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第4部:偽りの聖女と裏切りの王国
第32話:『穢れ』の正体と、理(ことわり)を書き換える力。
しおりを挟む時雨(しぐれ)が差し伸べた手は、絶望という名の招待状だった。 その言葉が、この場の空気を物理的に変質させた。 陽菜と小雪姫が、輿(こし)を中心に展開していた清浄な光の結界が、まるで極度の緊張に耐えかねたかのように、ピシ、ピシ、と音を立てて軋(きし)み始めた 。薄い氷に、無数の亀裂が走っていく。これまで森の瘴気を遮断していた神聖な光が、明らかにその輝きを失い、弱々しく明滅していた。
「これが、お前たちの言う『穢れ』の正体だ」
時雨の静かな宣言と共に、彼は結界の崩壊を待つまでもなく、その力を解放した。 沼が、叫んだ。 これまで地底の奥深くで抑え込まれていたものが、堰(せき)を切って噴出した。瘴気の濃度が、霧からインクのように、指数関数的に跳ね上がる。 「ぐ……っ!」 「息が……!」 結界の外縁にいた騎士たちが、喉を掻きむしって膝をつく。清浄な空気の最後の砦が、急速に汚染されていく。腐臭と、鉄の錆びた匂いと、そして、魂そのものが腐っていくかのような、形容しがたい絶望の匂いが辺りを満たした。
「聞くがいい」 時雨は、地獄の指揮者のように、ゆっくりと腕を広げた。 「大地に封じられた、我が同胞たちの、数百年分の悲しみと怒りの慟哭(どうこく)を!」
その言葉が、引き金だった。 瘴気は、もはやただの気体ではなかった。それは、意思を持った奔流(ほんりゅう)だった。 宗一郎は、見てしまった。 濃密な闇の奔流の中に、無数の、苦悶に歪んだ表情が浮かび上がっては消えていくのを 。それは何万、何十万という魂がミキサーにかけられ、一つの巨大な「苦しみ」の塊となったものだった。 森の木々が、その悲鳴に呼応するように、さらに歪み、ねじれ、黒く変色していく。 そして、地面が、動いた。 「ひいっ!」 騎士の一人が、足元を見て絶叫した。 一行が立っていた、かろうじて固さを保っていたはずの地面から、無数の黒い棘(とげ)のようなものが突き出してきた 。それは棘ではなかった。泥にまみれ、助けを求めるかのように虚空を掴もうとする、犠牲者たちの腕だった 。
「馬鹿な……こんな、こんなことが……」 近衛騎士団長が、恐怖に震える声を絞り出す。 「構わん! 陣形を組め! 姫様をお守りしろ!」 だが、その命令は、時雨の次の行動によって、あまりにも無意味なものと化した。 「無駄だ」 時雨は、ただ、静かに立っているだけだった。彼がゆっくりと、まるで何かを掴んで捻(ねじ)るかのように、虚空で手首を返した。 ただ、それだけで。 一行が立っていた地面そのものが、物理法則を完全に無視して、その「固い」という性質を失った 。 「なっ!?」 それは、地震による液状化などという、生易しい現象ではなかった。 大地が、「腐った泥」のように、どろり、と液状化したのだ 。いや、もはや泥ですらない。それは、この世のあらゆる物質が持つべき「定義」そのものを剥奪され、名状しがたい「何か」へと変質していた。 「足が……足が、沈む!」 「うわあああああ!」 重い鋼鉄の鎧(よろい)をまとった騎士たちから、次々と悲鳴が上がる。彼らは、抗(あらが)う術(すべ)もなく、その腐敗した大地へと足を取られ、まるで底なし沼のように沈んでいく 。助けようと手を伸ばした仲間も、バランスを崩して共に沈んでいく。 それは、戦闘ですらなかった。ただ、世界そのものに「拒絶」されているかのような、一方的な蹂躙(じゅうりん)だった。
