31 / 61
第4部:偽りの聖女と裏切りの王国
第31話:兄と妹と、血塗られた建国史
しおりを挟む時が、止まった。 いや、厳密には、彼らの思考が現実の速度についていくことを拒否しただけのことだ。 相田宗一郎の耳には、まだ沼地特有の、腹に響くような低い脈動が聞こえていた。湿り気を帯びた腐臭も、鼻腔の奥にこびりついたままだ。陽菜と小雪姫が必死に維持する浄化の結界が、高周波のような耳鳴りを伴ってきしむ音も、続いている。 世界は何も変わっていない。 ただ、たった今、あの沼地の中心に立つ男が放った言葉だけが、この場の理(ことわり)を根底から汚染し、塗り替えてしまった。
「小雪……よく来たな。兄が、お前を迎えに来てやったぞ」
その声は、決して大きくはなかった。むしろ、久方ぶりに再会した妹を慈しむかのように、静かでさえあった。だが、その響きに含まれた、数百年の怨念を煮詰めたかのような昏(くら)い熱量に、その場にいた誰もが呼吸を奪われた。 「あ……」 小雪姫の唇から、声にならない吐息が漏れた。 彼女の完璧に整えられた、聖女としての微笑み。それは、どんな絶望的な戦場にあっても民に希望を与えるという、王族としての強靭な意志によって保たれてきた仮面だった。その仮面が、音もなくひび割れ、砕け散っていく。 大きく見開かれた瞳が、信じられないものを見るかのように、しかし心のどこかではずっと分かっていたかのように、目の前の男――時雨(しぐれ)の姿に釘付けになる。 「おにい、さま……?」 ぽつり、と。まるで幼い子供が迷子になった時のような、か細い声が漏れた。 その瞬間、彼女の白い頬を、一筋の涙が伝った。 それは、ゆっくりと、ゆっくりと、重力という世界の法則を確かめるかのように、顎の先まで滑り落ちる。宗一郎は、なぜかその一滴の軌跡から、目が離せなかった。 涙は、彼女の華奢な顎の先端で、飽和点を超えた露のように一瞬とどまり、やがて、ぷつり、と虚空に身を投げた。 輿(こし)の床板に落ち、小さな染みを作るまでの、ほんのコンマ数秒。 その時間が、宗一郎には永遠のように長く感じられた。 彼がいた教室の、あの冷たい雨の日の放課後。嘲笑と無力感の中で意識が途絶える直前、無意味にスローモーションになった視界と、どこか似ていた。
「何を……何を馬鹿なことを言っている!」 最初に沈黙を破ったのは、近衛騎士団の団長だった。鋼鉄の兜(かぶと)の下で、その顔が恐怖と混乱で引きつっているのが声だけで分かる。 「時雨王子は十五年も前に、病で薨去(こうきょ)されたはずだ! 我ら近衛は、その葬列も、御陵(ごりょう)も、しかとこの目で見ている!」 「そうだ! 貴様、何者だ!」 「姫様のお心を惑わすための、卑劣な幻術か! あるいは、死者の姿を弄(もてあそ)ぶ、卑しい妖怪め!」 騎士たちが、次々に怒声に近い声を上げた。それは、時雨に向けられた怒りであると同時に、自分たちの信じてきた歴史、自分たちの忠誠を捧げた王家という「常識」が、目の前で崩れ去ることへの、本能的な恐怖の裏返しだった 。彼らにとって、時雨王子が生きていることは、あってはならないこと。彼が敵であることは、世界の終わりと同義だった。 「幻術、か」 時雨は、その言葉を嘲るかのように、静かに繰り返した。彼はゆっくりと、漆黒の衣(ころも)に包まれた腕を上げる。 その背後で、これまで沼の中心で不気味に脈動していた瘴気の渦が、主(あるじ)の感情に呼応するように、その勢いを増した。 ぐぽ、ごぼぼ、と。まるで大地の底で何かが嘔吐(えず)くようなおぞましい音が響き渡り、瘴気はただの霧ではなく、明確な「形」を取り始めた。それは、苦悶に歪んだ無数の顔、顔、顔。あるいは、助けを求めて虚空を掴もうとする、何千、何万もの腕のようにも見えた 。 「……っ!」 その光景に、歴戦の騎士たちが思わず剣の柄を握り直し、後ずさる。 「これが、幻術に見えるか。これが、お前たちの言う『妖怪』の正体だ」 時雨の声は、変わらず静かだった。 「お前たちが『平和』と『繁栄』の礎にしてきた、この土地の先住民たちの、声なき慟哭(どうこく)そのものだ」
