぎゅっとしがみついてきました。
 私はそれをしっかりと抱き返すと、後ろを振り返らずに駆け出します。
 そうして、もう少しで古木のおばあさまの袂に辿り着くという時でした。

「おんなぁ! 誰だか知らねえが、ふざけやがって!!」
「てめえも、そのガキごと葬ってやらぁ!!」
「ドラゴン族に逆らった報いだっ!!」

 ドスドスと追いかけてきたドラゴン達の鋭い爪が、私を背中から引き裂こうとしたのです。

「アヴィス!」
「アヴィちゃん!」

 エミールとガーゴイルが、顔を強張らせて私の名を叫びました。
 それにしましても、私と目を合わせたこともなかったくせに、いきなりちゃん付けで呼んできた後者には驚きです。距離感がバグっているんでしょうか。
 幼子が、両手を背中に回してしがみついてきました。
 私は片手でそれを抱え直し、腰に提げていた武器──門番の大腿骨略してモンコツを握ります。
 そうして、ドラゴンの爪に応戦すべく振り返ろうとした時でした。
 ひゅっ、と空気を切り裂く音が聞こえたかと思ったら……


「ぎゃああああっ……!!」


 背後で、耳をつんざくような悲鳴が上がったのです。
 次いで、勢いよく飛んだ何かが私達を追い抜き、ボトリと地面に落下しました。
 ドラゴンのものであろう、血を噴き出す手首です。
 私は思わず息も足も止め、背後を振り返りました。


「あっ……」


 三匹のドラゴンと私の間には、何者かが立ち塞がっておりました。
 手には、血に濡れた双剣を構えています。
 フードの付いたマントの裾が、風を受けてバタバタとはためきました。
 頼もしい後ろ姿には、見覚えがあります。
 私は声を弾ませてその名を叫びました。



「──ヒヨコ!!」


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