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第十話
王妃様が案内するヴィンセント城ダンジョン8
しおりを挟む「マチアス!!」
声も枯れんばかりに叫び、ウルは柵の向こうへと腕を伸ばす。
しかし、その手は虚しく宙を掴んだ。
友を目の前で失う恐怖に、ウルの全身から血の気が引いた──その時である。
ドボーン、という大きな音とともに水柱が立った。
「……は?」
午後の太陽の光を反射した水飛沫が、キラキラと宝石のように輝く。
ぽかんとしてそれを見つめるウルの後ろでは、ロッツとマイリがこんな言葉を交わしていた。
「さすがは、マイリちゃん。こうなることも視野に入れて、この部屋でマチアスの断罪イベントを発生させたんでしょう?」
「ウルの仕事部屋の真下は、バラ園じゃからな。あそこに落ちるとチクチクじゃし、何より手塩にかけてバラを育てておる庭師が悲しむ」
宰相執務室の真下は、大きな池だった。
昼食の際、食堂の窓の向こうにマチアスが見ていた、あの池である。
もちろんウルもそれを知っていたのだが、とっさのことで失念してしまっていたのだ。
大きな波紋をこしらえて池に落ちたマチアスが、ほどなく水面へと浮き上がってくる。
「……くそ。びっくりさせるな」
ウルは柵を握り締めた手の甲に額を押し付けて、深々と安堵のため息をついた。
下の池ではマチアスが、バシャバシャと水をかきながら何やら叫び始める。
「ね、ねねねね、ねえ! ウル! ちょっと! 水の中になんかいたんだけど!?」
「いや、元気だな……なんかってなんだ。魚じゃないのかよ」
「ちちち、ちがうよぉ! なんかでっかくて……こわいかおのやつ!」
「でっかくて、怖い顔のやつ……?」
動転するあまり語彙力が死んでいるマチアスに片眉を上げると、ウルは自分と柵の間に割り込んできたちっちゃいのを見下ろした。
でっかくて怖い顔のやつ、というのが、以前その口からも出た言葉だったからだ。
「マイリちゃんよぅ、でっかくて怖い顔のやつに心当たりは?」
「ウル、全ての世界はつながっておる。そこな池とて、母上の住まう屋敷の池や湖とも、海とも──もちろん、マチアスの国の湖ともつながっておる」
二人がそんな会話をしているうちに、水音に気づいた侍従やら侍女やら庭師やらがなんだなんだと集まってくる。
ところが、マチアスを助けにいち早く池に飛び込んだのは、いつの間にか庭に下りていた犬だった。
ヴォルフ帝国から彼と一緒に馬車に乗ってきた、あの平々凡々とした犬だ。
すいすいと犬かきでマチアスにたどり着いた犬は、その襟首を咥えて岸まで引っ張ってきた。
ここでようやく護衛騎士も到着し、池から主人を引っ張り上げる。
そうして無事生還を果たしたずぶ濡れの男を見下ろし、柵の間からマイリが笑った。
「な? 最初の装備じゃったら、おぬし死んでおったであろ?」
レベル一の勇者は、呆気に取られた顔をする。
確かに、姉に着せられたあの重装備で池に落ちれば溺れていたかもしれないし──最悪の場合、死んでいたかもしれない。
先見の明に長けたちっちゃなヴィンセント王妃はさらに、真っ白いローブの中からあるものを取り出して見せた。
「おぬしがウルに届けるべき書簡は、実はここにある」
「えっ……いつの間に!?」
「ソマリのところで服を引っぺがした拍子にうばった」
「序盤だよぅ……」
マイリの手にあったのは、封蝋にヴォルフ皇帝家の印璽が捺された真っ白い封筒だ。
マイリはそれウルに押し付けると、再び柵の間から顔を覗かせて言った。
「ヴォルフ帝国特使としてのおぬしは、もう用済みじゃ。そのまま、馬車に乗って祖国へ帰れ」
「そんな……」
とたんに泣きそうな顔をしたマチアスを見下ろし、じゃが、とマイリは続ける。
「ウルの友としてならば──もう一度、ここまで上ってこい」
マチアスが、はっとした顔をした。
縋るように見上げてくる彼に頷き返し、マイリはにっこりと微笑む。
「マチアスよ、おぬしはやればできる子じゃ。もう、わらわが手を引いてやらずとも、ここまで来れるであろう?」
「マイリ様……」
「おのれの過ちを認めるのならば、ここにきてウルに謝れ。生きてさえおれば、償うことも挽回することもできる──そう申したウルの気持ちを無駄にするな」
「は、はいっ……」
濡れた頬を乱暴に拭って、マチアスが立ち上がった。
彼の水色の瞳は池の水面のように光を湛え、ここでようやく、まっすぐにウルを見つめる。
ウルは、ツンと鼻の奥が痛むのを感じつつ、わざと厳めしい顔を作って言った。
「こいよ、マチアス」
「うん……」
「そして、一発殴らせろ」
