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第3話:失われゆく記憶
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季節は、ゆっくりと進んでいた。
春の風はいつの間にか少し湿り気を帯び、遠くで夏の気配を運んでくる。
木々は新緑に覆われ、道ばたにはタンポポの綿毛が舞い始めていた。
直樹と瑠璃の時間も、静かに流れていた。
だけど、それは確実に「終わり」に向かっていた。
──直樹は、少しずつ変わり始めていた。
***
最初の異変は、ほんの些細なものだった。
ある日の朝、瑠璃が作った朝ごはんを前にして、直樹がぽつりと言った。
「これ……初めて食べる気がする」
目の前には、瑠璃が毎朝のように作っていた、卵焼きと味噌汁。
直樹自身、何度も「美味しい」と笑った料理だった。
なのに、彼は首をかしげて、本当に覚えていない様子だった。
「……そっか、初めて、だよね」
瑠璃は笑って誤魔化した。
本当は、違う。
何度も、何度も、食べたのに。
でも、直樹に不安を与えたくなくて、黙った。
彼の記憶が、少しずつ、瑠璃との時間を失い始めていることに──
瑠璃は気づいていた。
未来が、変わり始めている。
直樹を救うための代償として、
ふたりの記憶の糸が、少しずつほつれ始めていた。
***
それは、日に日に顕著になっていった。
ふたりで訪れた公園。
ベンチに腰掛け、瑠璃が「また来たね」と微笑んだ時──
直樹は、きょとんと首を傾げた。
「ここ、来たことあったっけ?」
その言葉に、胸がきしんだ。
手を握ろうとすると、直樹は自然に応じてくれる。
でも、その温もりに込められていたはずの「想い」は、少しずつ薄れている気がした。
瑠璃は、声を出さずに泣いた。
夜、彼が眠ったあと、枕元でそっと祈った。
──どうか、この奇跡が、もう少しだけ続きますように。
***
ある晩、
瑠璃は直樹に問いかけられた。
「なあ、瑠璃って、さ……」
ベッドに寝転がりながら、彼はぽつりと言った。
「……昔から、俺のこと、好きだったのか?」
その問いに、胸が詰まった。
──「昔から」という時間は、瑠璃にとっては「未来」であり、直樹にとっては「知らない時間」だった。
「うん、ずっと、好きだった」
瑠璃は、迷わず答えた。
直樹は、ふわりと笑った。
「そっか……何だか、不思議だな。
初めて会った気がするのに、すげぇ、懐かしいんだよ」
瑠璃は、何も言えずに頷いた。
心の奥で、
必死に叫んでいた。
──忘れないで。
──お願い、私たちの時間を、思い出して。
でも、そんな願いは届かないと、どこかでわかっていた。
未来を変えるためには、瑠璃の存在は、この世界から消えなければならない。
それが、彼女自身の選んだ運命だった。
***
次第に、直樹の記憶から、瑠璃との日々が抜け落ちていった。
スーパーで手を繋いで歩いたこと。
夜の公園で星を見たこと。
初めてのキッチンで一緒に作ったカレーライス。
すべてが、
すべてが、
直樹の中から、砂のようにこぼれ落ちていった。
瑠璃は、そのたびに胸が引き裂かれる思いだった。
でも、笑った。
絶対に泣かなかった。
彼を不安にさせないために。
最後まで、
「瑠璃」として、彼の隣にいるために。
***
──そして、決定的な瞬間が訪れた。
ある夜、
直樹はベッドの上で、瑠璃に向かって、ぽつりと言った。
「……ごめん、瑠璃」
「なに?」
瑠璃は、できるだけ明るい声で答えた。
直樹は、苦しそうに眉をひそめた。
「俺……お前と、どこで会ったんだっけ?」
心臓が止まりそうだった。
最初に出会った、あの日の雨の夕暮れ。
瑠璃が傘もささずに立っていた、あの奇跡の瞬間。
──それを、彼はもう、覚えていなかった。
瑠璃は、必死で笑った。
「大丈夫。覚えてなくてもいいよ」
「でも……」
「いいの。
今、こうして一緒にいる。それだけで十分」
瑠璃は、震える声でそう言った。
直樹は、安心したように微笑み、瑠璃の手を握った。
その温もりは、まだ確かにそこにあった。
けれど、心は少しずつ、確実に遠ざかっていた。
***
夜が明けると、瑠璃は一人、街を歩いた。
春の名残をとどめた風が、髪を撫でる。
目に映るすべてが、どこか儚く見えた。
手を伸ばしても、届かないものばかり。
まるで、夢の中にいるみたいだった。
「……もう、時間がない」
瑠璃は、ぽつりと呟いた。
直樹を救うための未来改変。
それが、もう最終段階に差し掛かっている。
彼を救えば、瑠璃の存在は完全に消える。
直樹の心からも、記憶からも。
でも、それでいい。
それが、瑠璃が未来から来た唯一の理由だった。
直樹の未来を、救うために。
たとえ、自分が消えても──。
瑠璃は、もう一度、
彼に出会えた奇跡に感謝しながら、
そっと目を閉じた。
静かに、静かに、
心の中で、彼の幸せを祈りながら。