朱鷺は、その男から目を逸らさずに、ただじっと見つめていた。 彼女の「天下一」の剣技は、相手の呼吸、筋肉の微細な動き、そして「気」の流れを読み切ることで成立する。その彼女の目が、目の前の男が放つ「気」の本質を、痛いほど正確に捉えていた。 (この人は、本物だ) それは、幻術や偽物などが放つ、空虚な脅しではない。彼の瞳の奥に宿る光は、朱鷺自身がその胸の奥底に封じ込めてきたものと、あまりにもよく似ていた。全てを奪われ、全てを憎み、ただ一つの目的のためだけに、他の全ての感情を殺して生きている者の光だった 。 隣に立つ玄が、低く唸るのが聞こえた。 「……おいおい、マジかよ。こりゃあ、とんでもねえモンを引き当てちまったぜ」 いつもの下品な冗談を言う余裕は、彼の声色から完全に消え失せていた。彼もまた、かつて自分が信じていた「正義」が、目の前で音を立てて崩壊した過去の記憶を、この光景に重ねているのかもしれなかった 。
宗一郎には、そんな高度な機微は分からない。 彼には、歴史の真実も、国の成り立ちも、どうでもよかった。 彼の目に映っているのは、ただ、輿の中で両手で口を覆い、声を殺して震え続けている、一人の少女の姿だけだった 。 (ああ、まただ) また、この世界も、同じなのだ。 どうしようもなく理不尽で、ままならない。 現世で、彼が教室の隅でいじめられていた時と同じだ。誰も助けてはくれない。理不尽な暴力や悪意が、絶対的な「力」として君臨し、弱い者はただ、それに耐え、心を殺すしかない。 小雪姫は、この国で最も敬われる「聖女」のはずだった。それなのに、今、彼女はあの教室の隅でうずくまっていた自分と、寸分違(たが)わぬ顔をしていた。 胸の奥が、冷たい水で満たされていくように、キリキリと痛んだ。
「お前たちが『建国神話』として学んできた物語は、嘘で塗り固められている」 時雨は、まるで古びた歴史書を淡々と読み上げるかのように、この国が隠蔽(いんぺい)してきた真実を語り始めた 。 「お前たちの祖先、建国王と呼ばれる男は、海の向こうから優れた技術と武力を持ってこの土地にやってきた、ただの侵略者だ」 「え……」 騎士の一人が、素っ頓狂な声を上げた。それは、この国の子供なら誰もが最初に教わる、「偉大なる建国王が、荒ぶる神々を鎮め、この地に平和をもたらした」という神話とは、根本から異なる物語だった。 「この土地には、元々、お前たちが『闇の住人』と蔑(さげす)んで呼ぶ、穏やかな民が暮らしていた」 時雨の言葉に合わせるかのように、背後の瘴気が、かつての光景を映し出す幻影(ビジョン)を結び始める。 そこには、獣のような耳や尻尾を持つ、しかし穏やかな瞳をした人々が、鬱蒼(うっそう)とした森の中で、木々や精霊と語り合い、調和して暮らす、原始的だが美しい世界が映し出されていた。 「彼らは、この星そのものと心を通わせ、その力――お前たちが『魔法』と呼ぶものとは比較にならぬ、根源的な力――を、自然の恵みとして享受していた。彼らは奪わず、ただ、共存していた」 幻影は、次の場面へと移る。 武装した建国王の一族が、彼らに友好的に接触する場面。 「だが、建国王は違った。彼はその力を『資源』として欲した。この土地を支配し、自らの王国を築くための『力』として、独占することを渇望したのだ」 そして、幻影は、阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄絵図へと変わる。 