「くそっ!」 宗一郎は、その悪夢のような光景を前に、咄嗟(とっさ)に自分の足場――まだ沈みきっていない、仲間たちが立っている最後の地面ごと、空間転移させようと意識を集中した。 (座標、指定! 安全な、森の外へ!) 彼の転移魔法は、この世界のルールを無視して、座標から座標へと「跳ぶ」力だ 。この腐った沼のルールなど、関係ないはずだった。 だが。 「なっ!?」 転移が、発動しない 。 いや、しようとはしている。彼の脳内には、いつものように転移先の座標軸が展開されようとする。しかし、その座標が、定まらない。 まるで、壊れたテレビの砂嵐のように、視界がノイズ混じりに激しく歪み、座標軸がぐにゃぐにゃに曲がって、定まるべき場所を失っている 。 「なんでだ!? なんで、発動しねえんだよ!」 初めての感覚だった。最強の切り札が、最強の逃げ道が、目の前で「使用不可」のラベルを貼られている。 彼の焦りと絶叫を聞き届けたかのように、時雨が、初めて彼に憐れむような視線を向けた。 「無駄だと言ったはずだ」 時雨の声は、冷たい真理の響きを伴っていた。 「俺の力は、この世界の法則(理)そのものに干渉し、内側から書き換える力」 彼は、沈みゆく騎士たちを無感情に見下ろしながら、宗一郎に解説して聞かせる。 「俺は今、この空間の『定義』そのものを、『腐敗』させているのだ」 時雨は、宗一郎の力の正体を見抜いているかのように、続けた。 「お前のような、既存の理(ルール)を無視して座標を移動させるだけの、表面的なバグ技(チートコード)では、俺の力には干渉できん」
宗一郎は、その言葉に、脳天を殴られたかのような衝撃を受けた。 (バグ技……? チートコード……?) その通りだった。 この世界が、一つの巨大で複雑なプログラム(OS)で動いているのだとしたら。 宗一郎の転移魔法は、そのOSのルールを無視して、無理やりワープする「チートコード」であり、システムの「バグ」のような力だ 。 だが、時雨の力は違う。 彼は、そのOSの根幹プログラムに直接アクセスし、ルールそのものを書き換える「管理者権限(アドミン)」を握っているのだ 。 「空間が腐敗する」というルールがOSに書き込まれた世界では、「空間を跳ぶ」というバグ技は、その前提条件(正常な空間)を失い、エラーを吐き出すしかない。 格が、違う。 これは、ゲームのプレイヤーと、ゲームの制作者との戦いだった。 宗一郎は、生まれて初めて、本能的な、どうしようもない焦りと「恐怖」を覚えた 。 いじめられていた時の恐怖とは違う。あれは「痛み」と「屈辱」への恐怖だった。 これは、抗(あらが)うことすら許されない、存在そのものを「削除」されることへの、絶対的な恐怖だった。
「小雪を渡せ。そうすれば、お前たちだけは見逃してやろう」 時雨は、最後の通告をする。 だが、その返答を待たず、結界の中から、矢のように二つの影が飛び出した。 「させるかあっ!」 朱鷺と玄だった。 朱鷺の神速の剣が、時雨の喉元を狙う。 玄の渾身の太刀が、その胴を薙(な)ぎ払わんと迫る。 この国最強の二人が、同時に仕掛けた、必殺の一撃。 しかし。 キィン、という甲高い音と共に、二人の刃は、時雨に届く数寸手前で、まるで目に見えない分厚い壁に阻まれたかのように、弾かれた。 「……!?」 「何だと!?」 二人の驚愕の声をよそに、時雨はゆっくりと、腐敗し、液状化した大地に手をかざした。 「理(ことわり)を解さぬ者には、力で示すしかない」 ごぼ、ごぼぼぼぼ! 腐敗した泥の沼から、二本の巨大な「腕」が、ゆっくりと、しかし抗(あらが)いようのない絶望と共に、せり上がってきた 。それは、先ほど沈んでいった騎士たちの怨念を塗り固めたかのように、禍々(まがまが)しい瘴気を放っている。 二本の巨大な土の腕は、天高く振り上げられ、朱鷺と玄、そして宗一郎たちが乗る最後の足場を、まとめて握り潰さんと、振り下ろされる。 それは、絶望的なほどに、ゆっくりとした動作だった 。 だが、その軌道上にいる彼らには、それが分かってしまった。 あの攻撃は、速さで回避するものではない。 この世界の「法則」そのものによって、「命中する」ことが、すでに決定付けられている一撃なのだと。 宗一郎は、自分の心臓が、恐怖で凍りついていく音を聞いた。
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