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第9話:代償としての消失
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目が覚めたとき、自分が誰なのか、一瞬わからなかった。
いや、名前は思い出せる。氷室蓮。
年齢も、住んでいる町のことも、働いている図書館のことも。
けれど、そのすべてが“何かに上書きされたような”感覚があった。
まるで“自分自身”が、自分の中から抜け落ちていくような。
蓮は、ふらつきながら洗面所へ向かう。
鏡の中の顔。
変わらないはずのそれが、妙に他人のように見えた。
(これは……)
思考がまとまらない。
記憶の糸が、ところどころ切れている。
昨日食べた昼ご飯が思い出せない。
子どもの頃の誕生日の記憶が一部曖昧になっている。
——違う。これは“普通の忘却”じゃない。
存在の輪郭が、少しずつ滲んでいる。
◆
干渉装置は、今も机の引き出しに眠っている。
だが、その表面には今までなかった亀裂が走っていた。
データベースには「制御エラー」「基準座標の不一致」といったエラーログが次々に蓄積されている。
(もう、これ以上……過去に触れることはできない)
システムが崩壊しつつある。
それと同時に、蓮の存在情報も、世界から剥がれ始めていた。
——選び続けた結果だった。
翔太の命を救った。
その代償に、葵が世界から消えた。
葵を取り戻そうとすれば、また別の“誰か”が消える。
父が記したとおり、世界は歪みの帳尻を合わせるために“存在”を消すことで均衡を保っている。
だが今——世界が“蓮自身”に均衡を求めてきた。
◆
昼下がり、図書館のカウンターに立っていたときだった。
「あの……蓮さんって、どなたですか?」
振り返ると、後輩の職員、佐野が不思議そうな顔でこちらを見ていた。
「……俺だよ、佐野」
「え……でも、名簿に“蓮”って名前、ないんですけど……。今日いきなり来た新人さんかと……」
(……はじまった)
職場から、自分の登録情報が消えている。
長年働いていたはずの自分のデスクには、見知らぬ女性職員の名札が置かれていた。
次に訪れたコンビニでも、同じような反応をされた。
「会員番号が無効になってます」
「履歴にお名前が見つかりません」
どこにも、自分がいない。
(これは、“世界が俺を拒んでいる”んじゃない……)
——“世界が俺を忘れようとしている”。
◆
帰宅して、急いで母のもとへ向かった。
玄関の扉を開けると、懐かしい味噌の香りが鼻をかすめた。
台所に立つ母の姿が見える。
だが、母は蓮に気づくと、少しだけ怪訝そうな顔をした。
「……ごめんなさい、どちら様?」
「……母さん、俺だよ」
「……私に息子はいないけど……」
——突き刺すような現実。
声が出なかった。
涙も出なかった。
ただ、世界の“齟齬”が静かに、自分の内側に侵食していくのを感じていた。
(消えるのは、誰かじゃない。……今度は、俺なんだ)
◆
夜。
蓮は、父のノートを広げていた。
ページの隅に、手書きで記されていた走り書き。
「存在が消えるとき、それでも“痕跡”を残す唯一の方法がある。
それが、“手紙”だ。時間を超える唯一の証明。
それがあれば、存在は“届く”。記憶には残らずとも、魂には届く」
父は最期の手段を示していた。
手紙——情報——“言葉”。
それだけが、世界に“届くもの”として残る。
ならば。
蓮は、最後のページを破り、10歳の自分に向けた手紙を書き始めた。
震える手。
かすむ視界。
もう、自分が自分である保証は、どこにもなかった。
けれど、その手紙にだけは、自分という存在を“刻みつける”ことができる。
「翔太を救ったのは、君だ。
葵の存在を覚えていなくても、その喪失の痛みを忘れるな。
選んだことを、後悔してもいい。
でも、どうか、消えたものに“意味”を与えてくれ。
この世界に、誰かがいたという証を、残してくれ。
——君は、君でいてくれ」
書き終えた手紙を、封筒に入れる。
封筒にはただ一言。
「10歳の君へ」
干渉装置にその手紙を挿入する。
目的地:15年前。
出力は不安定だったが、もう他に方法はなかった。
手紙を送ることで、自分の痕跡を“誰かの心”に託す。
たとえ、自分が世界から消えても——
それが“証”となる。
カチリとスイッチが入り、装置が最後の光を放つ。
——これで、終わりだ。
蓮は目を閉じた。
何も聞こえなくなる瞬間、遠くから、誰かの声が聞こえた気がした。
「ありがとう」
声は、彼女の声に似ていた。
名前は……思い出せない。
