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05)月光と金魚
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1. 湯けむりの夜
夏の夜、蝉の声も一段落したころ、尚人は町の片隅にある古い銭湯にふらりと入った。
実家の風呂が壊れたのがきっかけだった。エアコンもなく蒸し暑い家にいるよりも、どこか別の空気に触れたくなったのだ。
「いらっしゃい」
番台にいたのは、白い浴衣を着た少女だった。髪を後ろに結い、団扇を片手に持っている。彼女の視線は、尚人の背丈ほどのガラス水槽に向けられていた。
水槽の中では、赤や白の金魚が静かに泳いでいる。蛍光灯の光を受けて、鱗がちらちらと輝いていた。
尚人は思わず訊いた。「この金魚、飼ってるの?」
少女は振り向いて微笑んだ。
「うん、私が世話してるの。もう10年くらい」
彼女の笑顔は、どこか懐かしいような、遠い記憶に触れるような優しさがあった。
「私、美結。ここの娘なの」
「尚人。家、すぐ近く」
「じゃあ、また来る?」
「……気が向いたら」
本当は、すぐにでもまた来ようと思っていた。
2. 金魚と花火と夜風と
それから数日、尚人は毎晩のように銭湯に通った。湯に浸かったあとの身体に、夜風が気持ちいい。帰る前に番台の美結と少し話すのが、密かな楽しみになっていた。
話題はたわいのないことばかりだった。
「ここのお湯、ちょっと熱すぎない?」
「昔ながらだからね。慣れるとクセになるよ」
「金魚の名前、つけてんの?」
「ううん。でも、見れば誰が誰かわかる」
そんな風に笑う彼女に、尚人は少しずつ心を奪われていった。
ある夜、美結が浴衣姿で現れた。
「今日は、盆踊りなの。お客さんの合間に、ちょっとだけ見に行ってくる」
「俺も……行こうかな。誘われてないけど」
「誘ってるつもりなんだけど?」
そう言って、美結は尚人の目を見た。
盆踊りの会場は、商店街の広場だった。提灯が揺れ、太鼓の音が町に響く。屋台の灯りが滲んで、どこか夢の中のようだった。
二人はわたあめを買って、端のベンチに並んで座った。とりとめもない話をして、笑って、時折黙って空を見上げた。
「私さ、もうすぐ引っ越すんだ」
ぽつりと、美結が言った。
「え?」
「父が体を壊してね。銭湯、閉めるの。だから来月には、東京の親戚の家に移ることになった」
尚人は返す言葉を見つけられなかった。あれほど心地よかった夏の空気が、急に胸の奥で重たく感じられた。
「今さらだけど……この夏、尚人くんと話せてよかった」
彼女はそう言って笑った。でもその笑顔の裏に、どこか張りつめた寂しさがあった。
3. 月光の下で
引っ越し前夜。尚人はいてもたってもいられず、再び銭湯を訪れた。
シャッターはもう半分下りていたが、光はついていた。扉を開けると、美結が水槽の前に座っていた。金魚に餌をやりながら、じっと水面を見つめている。
「最後に、来たくなってさ」
尚人の声に、美結は静かにうなずいた。
「うれしい。……来ると思ってた」
店内にはもう湯の香りもなく、静けさだけが残っていた。尚人は、隣に座った。
「金魚、どうするの?」
「連れて行けないから、おばあちゃんに預ける。……でもね、別れって、いつか必ず来るものでしょう?」
美結の言葉は穏やかだった。でも尚人には、それがあまりに切なくて、苦しかった。
「俺……好きだったよ。たぶん、初めて誰かのこと、こんな風に思った」
沈黙。水槽の中の金魚が静かに泳ぐ音だけが、ふたりの間を満たした。
「ありがとう」
美結が、そっと答えた。
「尚人くんは、まっすぐでやさしい。いつか、ちゃんと恋ができる人だと思う。だから、これは……とっておいて」
彼女が差し出したのは、小さな金魚のストラップだった。赤と白の金魚が寄り添っている。
「私の代わりに、そばに置いて」
尚人は、それを両手で受け取った。何も言えなかった。ただ、胸が締めつけられるように熱かった。
「最後に、お願いがあるの」
美結は、ふと尚人の手を取った。
「……手、つないでくれる?」
その手は、細くて、でも確かな温もりがあった。金魚のように儚くて、月光のように静かだった。
外に出ると、空には大きな月が浮かんでいた。
二人は何も言わずに、手をつないだまましばらく空を見上げていた。
4. そして秋が来た
夏が終わり、季節が秋に変わっても、尚人はあの金魚のストラップを持ち歩いた。
部屋の机の引き出しの中、時々そっと取り出しては、彼女の笑顔を思い出す。
あれは、確かに「初恋」だった。言葉にすれば簡単だけど、心の中ではいまだに名前のつけられない想い。
ふいに、金魚の泳ぐあの水槽が恋しくなる。
それでも、彼女が言っていたように、別れはいつか訪れるもの。
だけど――
「別れたって、忘れなきゃいけないわけじゃない」
