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第1部:序章 ままならぬ世へ
第4話:組合は、役所より面倒くさい。
しおりを挟む大牙を仕留めた一件から、さらに数日が過ぎた。
僕の日常は、相変わらず陽菜の家で世話になりながら、畑仕事を手伝うという、穏やかで代わり映えのしないものだった。しかし、僕の心の中には、あのチンピラたちとの一件以来、無視できない、どす黒い自己嫌悪の染みが、じわりじわりと広がっていた。
(気持ち悪い戦い方だった)
縁側で膝を抱え、夏の光を浴びてすくすくと育つ野菜を眺めながら、僕は何度となくあの光景を反芻する。
(ズルくて、陰湿で、正々堂々なんてものからは、最も遠いやり方だ)
陽菜は、あの後も「かっこよかった!」と無邪気に言ってくれたが、僕にはそれが信じられなかった。あれは、ただの異常な現象だ。英雄譚に出てくるような、剣と魔法の華々しい戦いとは、似ても似つかない。あんな力を使う僕を、彼女が心の底から受け入れてくれるはずがない。いつかきっと、化け物を見るような目で、僕を見ることになる。
そんな僕の鬱屈した思考を、カラリと晴れた空から降ってくるような、明るい声が打ち破った。
「宗一郎さん! 町、行こうよ、町!」
陽菜が、麦わら帽子を片手に、期待に満ちた瞳をきらきらと輝かせながら、僕の顔を覗き込んでいた。
「そのすごい力があれば、絶対に冒険者として稼げるって! ちゃんと組合に登録して、ちゃんとお金をもらって、そしたら、あたしにもちゃんとお礼をさせてほしいな」
彼女は、少しだけはにかみながら言った。
「あたし、宗一郎さんに助けてもらった恩、まだ何も返せてないから」
その、あまりにも真っ直ぐで、純粋な言葉に、僕はぐっと言葉に詰まる。
僕の心は、彼女の善意を受け取る準備が、まだ全くできていなかった。だが、彼女のこの申し出を断ることは、彼女のその純粋な気持ちを、無下(むげ)に踏みにじることになるのではないか。そんな考えが、ふと頭をよぎった。
「……分かった。行くだけ、行ってみる」
僕がそう答えると、陽菜は「やったー!」と、子供のようにはしゃいだ。その太陽のような笑顔に、僕の心の染みは、ほんの少しだけ、薄くなったような気がした。
陽菜の村から半日ほど歩いただろうか。のどかな田園風景が途切れ、やがて視界の先に、巨大な城壁と、その向こうにそびえる壮麗な天守閣が見えてきた。
「うわ……」
思わず、声が漏れた。
僕たちが辿り着いた町は、僕の想像を遥かに超えて、大きく、そして活気に満ち溢れていた。
道は綺麗に石畳で舗装され、その両脇には、白壁の土蔵や、瓦屋根の商家が、まるで時代劇のセットのようにずらりと立ち並んでいる。しかし、その光景の中に、奇妙なものが混じり合っていた。
行き交う人々の服装が、あまりにも多種多様なのだ。
腰に大小の刀を差し、侍のような格好をした男たち。優雅な着物に身を包み、日傘を差して歩く貴婦人。その横を、西洋ファンタジーで見たような、深いフードのついたローブを着た魔法使い風の一団が、何やら真剣な顔で通り過ぎていく。かと思えば、僕を助けてくれた時の陽菜のような、簡素な村着の少女たちが、きゃっきゃと楽しそうに団子を頬張っている。
僕の知る「日本」でもなければ、「中世ヨーロッパ」でもない。あらゆる文化が、まるでごった煮のように混ざり合い、それでいて不思議な調和を保っている。そんな奇妙で、しかし目がくらむほどに生き生きとした世界が、そこには広がっていた。
道のあちこちからは、香ばしい醤油の匂いや、甘い蜜の香り、そして未知の香辛料が混じり合った、食欲をそそる匂いが漂ってくる。人々の喧騒、荷馬車が石畳を駆ける音、どこかの店から聞こえてくる陽気な音楽。その全てが、生命力そのものとなって、僕の五感を激しく揺さぶった。