「友好の儀式」と偽って集められた闇の住人たちが、武装した兵士たちによって一方的に虐殺される光景 。抵抗する彼らの魂が、大地に穿(うが)たれた巨大な穴へと吸い込まれ、おぞましい秘術によって封印されていく様。 「……ひっ」 騎士の一人が、そのあまりの光景に、腰を抜かして尻餅をついた。 陽菜が、その幻影を、息を詰めて見つめていた。彼女の顔は蒼白だった。彼女が古文書で断片的に知っていた、あの忌まわしい歴史の記述 が、今、現実のものとして目の前で再生されていた。 「そして王家は、その封印した何万という魂の苦しみを『動力源』にして、一つの呪われたシステムを組み上げた。それが、お前たちが『神聖魔法』と呼ぶ、偽りの奇跡の正体だ」 時雨の言葉は、ついに核心へと至る。 「この国の美しい王都も、豊かな実りも、お前たちが享受する平和とやらの全てが、今この瞬間も大地の下で悲鳴を上げ続けている、闇の住人たちの犠牲と、涙と、憎しみの上に築かれた、ただの砂上の楼閣に過ぎんのだ」
「……嘘だ」 団長が、絞り出すように言った。 「嘘だ、嘘だ、嘘だ! 我らが姫様の、あの清浄なるお力は、民を癒し、国を守る聖なる光! そのような、そのようなおぞましいものであるはずがない!」 「聖なる光、か」 時雨は、初めて、その表情に人間らしい「侮蔑」の色を浮かべた。 彼の視線が、騎士たちを通り越し、輿の中で震える妹、小雪へと、真っ直ぐに注がれる。 「小雪。お前なら、知っているはずだ」 「……っ!」 小雪の肩が、大きく跳ねた。 「お前がその身に宿す、その『偽りの光』が、何を代償にして輝いているのかを」 時雨は、冷徹に、しかしどこか、泣いている子供に言い聞かせるかのように、最後の真実を突きつけた。 「お前が祈るたび、その清らかな歌声を捧げるたび、お前の身体に憑依(ひょうい)させられた同胞たちの魂が、どれほど深く傷つき、引き裂かれ、悲鳴を上げているのかを!」 「あ……あ……」 小雪は、耳を塞ごうとするかのように、両手で頭を抱えた。だが、その指の隙間から、無情な言葉は容赦なく染み込んでいく。 「お前は、この国で最も罪深い。我らの同胞の魂を弄(もてあそ)び、その苦しみを糧にして生きる、呪われた存在そのものだ」 それは、宣告だった。 この国が信じてきた「正義」と、唯一の希望であった「聖女」の存在を、根底から否定し、破壊する、絶望の宣告だった。 「さあ、小雪」 時雨が、ゆっくりと、その黒い腕を妹に向かって差し伸べる。 「その汚れた血ごと、その呪われた役割ごと、全てを我らに返してもらうぞ。お前を、その永劫(えいごう)の苦しみから、この兄が、救い出してやる」 宗一郎は、ただ、立ち尽くしていた。 まただ。また、どうしようもない。 彼が持つ「転移魔法」という最強のチート能力は、この絶望的な真実の前で、何の役にも立たなかった。物理的な距離を移動できても、この、人の心を縛り付ける「過去」や「真実」という名の牢獄からは、一ミリたりとも動かすことができない。 この世界もまた、彼のいた世界と同じように、決して「思い通りにはならない」 のだという、最初の諦観が、彼の全身を再び支配しようとしていた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
クラス転移したけど、皆さん勘違いしてません?
青いウーパーと山椒魚
ファンタジー
加藤あいは高校2年生。
最近ネット小説にハマりまくっているごく普通の高校生である。
普通に過ごしていたら異世界転移に巻き込まれた?
しかも弱いからと森に捨てられた。
いやちょっとまてよ?
皆さん勘違いしてません?
これはあいの不思議な日常を書いた物語である。
本編完結しました!
相変わらず話ごちゃごちゃしていると思いますが、楽しんでいただけると嬉しいです!