でも、確かに、心が温かくなった。
そのまま、蓮の姿は——音もなく、空気の中へと溶けていった。
いや、名前は思い出せる。氷室蓮。
年齢も、住んでいる町のことも、働いている図書館のことも。
けれど、そのすべてが“何かに上書きされたような”感覚があった。
まるで“自分自身”が、自分の中から抜け落ちていくような。
蓮は、ふらつきながら洗面所へ向かう。
鏡の中の顔。
変わらないはずのそれが、妙に他人のように見えた。
(これは……)
思考がまとまらない。
記憶の糸が、ところどころ切れている。
昨日食べた昼ご飯が思い出せない。
子どもの頃の誕生日の記憶が一部曖昧になっている。
——違う。これは“普通の忘却”じゃない。
存在の輪郭が、少しずつ滲んでいる。
◆
干渉装置は、今も机の引き出しに眠っている。
だが、その表面には今までなかった亀裂が走っていた。
データベースには「制御エラー」「基準座標の不一致」といったエラーログが次々に蓄積されている。
(もう、これ以上……過去に触れることはできない)
システムが崩壊しつつある。
それと同時に、蓮の存在情報も、世界から剥がれ始めていた。
——選び続けた結果だった。
翔太の命を救った。
その代償に、葵が世界から消えた。
葵を取り戻そうとすれば、また別の“誰か”が消える。
父が記したとおり、世界は歪みの帳尻を合わせるために“存在”を消すことで均衡を保っている。
だが今——世界が“蓮自身”に均衡を求めてきた。
◆
昼下がり、図書館のカウンターに立っていたときだった。
「あの……蓮さんって、どなたですか?」
振り返ると、後輩の職員、佐野が不思議そうな顔でこちらを見ていた。
「……俺だよ、佐野」
「え……でも、名簿に“蓮”って名前、ないんですけど……。今日いきなり来た新人さんかと……」
(……はじまった)
職場から、自分の登録情報が消えている。
長年働いていたはずの自分のデスクには、見知らぬ女性職員の名札が置かれていた。
次に訪れたコンビニでも、同じような反応をされた。
「会員番号が無効になってます」
「履歴にお名前が見つかりません」
どこにも、自分がいない。
(これは、“世界が俺を拒んでいる”んじゃない……)
——“世界が俺を忘れようとしている”。
◆
帰宅して、急いで母のもとへ向かった。
玄関の扉を開けると、懐かしい味噌の香りが鼻をかすめた。
台所に立つ母の姿が見える。
だが、母は蓮に気づくと、少しだけ怪訝そうな顔をした。
「……ごめんなさい、どちら様?」
「……母さん、俺だよ」
「……私に息子はいないけど……」
——突き刺すような現実。
声が出なかった。
涙も出なかった。
ただ、世界の“齟齬”が静かに、自分の内側に侵食していくのを感じていた。
(消えるのは、誰かじゃない。……今度は、俺なんだ)
◆
夜。
蓮は、父のノートを広げていた。
ページの隅に、手書きで記されていた走り書き。
「存在が消えるとき、それでも“痕跡”を残す唯一の方法がある。
それが、“手紙”だ。時間を超える唯一の証明。
それがあれば、存在は“届く”。記憶には残らずとも、魂には届く」
父は最期の手段を示していた。
手紙——情報——“言葉”。
それだけが、世界に“届くもの”として残る。
ならば。
蓮は、最後のページを破り、10歳の自分に向けた手紙を書き始めた。
震える手。
かすむ視界。
もう、自分が自分である保証は、どこにもなかった。
けれど、その手紙にだけは、自分という存在を“刻みつける”ことができる。
「翔太を救ったのは、君だ。
葵の存在を覚えていなくても、その喪失の痛みを忘れるな。
選んだことを、後悔してもいい。
でも、どうか、消えたものに“意味”を与えてくれ。
この世界に、誰かがいたという証を、残してくれ。
——君は、君でいてくれ」
書き終えた手紙を、封筒に入れる。
封筒にはただ一言。
「10歳の君へ」
干渉装置にその手紙を挿入する。
目的地:15年前。
出力は不安定だったが、もう他に方法はなかった。
手紙を送ることで、自分の痕跡を“誰かの心”に託す。
たとえ、自分が世界から消えても——
それが“証”となる。
カチリとスイッチが入り、装置が最後の光を放つ。
——これで、終わりだ。
蓮は目を閉じた。
何も聞こえなくなる瞬間、遠くから、誰かの声が聞こえた気がした。
「ありがとう」
声は、彼女の声に似ていた。
名前は……思い出せない。
でも、確かに、心が温かくなった。
そのまま、蓮の姿は——音もなく、空気の中へと溶けていった。
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