25歳のキミへ

naomikoryo

文字の大きさ
10 / 11

第9話:代償としての消失

しおりを挟む
目が覚めたとき、自分が誰なのか、一瞬わからなかった。

いや、名前は思い出せる。氷室蓮。
年齢も、住んでいる町のことも、働いている図書館のことも。
けれど、そのすべてが“何かに上書きされたような”感覚があった。

まるで“自分自身”が、自分の中から抜け落ちていくような。

蓮は、ふらつきながら洗面所へ向かう。
鏡の中の顔。
変わらないはずのそれが、妙に他人のように見えた。

(これは……)

思考がまとまらない。
記憶の糸が、ところどころ切れている。
昨日食べた昼ご飯が思い出せない。
子どもの頃の誕生日の記憶が一部曖昧になっている。

——違う。これは“普通の忘却”じゃない。

存在の輪郭が、少しずつ滲んでいる。



干渉装置は、今も机の引き出しに眠っている。
だが、その表面には今までなかった亀裂が走っていた。
データベースには「制御エラー」「基準座標の不一致」といったエラーログが次々に蓄積されている。

(もう、これ以上……過去に触れることはできない)

システムが崩壊しつつある。
それと同時に、蓮の存在情報も、世界から剥がれ始めていた。

——選び続けた結果だった。

翔太の命を救った。
その代償に、葵が世界から消えた。
葵を取り戻そうとすれば、また別の“誰か”が消える。
父が記したとおり、世界は歪みの帳尻を合わせるために“存在”を消すことで均衡を保っている。

だが今——世界が“蓮自身”に均衡を求めてきた。
 


昼下がり、図書館のカウンターに立っていたときだった。

「あの……蓮さんって、どなたですか?」

振り返ると、後輩の職員、佐野が不思議そうな顔でこちらを見ていた。

「……俺だよ、佐野」

「え……でも、名簿に“蓮”って名前、ないんですけど……。今日いきなり来た新人さんかと……」

(……はじまった)

職場から、自分の登録情報が消えている。
長年働いていたはずの自分のデスクには、見知らぬ女性職員の名札が置かれていた。

次に訪れたコンビニでも、同じような反応をされた。
「会員番号が無効になってます」
「履歴にお名前が見つかりません」

どこにも、自分がいない。

(これは、“世界が俺を拒んでいる”んじゃない……)

——“世界が俺を忘れようとしている”。
 


帰宅して、急いで母のもとへ向かった。
玄関の扉を開けると、懐かしい味噌の香りが鼻をかすめた。
台所に立つ母の姿が見える。
だが、母は蓮に気づくと、少しだけ怪訝そうな顔をした。

「……ごめんなさい、どちら様?」

「……母さん、俺だよ」

「……私に息子はいないけど……」

——突き刺すような現実。

声が出なかった。
涙も出なかった。
ただ、世界の“齟齬”が静かに、自分の内側に侵食していくのを感じていた。

(消えるのは、誰かじゃない。……今度は、俺なんだ)



夜。
蓮は、父のノートを広げていた。
ページの隅に、手書きで記されていた走り書き。

「存在が消えるとき、それでも“痕跡”を残す唯一の方法がある。
それが、“手紙”だ。時間を超える唯一の証明。
それがあれば、存在は“届く”。記憶には残らずとも、魂には届く」

父は最期の手段を示していた。
手紙——情報——“言葉”。
それだけが、世界に“届くもの”として残る。

ならば。

蓮は、最後のページを破り、10歳の自分に向けた手紙を書き始めた。

震える手。
かすむ視界。
もう、自分が自分である保証は、どこにもなかった。

けれど、その手紙にだけは、自分という存在を“刻みつける”ことができる。

「翔太を救ったのは、君だ。
葵の存在を覚えていなくても、その喪失の痛みを忘れるな。
選んだことを、後悔してもいい。
でも、どうか、消えたものに“意味”を与えてくれ。
この世界に、誰かがいたという証を、残してくれ。
——君は、君でいてくれ」

書き終えた手紙を、封筒に入れる。
封筒にはただ一言。

「10歳の君へ」

干渉装置にその手紙を挿入する。
目的地:15年前。
出力は不安定だったが、もう他に方法はなかった。

手紙を送ることで、自分の痕跡を“誰かの心”に託す。
たとえ、自分が世界から消えても——
それが“証”となる。
 

カチリとスイッチが入り、装置が最後の光を放つ。

——これで、終わりだ。

蓮は目を閉じた。
何も聞こえなくなる瞬間、遠くから、誰かの声が聞こえた気がした。

「ありがとう」

声は、彼女の声に似ていた。
名前は……思い出せない。
でも、確かに、心が温かくなった。

そのまま、蓮の姿は——音もなく、空気の中へと溶けていった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

【完結】限界離婚

仲 奈華 (nakanaka)
ミステリー
もう限界だ。 「離婚してください」 丸田広一は妻にそう告げた。妻は激怒し、言い争いになる。広一は頭に鈍器で殴られたような衝撃を受け床に倒れ伏せた。振り返るとそこには妻がいた。広一はそのまま意識を失った。 丸田広一の息子の嫁、鈴奈はもう耐える事ができなかった。体調を崩し病院へ行く。医師に告げられた言葉にショックを受け、夫に連絡しようとするが、SNSが既読にならず、電話も繋がらない。もう諦め離婚届だけを置いて実家に帰った。 丸田広一の妻、京香は手足の違和感を感じていた。自分が家族から嫌われている事は知っている。高齢な姑、離婚を仄めかす夫、可愛くない嫁、誰かが私を害そうとしている気がする。渡されていた離婚届に署名をして役所に提出した。もう私は自由の身だ。あの人の所へ向かった。 広一の母、文は途方にくれた。大事な物が無くなっていく。今日は通帳が無くなった。いくら探しても見つからない。まさかとは思うが最近様子が可笑しいあの女が盗んだのかもしれない。衰えた体を動かして、家の中を探し回った。 出張からかえってきた広一の息子、良は家につき愕然とした。信じていた安心できる場所がガラガラと崩れ落ちる。後始末に追われ、いなくなった妻の元へ向かう。妻に頭を下げて別れたくないと懇願した。 平和だった丸田家に襲い掛かる不幸。どんどん倒れる家族。 信じていた家族の形が崩れていく。 倒されたのは誰のせい? 倒れた達磨は再び起き上がる。 丸田家の危機と、それを克服するまでの物語。 丸田 広一…65歳。定年退職したばかり。 丸田 京香…66歳。半年前に退職した。 丸田 良…38歳。営業職。出張が多い。 丸田 鈴奈…33歳。 丸田 勇太…3歳。 丸田 文…82歳。専業主婦。 麗奈…広一が定期的に会っている女。 ※7月13日初回完結 ※7月14日深夜 忘れたはずの思い~エピローグまでを加筆修正して投稿しました。話数も増やしています。 ※7月15日【裏】登場人物紹介追記しました。 2026年1月ジャンルを大衆文学→ミステリーに変更しています。

処理中です...