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第3部:王都の陰謀と穢れの森
第29話:転移魔法という、世界のバグ。
しおりを挟む戦いは、もはや戦闘と呼べる代物ではなかった。
それは、一方的な蹂躙。あるいは、常識という名の薄いガラスが、理不尽という名の鉄槌によって、無慈悲に、そして徹底的に打ち砕かれていく、ただの破壊の光景だった。
「第一隊、盾を構えろ! 奴らの動きに惑わされるな、陣形を維持しろ!」
近衛騎士団長の、檄を飛ばす声が響き渡る。
彼の率いる騎士団は、間違いなくこの国の精鋭だった。訓練通り、完璧な連携で妖怪の群れに応戦する。最前列の兵士たちが構える大盾は、まるで鉄壁の城壁のように見えた。
しかし、その城壁は、あまりにも脆く、そして無意味だった。
一体の妖怪が、墨を滴らせながら、滑るように盾へと突進する。騎士は、全身の力を込めてその衝撃に備えた。だが、彼の盾に、衝撃は永遠に訪れなかった。
妖怪の体は、まるで濃い霧か、あるいは実体のない幻影のように、ずぶり、と音もなく、彼の盾と、その奥にある鎧を、何の手応えもなくすり抜けた。
「なっ……!?」
騎士が驚愕の声を上げる間もなく、彼の背後から、同じ妖怪が、再び実体を持って現れる。その黒い爪が、鎧の隙間を的確に捉え、一瞬のうちに、彼の命を刈り取った。
「馬鹿な! 物理攻撃が効かんのか!」
「第二隊、槍で突け! 聖なる気を込めろ!」
後列の兵士たちが、穂先に神聖な気をまとわせた槍を繰り出す。しかし、その穂先もまた、妖怪の体に触れる寸前で、まるで陽炎の中へと消えるように、その実体を失った。
逆に、妖怪の攻撃は、こちらの常識という土俵を、完全に無視していた。
地面に溶け込んだかと思うと、兵士の足元のぬかるみから、不意に無数の黒い触手となって突き出し、その体を絡め取っていく。
木の幹に姿を消したかと思うと、全く別の、背後の枝から奇襲をかけてくる。
「魔法部隊、聖なる光で焼き払え!」
後方から放たれた、浄化の炎と聖なる光の矢が、妖怪の群れに着弾する。しかし、それらの神聖なエネルギーもまた、妖怪の黒い体に命中する寸前で、まるで闇に吸い込まれるかのように、シュン、と音もなく消滅してしまった。
歴戦の騎士たちが、初めて遭遇する「理不尽」の塊。
自分たちが長年積み重ねてきた剣の技も、血の滲むような訓練で培った連携も、そして神に祈りを捧げて得た聖なる力も、その全てが、目の前の化け物には全く通用しない。
その絶望的な事実が、彼らの屈強な精神を、内側から、じわじわと蝕んでいく。
「な、何なのだ、こいつらは……!」
「我々の剣は、誇りは、全く通用しないというのか!」
士気は、見る見るうちに下がっていく。陽菜と小雪姫が必死に維持している浄化の結界だけが、かろうじて妖怪たちの直接的な侵入を防いでいる最後の砦だった。だが、その結界もまた、断続的な攻撃を受けるたびに、バチリ、と悲鳴のような音を立てて光を弱め、二人のか細い肩が、小刻みに震えているのが遠目にも分かった。
玄の、神速と謳われた剣ですら、その実体を捉えきれず、何度も、何度も、悔しそうに空を切っていた。
地獄。
まさしく、地獄絵図だった。
その地獄絵図のような戦いを、俺は、最後方で、腕を組んで、ただ冷静に観察していた。
俺の周りだけが、まるで分厚いガラスで隔てられているかのように、静かだった。
俺の目には、恐怖も、混乱も、焦りもなかった。あるのは、目の前で起きている不可解な現象に対する、純粋な好奇心と、それを解き明かそうとする、冷徹な分析の思考だけだった。
(なるほど。これは、厄介だな)
騎士たちの悲鳴も、玄の舌打ちも、遠い世界の出来事のように聞こえる。俺の意識は、完全に内側へと向いていた。
(実体がないように見えて、質量は確かにある。攻撃が当たった時に、結界はちゃんと反応して光を減衰させている。つまり、奴らは『常に存在する』のではなく、『出現したり、消えたり』を高速で繰り返している? いや、違うな。それなら、玄さんほどの速度なら、出現した一瞬を捉えられるはずだ)
(ということは、常にそこに『いる』のに、物理的な干渉だけを、選択的に受け付けない、という感じか。まるで、オンラインゲームのバグみたいだ。当たり判定がおかしくなってるキャラクター。倒せない無敵の敵)
俺の脳裏に、現世で没頭していたゲームの記憶が、不意に蘇る。システムの穴を突いて、本来ならダメージを受けるはずの攻撃を、壁をすり抜けることで無効化する、悪質なプレイヤー。
目の前のこいつらは、まさにそれだ。この世界という名の巨大なゲーム盤の上で、許されざるバグ技を使い、一方的に俺たちを蹂躙している。
(どうやって倒す? バグは、正攻法では倒せない。ルールそのものを無視しているんだから。なら、答えは一つだ。バグを、さらに強力な、上位のバグで上書きするしかない)
思考が、加速していく。
こいつの、この妖怪の存在を定義している、根本的な『情報』そのもの。物理的な肉体じゃなくて、それをここに『在る』と規定している、プログラムのソースコードみたいなもの。それを、この空間から、丸ごと、別の場所に『転移』させたら、どうなるんだろう?
物理的に「破壊」するんじゃない。
概念的に「削除」するんだ。
この世界という名のプログラムから、こいつの存在データを、一行、ごっそりと。
俺は、一つの結論に達した。そして、その結論の、あまりの非人道性に、ほんの一瞬だけ、躊躇した。
だが、結界の中で、苦痛に顔を歪ませる陽菜の姿が視界に入った瞬間、その躊躇は、霧のように消え失せた。
俺は、結界を破って騎士の一人に襲いかかろうとしていた、一体の妖怪に、静かに、意識を集中させた。
そして、小さく、指を鳴らした。
パチン。
その、乾いた音。
瞬間、その妖怪の動きが、まるで古い映像が途切れるかのように、カクン、と不自然に止まった。
そして、その漆黒の体の輪郭が、まるでテレビの映像が乱れるように、ジジジッ、と音を立てて、ノイズ混じりにブレ始めた。
空間そのものから、微かな、電子音のような、この世界にあるはずのない異音が響く。
次の瞬間。
妖怪は、悲鳴を上げる間もなく、その姿が、まるで粗い解像度の画像データのように、ぶつぶつとしたピクセル状に分解されていく。
そして、シュンッ、と、まるで掃除機に吸い込まれるかのような、小さな、しかし奇妙に乾いた音と共に、空間から完全に「消滅」した。
そこには、何も残らなかった。
血も、肉片も、黒い瘴気すらも。
まるで、最初からそこに何も存在しなかったかのように。
世界のページから、その一文だけが、綺麗に消しゴムで消されたかのように。
俺は、その作業を、淡々と繰り返した。
パチン。
指を鳴らすたびに、一体。
パチン。
また、一体と。
絶望の化身であったはずの妖怪たちが、世界のソースコードから一行ずつ削除されていくように、次々と、静かに、消えていく。
その、あまりに異常な光景に、戦場の全ての者たちが、動きを止めた。
近衛騎士団の兵士たちは、目の前で起きている、全く理解不能な現象に、完全に思考が停止していた。口を半開きにし、ただ、妖怪が消えた後の空間を、虚な目で見つめている。「き、消えた?」「魔法、なのか? いや、あんな魔法は、見たことも、聞いたこともない」。恐怖と混乱が、やがて、後方で静かに指を鳴らし続ける、あの陰気な青年に対する、純粋な「畏怖」へと、その色を変えていった。
朱鷺さんと玄さんの表情も、凍りついていた。
ゴブリンの巣を沈黙させた時とも、アンデッドの群れを機能停止させた時とも、次元が違う。これは、戦闘技術ではない。世界の理(ことわり)そのものに、直接介入する、神か、あるいは悪魔の御業だ。彼らは、自分たちがパーティに引き入れようとしていた存在の、本当の恐ろしさを、今、この瞬間、骨の髄まで叩き込まれていた。
ただ一人。
輿の御簾の隙間から、その光景をじっと見つめていた、小雪姫だけが。
彼女の美しい瞳には、恐怖ではなく、初めて見る、一条の「希望」の光が、強く、強く、宿っていた。
俺は、指を鳴らし続ける。
その時、俺の脳裏に、かつてあの退魔師の少女、静が俺に告げた言葉が、不意に蘇っていた。
『あなたの力は、世界の理を歪めるもの』
ああ、そうか。
こういうことだったのか。
俺のこの力は、やっぱり、この世界にあってはならない、禁断の力なんだ。
世界のルールを、根底から覆す、システムのバグ。
俺は、その事実を、改めて、はっきりと自覚した。
そして、同時に、理解してしまった。
この、禁断の力こそが、姫を、穢れの中心まで導く、唯一の、鍵であるということも。
俺は、最後の一体が消滅するのを見届けると、静かに、呆然と立ち尽くす仲間たちに向かって、振り返った。
そして、できるだけ、いつも通りの、弱々しい声で、言った。
「あの、先に、進みませんか?」
一行は、この常軌を逸した力を先頭に、絶望の森の、さらに奥深くへと、再び、その歩みを進めていくのだった。
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