そう思いながら、尚人は今日も空を見上げる。
月が静かに夜を照らしていた。
夏の夜、蝉の声も一段落したころ、尚人は町の片隅にある古い銭湯にふらりと入った。
実家の風呂が壊れたのがきっかけだった。エアコンもなく蒸し暑い家にいるよりも、どこか別の空気に触れたくなったのだ。
「いらっしゃい」
番台にいたのは、白い浴衣を着た少女だった。髪を後ろに結い、団扇を片手に持っている。彼女の視線は、尚人の背丈ほどのガラス水槽に向けられていた。
水槽の中では、赤や白の金魚が静かに泳いでいる。蛍光灯の光を受けて、鱗がちらちらと輝いていた。
尚人は思わず訊いた。「この金魚、飼ってるの?」
少女は振り向いて微笑んだ。
「うん、私が世話してるの。もう10年くらい」
彼女の笑顔は、どこか懐かしいような、遠い記憶に触れるような優しさがあった。
「私、美結。ここの娘なの」
「尚人。家、すぐ近く」
「じゃあ、また来る?」
「……気が向いたら」
本当は、すぐにでもまた来ようと思っていた。
2. 金魚と花火と夜風と
それから数日、尚人は毎晩のように銭湯に通った。湯に浸かったあとの身体に、夜風が気持ちいい。帰る前に番台の美結と少し話すのが、密かな楽しみになっていた。
話題はたわいのないことばかりだった。
「ここのお湯、ちょっと熱すぎない?」
「昔ながらだからね。慣れるとクセになるよ」
「金魚の名前、つけてんの?」
「ううん。でも、見れば誰が誰かわかる」
そんな風に笑う彼女に、尚人は少しずつ心を奪われていった。
ある夜、美結が浴衣姿で現れた。
「今日は、盆踊りなの。お客さんの合間に、ちょっとだけ見に行ってくる」
「俺も……行こうかな。誘われてないけど」
「誘ってるつもりなんだけど?」
そう言って、美結は尚人の目を見た。
盆踊りの会場は、商店街の広場だった。提灯が揺れ、太鼓の音が町に響く。屋台の灯りが滲んで、どこか夢の中のようだった。
二人はわたあめを買って、端のベンチに並んで座った。とりとめもない話をして、笑って、時折黙って空を見上げた。
「私さ、もうすぐ引っ越すんだ」
ぽつりと、美結が言った。
「え?」
「父が体を壊してね。銭湯、閉めるの。だから来月には、東京の親戚の家に移ることになった」
尚人は返す言葉を見つけられなかった。あれほど心地よかった夏の空気が、急に胸の奥で重たく感じられた。
「今さらだけど……この夏、尚人くんと話せてよかった」
彼女はそう言って笑った。でもその笑顔の裏に、どこか張りつめた寂しさがあった。
3. 月光の下で
引っ越し前夜。尚人はいてもたってもいられず、再び銭湯を訪れた。
シャッターはもう半分下りていたが、光はついていた。扉を開けると、美結が水槽の前に座っていた。金魚に餌をやりながら、じっと水面を見つめている。
「最後に、来たくなってさ」
尚人の声に、美結は静かにうなずいた。
「うれしい。……来ると思ってた」
店内にはもう湯の香りもなく、静けさだけが残っていた。尚人は、隣に座った。
「金魚、どうするの?」
「連れて行けないから、おばあちゃんに預ける。……でもね、別れって、いつか必ず来るものでしょう?」
美結の言葉は穏やかだった。でも尚人には、それがあまりに切なくて、苦しかった。
「俺……好きだったよ。たぶん、初めて誰かのこと、こんな風に思った」
沈黙。水槽の中の金魚が静かに泳ぐ音だけが、ふたりの間を満たした。
「ありがとう」
美結が、そっと答えた。
「尚人くんは、まっすぐでやさしい。いつか、ちゃんと恋ができる人だと思う。だから、これは……とっておいて」
彼女が差し出したのは、小さな金魚のストラップだった。赤と白の金魚が寄り添っている。
「私の代わりに、そばに置いて」
尚人は、それを両手で受け取った。何も言えなかった。ただ、胸が締めつけられるように熱かった。
「最後に、お願いがあるの」
美結は、ふと尚人の手を取った。
「……手、つないでくれる?」
その手は、細くて、でも確かな温もりがあった。金魚のように儚くて、月光のように静かだった。
外に出ると、空には大きな月が浮かんでいた。
二人は何も言わずに、手をつないだまましばらく空を見上げていた。
4. そして秋が来た
夏が終わり、季節が秋に変わっても、尚人はあの金魚のストラップを持ち歩いた。
部屋の机の引き出しの中、時々そっと取り出しては、彼女の笑顔を思い出す。
あれは、確かに「初恋」だった。言葉にすれば簡単だけど、心の中ではいまだに名前のつけられない想い。
ふいに、金魚の泳ぐあの水槽が恋しくなる。
それでも、彼女が言っていたように、別れはいつか訪れるもの。
だけど――
「別れたって、忘れなきゃいけないわけじゃない」
そう思いながら、尚人は今日も空を見上げる。
月が静かに夜を照らしていた。
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