1話は1000字くらいなのでササッと読めるはず…
追放された味噌カス第7王子の異種族たちと,のんびり辺境地開発
ハーフのクロエ
ファンタジー
アテナ王国の末っ子の第7王子に産まれたルーファスは魔力が0で無能者と言われ、大陸の妖精族や亜人やモンスターの多い大陸から離れた無人島に追放される。だが前世は万能スキル持ちで魔王を倒し英雄と呼ばれていたのを隠し生まれ変わってスローライフを送る為に無能者を装っていたのだ。そんなルーファスはスローライフを送るつもりが、無人島には人間族以外の種族の独自に進化した先住民がおり、周りの人たちが勝手に動いて気が付けば豊かで平和な強国を起こしていく物語です。
「婚約破棄された転生令嬢ですが、王城のメイド五百人に慕われるメイド長になりました。なお元婚約者は私のメイドに土下座中です」
まさき
恋愛
社畜OLとして過労死した私は、異世界の令嬢・アリア・ヴェルナーに転生した。
目が覚めたら、婚約破棄されていた。
理由は「地味で面白みがない」から。
泣く暇もなかった。翌朝、王城のメイド採用面接に向かった。
最初は鼻で笑われた。雑用係からのスタートだった。
でも——前世で叩き込まれた仕事術と、一人ひとりの話を聞く姿勢で、少しずつメイドたちが集まってきた。
厨房が変わった。リネンが変わった。王城全体が変わっていった。
そして就任スピーチで宣言した。
「500人全員の名前を、覚えます」
冷酷と噂される王太子は、静かに見ていた。
悪役令嬢は妨害を仕掛けてきた。
元婚約者は——後悔し始めていた。
婚約破棄された令嬢が、500人に慕われるメイド長になるまでの物語。
なお元婚約者は、私のメイドたちの前で土下座中です。
ギャルい女神と超絶チート同盟〜女神に贔屓されまくった結果、主人公クラスなチート持ち達の同盟リーダーとなってしまったんだが〜
平明神
ファンタジー
ユーゴ・タカトー。
それは、女神の「推し」になった男。
見た目ギャルな女神ユーラウリアの色仕掛けに負け、何度も異世界を救ってきた彼に新たに下った女神のお願いは、転生や転移した者達を探すこと。
彼が出会っていく者たちは、アニメやラノベの主人公を張れるほど強くて魅力的。だけど、みんなチート的な能力や武器を持つ濃いキャラで、なかなか一筋縄ではいかない者ばかり。
彼らと仲間になって同盟を組んだユーゴは、やがて彼らと共に様々な異世界を巻き込む大きな事件に関わっていく。
その過程で、彼はリーダーシップを発揮し、新たな力を開花させていくのだった!
女神から貰ったバラエティー豊かなチート能力とチートアイテムを駆使するユーゴは、どこへ行ってもみんなの度肝を抜きまくる!
さらに、彼にはもともと特殊な能力があるようで……?
英雄、聖女、魔王、人魚、侍、巫女、お嬢様、変身ヒーロー、巨大ロボット、歌姫、メイド、追放、ざまあ───
なんでもありの異世界アベンジャーズ!
女神の使徒と異世界チートな英雄たちとの絆が紡ぐ、運命の物語、ここに開幕!
※不定期更新。
※感想やお気に入り登録をして頂けますと、作者のモチベーションがあがり、エタることなくもっと面白い話が作れます。
勘当された少年と不思議な少女
レイシール
ファンタジー
15歳を迎えた日、ランティスは父親から勘当を言い渡された。
理由は外れスキルを持ってるから…
眼の色が違うだけで気味が悪いと周りから避けられてる少女。
そんな2人が出会って…
荷物持ちを追放したら、酷い目にあった件について。
しばたろう
ファンタジー
無能だと思い込み、荷物持ちのレンジャーを追放した戦士アレクス。
しかし――
彼が切り捨てた仲間こそが、
実はパーティを陰で支えていたレアスキル持ちだった。
事実に気づいた時にはもう遅い。
道に迷い、魔獣に襲われ、些細な任務すらまともにこなせない。
“荷物持ちがいなくなった瞬間”から、
アレクスの日常は静かに崩壊していく。
短絡的な判断で、かけがえのない存在を手放した戦士。
そんな彼と再び肩を並べることになったのは――
美しいのに中二が暴走する魔法使い
ノー天気で鈍感な僧侶
そして天性の才を秘めた愛くるしい弟子レンジャー
かつての仲間たちと共に、アレクスはもう一度歩き出す。
自らの愚かさと向き合い、後悔し、懺悔し、それでも進むために。
これは、
“間違いを犯した男が、仲間と共に再び立ち上がる”
再生の物語である。
《小説家になろうにも投稿しています》
軽トラの荷台にダンジョンができました★車ごと【非破壊オブジェクト化】して移動要塞になったので快適探索者生活を始めたいと思います
こげ丸
ファンタジー
===運べるプライベートダンジョンで自由気ままな快適最強探索者生活!===
ダンジョンが出来て三〇年。平凡なエンジニアとして過ごしていた主人公だが、ある日突然軽トラの荷台にダンジョンゲートが発生したことをきっかけに、遅咲きながら探索者デビューすることを決意する。
でも別に最強なんて目指さない。
それなりに強くなって、それなりに稼げるようになれれば十分と思っていたのだが……。
フィールドボス化した愛犬(パグ)に非破壊オブジェクト化して移動要塞と化した軽トラ。ユニークスキル「ダンジョンアドミニストレーター」を得てダンジョンの管理者となった主人公が「それなり」ですむわけがなかった。
これは、プライベートダンジョンを利用した快適生活を送りつつ、最強探索者へと駆け上がっていく一人と一匹……とその他大勢の配下たちの物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる