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第3部:王都の陰謀と穢れの森
第30話:森の最深部で待つ男と、姫の涙の理由。
しおりを挟む宗一郎の規格外の力によって、道中の妖怪の群れは、もはや障害にすらならなかった。
一行は、森のさらに奥深くへと、その歩みを進めていく。
進むにつれて、世界の歪みは、より一層、その濃度を増していった。ねじくれた黒い木々は、もはや植物としての原型を留めておらず、まるで大地から絞り出された黒い膿か、あるいは巨大な生物の肋骨のように、空に向かって歪に突き出している。
そして、ついに、俺たちは森の最深部に到達した。
そこは、巨大な、擂り鉢状の窪地になっていた。
そして、その中央には、どす黒く、油のように淀んだ、巨大な沼地が広がっていた。
沼の表面からは、絶えず、紫色の瘴気が、まるで巨大な生物の、静かだが規則正しい呼吸のように、ゆっくりと、ゆっくりと湧き出しては、鉛色の空へと溶けて消えていく。
空気は、もはや腐敗臭というレベルではなかった。それは、呼吸をするだけで、精神が内側から直接蝕まれていくような、濃密な「穢れ」そのものだった。
俺たちの周囲を護る、陽菜と小雪姫の張った浄化の結界が、バチッ、バチチッ、と激しい火花のような音を立てて、絶えず瘴気と拮抗している。結界に触れた瘴気は、まるで熱した鉄板に落ちた水滴のように、ジュッ、と音を立てて蒸発していく。光の壁一枚を隔てた向こう側は、まさしく死の世界。
二人の顔には、尋常ではない負荷がかかっているのが、見て取れた。陽菜の額には玉のような汗が浮かび、小雪姫の顔色は、陶器のように白く、血の気を失っている。
その禍々しい沼の中央に、天を突くかのように、一本の巨大な枯れ木が、墓標のようにそびえ立っていた。
それは、かつてこの森の主だった神木が、穢れによって完全に生命を吸い尽くされた、哀れな骸だった。その姿は、まるで腐敗しきった世界の、どくどくと脈打つ「心臓」のようにも見えた。
そして、その神木の骸の根元に。
一人の、人影が、こちらに背を向けて、静かに立っていた。
これまでの妖怪たちとは、明らかに違う。
明確な知性と、そして、底知れないほどの強大な力を感じさせる、圧倒的な存在感。
彼こそが、この全ての元凶。「闇の住人」を束ねる、リーダーに違いなかった。
一行は、最後の決戦を前に、武器を構え、姫の輿を中心に、最後の陣形を組む。
空気が、張り詰めた弦のように、極限まで、緊張した。
近衛騎士団長が、自らを鼓舞するかのように、声を張り上げる。
「何者か! 姫君の御前である! 速やかにその正体を明かし、武器を捨てて投降せよ!」
その言葉は、静まり返った空間に、虚しく響き渡った。
男は、まるで取るに足らない、羽虫の羽音でも聞いたかのように、何の反応も示さない。ただ、静かに、目の前の、淀んだ沼の水面を見つめている。
その、無視するという行為が、逆に、彼の格の違いと、絶対的な自信を、雄弁に物語っていた。
一行が、どう動くべきか逡巡した、その時だった。
男が、ゆっくりと、本当にゆっくりと、こちらに、振り返った。
その顔を見た瞬間、俺は、思わず息を呑んだ。
穢れの王、と呼ぶには、その顔は、あまりにも気品に満ちていた。そして、驚くほどに若く、整っていた。
濡れたような艶のある黒髪が、風も無いのに、さらりと揺れる。雪のように白い肌は、この薄暗い森の中にあって、自ら発光しているかのように、蒼白く見えた。
そして、その瞳。
その瞳には、この世の全てを呪うかのような、深く、静かな悲しみと、その悲しみを燃料として、どこまでも燃え盛る、地獄の業火のような憎しみが、奇妙なバランスで、同居していた。
その顔を見た、その瞬間。
一行の中で、ただ一人。
小雪姫の輿の中から、か細く、息を呑む音が、響いた。
絹の御簾の隙間から覗く彼女の瞳が、信じられないものを見るかのように、大きく、大きく、見開かれていた。
「そん、な……ありえ、ません。あなたは、あの時……」
震える声が、誰の耳にも届くことなく、虚空に消える。
男は、他の誰にも、騎士団長にも、天下一である朱鷺にも、俺たち冒ENTURE者にも、一切目もくれず、ただ、輿の中にいる小雪姫だけを、じっと、見つめていた。
そして、その薄い唇が、ゆっくりと、開かれる。
その声は、憎しみと同時に、どこか深い愛情と、遠い昔を懐かしむような、不思議な響きを帯びていた。
「小雪。久しいな」
一行が、その言葉の意味を、全く理解できずに困惑する。
なぜ、この国の敵であるはずの男が、姫の名前を、そんなにも親しげに呼ぶのか。
男は、悲しげに、しかしどこか優しく、ふ、と微笑むと、この場の全ての常識を、世界の全てを、根底から覆す、決定的な言葉を、告げた。
「迎えに来てやったぞ。この、腐りきった世界から、お前を救い出すために」
そこで、彼は一度、言葉を切った。
そして、ゆっくりと、一言、一言を、刻みつけるように、言った。
「兄が」
その男の正体。
それは、十数年前に、王位継承を巡る政争に敗れ、国を追放され、そして、この国の公式記録の上では、とうの昔に「病死した」とされていた。
小雪姫の、唯一の、実の兄。
時雨(しぐれ)王子、その人だった。
なぜ、死んだはずの彼が、ここにいるのか?
なぜ、国の敵であるはずの「闇の住人」を率いているのか?
なぜ、最愛の妹であるはずの小雪姫を、あんなにも憎しみに満ちた瞳で、見つめるのか?
衝撃の事実に、その場にいた誰もが、完全に思考を停止させる。
小雪姫の、美しい瞳から、一筋の、熱い涙が、静かに、静かに、その白い頬を伝って、流れ落ちた。
「お兄様……」
物語は、単なる魔物退治から、国と、王家そのものを根底から揺るがす、壮絶で、そしてあまりにも悲しい、兄妹の物語へと、一気に、その舵を切った。
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