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第4部:偽りの聖女と裏切りの王国
第34話:王宮の嘘と、宰相の懺悔。
しおりを挟む空間が、悲鳴を上げた。 相田宗一郎が無理やり発動させた転移魔法の残滓(ざんし)が、王宮の一室に彼らを吐き出す。ぐにゃりと歪んだ視界が元に戻る感覚と、胃袋を直接掴(つか)まれて裏返されるような不快感が、強制的に意識を現実に引き戻した。 「……っ、げほっ!」 宗一郎は、床に手をつき、激しく咳き込む。鉄の味が混じった唾液(だえき)が、高価そうな絨毯(じゅうたん)の上に小さな染みを作った。鼻腔(びこう)の奥には、まだあの穢(けが)れの森の腐臭と、自らの血の匂いがこびりついている。 「……朱鷺、玄、しっかりせい!」 鉄斎の張り詰めた声が響く。彼は、小脇に抱えていた二人の身体を、絨毯の上に慎重に横たえた。朱鷺は気を失いかけており、その美しい顔は蒼白(そうはく)だった。左腕は瘴気(しょうき)に焼かれ、おぞましい火傷(やけど)を負っている。玄は、意識こそあるものの、泥まみれの身体で荒い呼吸を繰り返し、脇腹を押さえる指の間から、絶えず血が溢(あふ)れていた。 「陽菜さん!」 宗一郎が声を振り絞ると、陽菜が「はい!」と短く応(こた)え、既に小雪姫の輿(こし)に駆け寄っていた。だが、彼女は、ただ呆然(ぼうぜん)と立ち尽くす。 「姫様……」 輿の御簾(みす)は乱れ、中に座る小雪姫の姿が見えた。彼女は、怪我一つ負っていない。だが、その瞳は、まるで魂だけがどこか遠い場所に抜き取られてしまったかのように、虚(うつろ)に宙(ちゅう)を彷徨(さまよ)っていた。あの森で、兄と名乗る男、時雨(しぐれ)の言葉を聞かされてから、ずっとそのままだ。
重い、重い沈黙が、その一室を支配した。 血と泥と汗、そしてあの忌(い)まわしい瘴気の残り香が混じり合った、敗北の匂い。 窓の外には、王都の壮麗な姿が広がっていた。 折しも、太陽が西の地平線に沈む間際、空は燃えるような黄金色(こがねいろ)と、穏やかな群青色(ぐんじょういろ)のグラデーションに染め上げられている。遠くの神殿から、一日の終わりを告げる荘厳(そうごん)な鐘の音が、風に乗って微(かす)かに聞こえてきた。 平和だ。 あまりにも、穏やかで、美しい。 その窓の外の世界と、この室内の惨状(さんじょう)との、あまりの乖離(かいり)。まるで、この部屋だけが、現実から切り離された悪夢の中に取り残されたかのようだった。 「……団長は……」 生き残った数少ない騎士の一人が、壁に背を預けたまま、か細い声で呟(つぶや)いた。 「……戦死、されました。騎士団は……我々を除き、ほぼ、全滅です……」 その報告は、誰の心にも届いていないかのように、重苦しい空気に吸い込まれて消えた。報告した騎士本人も、その場で力尽きたように崩れ落ち、嗚咽(おえつ)とも呻(うめ)きともつかない声を漏らし始めた。
その時、重厚な扉が、軋(きし)むような音を立てて開かれた。 「……これは」 宰相だった。 彼がいつも身につけている、糊(のり)の効いた堅苦しい礼服は乱れ、その顔はここ数日で一気に十年は老け込んだかのように、やつれ果てていた。彼は、室内の惨状――血まみれの絨毯、負傷して倒れる天下一と剣豪、虚ろな姫、そして生き残った騎士の絶望――を順に見て取り、全てを察したように、その顔を苦痛に歪めた。 「……間に、合わなかったか」 「宰相閣下」 その声を発したのは、朱鷺だった。 彼女は、鉄斎の制止を振り切り、まだ満足に動かないはずの身体に鞭(むち)打って、壁に手をつきながら、ゆっくりと立ち上がった。負傷した左腕がだらりと垂れ、そこから滴(したた)る血が、彼女の着物の裾(すそ)をさらに赤黒く染めていく。 朱鷺は、よろめきながら宰相の前に進み出ると、その震える右手で、彼の胸ぐらを掴(つか)んだ。 「……っ!」 そのあまりの気迫に、宰相も、宗一郎も息を呑(の)む。 「お答えください」 朱鷺の瞳は、もはや復讐(ふくしゅう)の炎すら宿してはいなかった。そこにあったのは、信じていたもの、守るべきだと信じていたものの全てが、足元から崩れ去る瞬間に立ち会った者の、最後の、絶望的な問いだった。 「時雨王子の……あの男が語ったこと。この国の建国の歴史……闇の住人のこと……。全て、……全て、真実なのですか」