「すごいでしょ? ここが、この辺りで一番大きな町、朱雀(すざく)だよ」
陽菜が、自分のことのように胸を張って言った。
僕の胸の奥で、本当に、ほんの少しだけ、何かが高鳴るのを感じた。
冒険。
僕が、本の中でしか知らなかった、あの胸躍る言葉。
もしかしたら、ここなら。
こんなに活気に満ちた場所なら。
僕みたいな人間でも、何か、新しい自分を見つけられるかもしれない。
そんな、淡い、淡い期待が、僕の心にかすかな光を灯していた。
陽菜に案内されて僕たちが辿り着いたのは、町の中でもひときわ大きく、立派な建物だった。古い庄屋の屋敷を改装したのだろうか、重厚な瓦屋根と、黒光りする太い柱が、長い歴史を感じさせる。その門前には『冒険者協同組合』と書かれた、大きな木の看板が掲げられていた。
「ここだよ」
陽菜に促され、おそるおそるその門をくぐると、むっとするほどの熱気と喧騒が、僕の全身を包み込んだ。
内部は、想像していたよりもずっと広く、そして混沌としていた。
酒と汗、そして燻された木の匂いが混じり合った、独特の空気。天井からは、使い込まれたランタンがいくつも吊り下げられ、その煤けた光が、屈強な男たちの顔に深い陰影を落としている。
奥の壁際には、巨大な依頼掲示板が設置され、その前には何組かのパーティが、真剣な顔つきで紙を睨みつけている。カウンターの向こうでは、組合の職員と思しき人々が、書類の束を片手に、忙しなく走り回っていた。
「見たかよ、昨日のワイバーン! 俺の火球一発で、丸焦げよ!」
「馬鹿言え、ありゃ俺の剣が翼を切り裂いたからだろうが!」
テーブル席では、大声で武勇伝を語り合う冒険者たちの、がなり声のような笑い声が響き渡っている。
僕は、その光景に完全に圧倒されていた。
すごい。
本当に、ファンタジーの世界みたいだ。
僕の胸に宿った、あの淡い期待の光が、さらに少しだけ、その輝きを増したような気がした。
「さ、行こうよ、宗一郎さん! 登録しないと始まらないよ!」
陽菜にぐいぐいと背中を押され、僕は、カウンターの中でも一番、人の良さそうな、若い女性職員が座る窓口へと、おどおどと向かった。
「あ、あの……。冒険者の、新規登録を、お願いします」
緊張で、声が少しだけ上ずる。
受付の女性は、にこやかな、完璧な営業スマイルを僕に向けると、完全にマニュアル通りの、しかし非常に丁寧な口調で応対してくれた。
「はい、新規ご登録ですね。ようこそ、朱雀冒険者協同組合へ。わたくし、担当の鈴木と申します」
彼女は、丁寧にお辞儀をすると、カウンターの下から、分厚い紙の束を取り出した。
「では、まず、こちらの三枚の書類にご記入をお願いできますでしょうか。『組合加入申請書』、それから『身元経歴書』、『魔法・技能自己申告書』になります」
渡された書類の量に、僕はまず面食らった。
(多いな……)
まあ、でも、これくらいは仕方ないか。ファンタジーの世界とはいえ、身元確認くらいは、ちゃんとするのだろう。
僕は、備え付けの羽ペンをインク壺に浸し、ぎこちない手つきで、名前を書き始めた。
しかし、僕の異世界への淡い幻想が、日本の役所もかくやというほどの徹底した官僚主義の前に、無残にも砕け散るまで、そう時間はかからなかった。
悪夢は、最初の質問から始まった。
「はい、ありがとうございます。では、いくつか口頭でご確認させていただきますね。相田宗一郎様。ご本籍は、どちらになりますでしょうか?」
「本籍……?」
聞き慣れないようで、聞き慣れた言葉に、僕の思考は停止する。
(本籍? 俺の本籍は、日本の……って、言えるわけないだろ!)
「ええと……、その、訳あって、あまり昔のことは、よく覚えていなくて」
僕がしどろもどろに答えると、鈴木さんは「まあ」と、少しだけ同情的な表情を見せた。
「記憶喪失、ということですね。承知いたしました。では、こちらの『身元不明者仮登録申請書』も追加でご記入をお願いします。後日、記憶が戻られた際には、速やかに『登録情報変更届』をご提出ください」
さらりと、四枚目の書類が追加された。
「次に、身元保証人様はいらっしゃいますか?」
「ほ、保証人……?」
「はい。当組合では、新規登録者様には、既に組合員である方、もしくは町で信頼のある方(商家のご主人など)一名様からの保証をいただく規定となっております」
(いるわけないだろ!)
僕は、隣で呑気に茶を啜っている陽菜の顔をちらりと見たが、彼女はまだ組合員ではないらしい。ふるふると首を横に振っている。
「保証人様がいらっしゃらない場合、保証金として銀貨五十枚を先にお預かりするか、組合が指定する奉仕活動(町の清掃や、下水道の魔物駆除など)に三ヶ月間、無償で従事していただくことで、保証に代えることも可能ですが、いかがなさいますか?」
(金もなければ、三ヶ月もタダ働きなんて、冗談じゃない!)
僕の顔が青ざめていくのを見て、陽
菜が助け舟を出してくれた。
「あ、あの! この人、あたしの村で森の主を倒したんです! 村長が、きっと保証人になってくれます!」
その言葉に、鈴木さんの目が、ほんの少しだけ、見開かれたような気がした。
「……承知いたしました。では、後日、村長様の署名入りの保証書をご提出ください。それまでは『仮登録』という形になります」
なんとか、その場は切り抜けた。しかし、地獄はまだ終わらない。
「次に、魔法・技能の自己申告についてですね。『転移』、と。これはまた、大変珍しい御力ですね」
鈴木さんは、僕の申告書を見て、初めて少しだけ感情のこもった声を上げた。しかし、すぐにまた業務的な表情に戻る。
「『転移』のような特殊技能に関しましては、悪用防止の観点から、こちらの『特殊技能の適正利用に関する誓約書』にもご署名をいただいております。なお、違反が確認された場合、組合法第七十三条に基づき、組合員資格の剥奪、及び、王国法に基づき厳罰に処せられますので、裏面に記載されております約款の第四項から第十八項までを、特によくお読みの上、ご署名ください」
差し出されたのは、もはや書類というより、小さな本と呼ぶべきレベルの、文字がびっしりと書き込まれた冊子だった。
僕の中で、何かが、ぷつりと切れる音がした。
(話が違う!)
(異世界って、もっとこう、ギルドマスターみたいな、顔に傷のある渋いおっさんが出てきて、「おう、お前、なかなか見どころがあるじゃねえか! よし、今日からお前も組合員だ!」みたいな、そういうノリの場所じゃなかったのかよ!)
(なんだよ身元保証人って! 保証金って! 約款って! ここは市役所の戸籍課か!)
(ああ、めんどくさい、めんどくさい、めんどくさい!)
(なんで俺は、死んでまで、こんな死ぬほど面倒くさい手続きをしなきゃいけないんだ!)
僕の心の叫びも虚しく、手続きは淡々と進んでいく。
写真を撮ります、と言われ、魔道具のようなもので顔写真を撮られた。指紋ならぬ「魔紋」を登録させられた。挙げ句の果てには、「組合費は年会費制となっておりますが、一括払いと分割払いのどちらになさいますか?」と、ローン契約のような質問までされる始末。
隣では、陽菜がいつの間にか買ってきた団子を「おいしいねえ」と、幸せそうに頬張っている。その、あまりにも平和な光景が、僕の疲弊しきった神経を、さらに逆撫でした。
結局、半日近くを書類との格闘に費やし、僕がようやく一枚の真新しい、銅製の組合員証を手にできた頃には、窓の外の空は、すっかり夕暮れの色に染まっていた。
僕は、ぐったりと椅子に座り込んだまま、抜け殻のようになっていた。
(結局、どこへ行ったって、世界は『ままならない』し、『面倒くさい』んだな……)
異世界への淡い期待は、現実という名の分厚い書類の束の前に、跡形もなく消え去っていた。
僕の異世界での冒険は、かくして、冒険とは名ばかりの、膨大な事務手続きから始まることになったのだった。
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