──さよならは、まだ言わない。
最後の最後まで、
この奇跡を、抱きしめていたかったから。
春の風はいつの間にか少し湿り気を帯び、遠くで夏の気配を運んでくる。
木々は新緑に覆われ、道ばたにはタンポポの綿毛が舞い始めていた。
直樹と瑠璃の時間も、静かに流れていた。
だけど、それは確実に「終わり」に向かっていた。
──直樹は、少しずつ変わり始めていた。
***
最初の異変は、ほんの些細なものだった。
ある日の朝、瑠璃が作った朝ごはんを前にして、直樹がぽつりと言った。
「これ……初めて食べる気がする」
目の前には、瑠璃が毎朝のように作っていた、卵焼きと味噌汁。
直樹自身、何度も「美味しい」と笑った料理だった。
なのに、彼は首をかしげて、本当に覚えていない様子だった。
「……そっか、初めて、だよね」
瑠璃は笑って誤魔化した。
本当は、違う。
何度も、何度も、食べたのに。
でも、直樹に不安を与えたくなくて、黙った。
彼の記憶が、少しずつ、瑠璃との時間を失い始めていることに──
瑠璃は気づいていた。
未来が、変わり始めている。
直樹を救うための代償として、
ふたりの記憶の糸が、少しずつほつれ始めていた。
***
それは、日に日に顕著になっていった。
ふたりで訪れた公園。
ベンチに腰掛け、瑠璃が「また来たね」と微笑んだ時──
直樹は、きょとんと首を傾げた。
「ここ、来たことあったっけ?」
その言葉に、胸がきしんだ。
手を握ろうとすると、直樹は自然に応じてくれる。
でも、その温もりに込められていたはずの「想い」は、少しずつ薄れている気がした。
瑠璃は、声を出さずに泣いた。
夜、彼が眠ったあと、枕元でそっと祈った。
──どうか、この奇跡が、もう少しだけ続きますように。
***
ある晩、
瑠璃は直樹に問いかけられた。
「なあ、瑠璃って、さ……」
ベッドに寝転がりながら、彼はぽつりと言った。
「……昔から、俺のこと、好きだったのか?」
その問いに、胸が詰まった。
──「昔から」という時間は、瑠璃にとっては「未来」であり、直樹にとっては「知らない時間」だった。
「うん、ずっと、好きだった」
瑠璃は、迷わず答えた。
直樹は、ふわりと笑った。
「そっか……何だか、不思議だな。
初めて会った気がするのに、すげぇ、懐かしいんだよ」
瑠璃は、何も言えずに頷いた。
心の奥で、
必死に叫んでいた。
──忘れないで。
──お願い、私たちの時間を、思い出して。
でも、そんな願いは届かないと、どこかでわかっていた。
未来を変えるためには、瑠璃の存在は、この世界から消えなければならない。
それが、彼女自身の選んだ運命だった。
***
次第に、直樹の記憶から、瑠璃との日々が抜け落ちていった。
スーパーで手を繋いで歩いたこと。
夜の公園で星を見たこと。
初めてのキッチンで一緒に作ったカレーライス。
すべてが、
すべてが、
直樹の中から、砂のようにこぼれ落ちていった。
瑠璃は、そのたびに胸が引き裂かれる思いだった。
でも、笑った。
絶対に泣かなかった。
彼を不安にさせないために。
最後まで、
「瑠璃」として、彼の隣にいるために。
***
──そして、決定的な瞬間が訪れた。
ある夜、
直樹はベッドの上で、瑠璃に向かって、ぽつりと言った。
「……ごめん、瑠璃」
「なに?」
瑠璃は、できるだけ明るい声で答えた。
直樹は、苦しそうに眉をひそめた。
「俺……お前と、どこで会ったんだっけ?」
心臓が止まりそうだった。
最初に出会った、あの日の雨の夕暮れ。
瑠璃が傘もささずに立っていた、あの奇跡の瞬間。
──それを、彼はもう、覚えていなかった。
瑠璃は、必死で笑った。
「大丈夫。覚えてなくてもいいよ」
「でも……」
「いいの。
今、こうして一緒にいる。それだけで十分」
瑠璃は、震える声でそう言った。
直樹は、安心したように微笑み、瑠璃の手を握った。
その温もりは、まだ確かにそこにあった。
けれど、心は少しずつ、確実に遠ざかっていた。
***
夜が明けると、瑠璃は一人、街を歩いた。
春の名残をとどめた風が、髪を撫でる。
目に映るすべてが、どこか儚く見えた。
手を伸ばしても、届かないものばかり。
まるで、夢の中にいるみたいだった。
「……もう、時間がない」
瑠璃は、ぽつりと呟いた。
直樹を救うための未来改変。
それが、もう最終段階に差し掛かっている。
彼を救えば、瑠璃の存在は完全に消える。
直樹の心からも、記憶からも。
でも、それでいい。
それが、瑠璃が未来から来た唯一の理由だった。
直樹の未来を、救うために。
たとえ、自分が消えても──。
瑠璃は、もう一度、
彼に出会えた奇跡に感謝しながら、
そっと目を閉じた。
静かに、静かに、
心の中で、彼の幸せを祈りながら。
──さよならは、まだ言わない。
最後の最後まで、
この奇跡を、抱きしめていたかったから。
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