「えー……ウルの拳は痛そうだなぁ……」
情けない声を上げたマチアスだったが、次の瞬間には猛然と駆け出した。
騒ぎを聞きつけて集まっていたヴィンセントの人々が、ようやく覚醒した勇者に自然と道を開ける。
再びダンジョンの攻略に挑む彼の新しいパーティーは、厳つい面構えのモブ騎士と、平々凡々とした一匹の犬だった。
「一件落着でございますな」
マチアスの奮起を見届けて室内に戻ってきたウルとマイリ、そしてロッツを、フェルデン公爵がくすくすと笑いながら迎える。
彼は結局、最後までソファから動かなかった。
マチアスが池に落ちる一因となったドンロなど、ちゃっかりその隣で寛いでいる。
フェルデン公爵は、亡き友の名を持つ彼の黒い毛並みを撫でながら、穏やかな声で孫娘に声をかけた。
「マイリ、マチアス殿下を許して差し上げるのかな?」
「マチアスが、ちゃんと自分でウルに謝りにきたら許す。そう、レベッカと約束したからな。わらわは、約束は違えぬ」
胸を張ってそう答えたマイリを、ウルが抱き上げる。
向かい合わせになるように正面に抱えれば、ちっちゃなふくふくの両手が伸びてきてウルの頬を包み込んだ。
「申したであろう。悪いようにはせぬ、と。マチアスは、ウルが大事に思う人間じゃ。ウルが大事にするものは、わらわも大事にする」
柔らかな指先が、目元を優しく辿る。ウルはそっと目を閉じた。
「ないてもよいぞ」
幼い声が、優しく彼の心に響く。
「マチアスが生きておってほっとしたろう? おぬしが泣いても、わらわはけして笑わぬ」
マイリは笑わずとも、ロッツとフェルデン公爵には全力で笑われそうだ、というのはともかくとして、ウルは首を横に振った。
「泣かん」
「ふん、強がりを言いおって。しょうがないやつめ」
食堂で、鬼畜面の守衛に舌打ち交じりに言われた通りだ。
ウルは、このちっちゃくて可愛い妻に、こんなにも深く愛されている。
その喜びを噛み締めるように、彼は小さな温もりをそっと抱き締めるのだった。
「マイリ」
「なんじゃ」
「ありがとうよ」
「うむ!」
ところでである。
ダンジョンを攻略する勇者の前に、最後に立ち塞がる強敵といえば、やはり魔王であろう。
憑き物が取れたような顔をして三階まで戻ってきたマチアスの前にも、最終戦にふさわしい相手が立ち塞がった。
「ごきげんよう、マチアス──あなた、随分とつまらないことをしたわね」
「ア、アシェラ……あはは……ひ、久しぶり……」
乳飲み子を抱いたマイリの母、アシェラである。
ヒンメル王立学校長ダールグレン公爵の長女である彼女も、ウルやロッツと同様、マチアスとは共に青春を謳歌した間柄だ。
ようやく首が据わった第二子シトラを旧友にお披露目するという名目で王宮を訪れたアシェラは、バルコニーから落ちたマチアスと入れ替わるように宰相執務室の扉を潜った。
迎えを任されたのか、その背後には鬼畜面の妖精さん改め守衛のケットがずうんと立っている。
「あなたの卑屈は、今に始まったことではないけれど」
「あ、ああ、あの……アシェラ……?」
美しい顔に憂いを載せた相手を前に、勇者の足はガクガクと震えて内股になる。
もちろんアシェラも、マチアスがクーデターを起こして処刑寸前まで行ったことを知っていた。
友達が命を落としそうになったと聞いたら、心配のあまり無茶をしたことを責めたくもなるだろう。
両手を差し出したマイリにシトラを預けると、アシェラはそれはそれは麗しく微笑んだ。
「マチアス、お尻を出しなさい──ぶってあげます」
「ひ、ひぇえええ、魔王の微笑み……ご! ごご! ごめんなさい……っ!!」」
白魚のような手がぐっと握り込まれたのを見て、勇者が飛び上がる。
『わはは! いいぞ、母よ! やってしまえ!』
「これ、マチアスよ。魔王は母ではなく、こっちのシトラじゃぞ?」
半泣きで逃げ惑うマチアスと、それを猛然と追いかけるアシェラ。
赤ん坊の姿をした魔王シトラが手足をばたつかせて笑い、マイリが一人大真面目に突っ込んでいる。
おろおろする護衛騎士とその肩をポンするケットは、やはり凄まじい顔面だ。
フェルデン公爵とドンロは相変わらずソファから動かないし、エリックは初めて目にしたアシェラの形相に呆気に取られている。
犬は、いつの間にかウルの側におすわりをして、ぷりぷりとしっぽを振っていた。
ウルはその薄茶色の毛に覆われた頭を撫でながら、苦笑いを浮かべて騒動を眺めていたが……
「僕も、アシェラにお尻をぶたれたい」
などと、ロッツが真顔で呟いたのには聞こえないふりをした。
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