宰相は、朱鷺の弱々しい手を振り払おうともしなかった。 彼はただ、その問いを真正面から受け止め、そして、ゆっくりと、その場に膝から崩れ落ちた。 床に両手をつき、まるで重い荷物をようやく下ろすかのように、深く、深く、頭(こうべ)を垂れる。 「……真実、ですじゃ」 その一言は、絞り出すような、かすれた声だった。 だが、その一言は、この部屋の空気を、敗北のそれから、絶対的な「絶望」のそれへと、完全に変質させた。 朱鷺の手から、力が抜けた。彼女は、掴んでいた宰相の胸ぐらを放し、自らもまた、その場に座り込む。 「……そう、ですか」 その声には、もう何の感情もこもっていなかった。 「全て……時雨王子の、言う通りですじゃ」 宰相は、床に両手をついたまま、まるで数百年分の罪を一度に吐き出すかのように、全てを告白し始めた。 「我らが建国の祖は、この土地の先住民……『闇の住人』を虐殺(ぎゃくさつ)し、その魂を大地に封印することで、この国を築いた」 「……」 「時雨王子は、幼くしてその真実を知ってしまわれた。王家の血に流れる、そのおぞましい罪の歴史に耐えきれず、我らを憎み、国を出奔(しゅっぽん)なされた……。王家は、その醜聞(しゅうぶん)を隠すために、王子は病で薨去(こうきょ)されたと、偽りの発表をしたのですじゃ」 それは、この国が拠(よ)って立つ「正義」が、根底から偽りであったことを認める、完全な懺悔(ざんげ)だった。 だが、本当の地獄は、そこからだった。
宰相は、震える声で、顔を上げずに続けた。 「そして……姫様の、あの『神聖魔法』もまた……」 その言葉に、宗一郎は、心臓を直接冷たい手で掴まれたかのような悪寒(おかん)に襲われた。 「あの力もまた……呪われたものなのですじゃ」 宰相は、ついに、この国で最もおぞましい、最後の真実を口にした。 「あの秘術は……封印された闇の住人たちの魂を、王家の血を引く巫女(みこ)……すなわち、姫様のその御身体(おからだ)に、強制的に憑依(ひょうい)させ……」 「……やめろ」 宗一郎が、無意識に呟いていた。 だが、宰相は止まらない。 「その魂が、苦しみ、絶叫し、この世の理(ことわり)を拒絶する、その膨大(ぼうだい)な負のエネルギーを……『聖なる力』と偽(いつわ)って変換し、搾(しぼ)り取っているに、過ぎないのです……」
部屋の空気が、凍りついた。 陽菜が、両手で口を固く覆い、その瞳から大粒の涙をこぼし始める。玄は、壁に背を預けたまま、顔を隠すように深く俯(うつむ)き、その巨体を小刻みに震わせていた。 「……では」 宗一郎が、かろうじて声を絞り出した。 「では、姫様は……小雪さんは、それを……」 「……はい」 宰相は、宗一郎の問いを遮(さえぎ)った。 「小雪姫様は、物心(ものごころ)ついた頃……あの儀式をお受けになられた日より、その全ての真実を、知っておられました」 「……!」 「ご自分が祈るたび、その清らかな御声(みこえ)で歌うたび、その御身体の内側で、名も知らぬ魂たちが絶叫し、引き裂かれていることを……全て、ご存じの上で……」 宰相は、ついに顔を上げ、その涙に濡れた老いた瞳で、虚空(こくう)を見つめる姫の姿を仰(あお)いだ。 「それでも、姫様は……この国の民の平和と、安寧(あんねい)のためにと……たった、お一人で……その心を殺し、『聖女』を演じ続けてこられたのですじゃ……」
宰相の嗚咽(おえつ)だけが、夕暮れの静かな部屋に響き渡った。 朱鷺は、もはや何の反応も示さない。ただ、力なく床に座り込み、その焦点(しょうてん)の合わない瞳で、自分の手のひらに滴(したた)る血を見つめていた。 宗一郎は、その全てを聞きながら、言葉を失っていた。 彼は、ただ、虚ろな目で座り続ける小雪姫の姿を見つめていた。 (聖女……? 冗談じゃない) (なんだよ、それ……) (この人も、俺と同じじゃないか……。いや、違う。俺なんかよりも、ずっと、ずっと、何万倍も酷(ひど)い) 信じていた世界が、嘘だった。 頼るべき大人たちが、許されざる罪の「加害者」だった。 そして、ただ、か弱く、守られるべき存在だと思っていた一人の少女が、自分たち全員が束(たば)になっても敵(かな)わないほどの、壮絶(そうぜつ)で、救いのない「ままならない」運命に、たった一人で耐え続け、心を殺し続けていた。 宗一郎は、戦慄(せんりつ)した。 時雨という、あの圧倒的な「力」への恐怖とは、また種類の違う、この世界のどうしようもない「構造」そのものに対する、底知れない恐(おそ)ろしさを感じていた。 この国は、この世界は、一人の少女の、声なき絶叫を「贄(にえ)」にして、その平和な夕暮れを維持していたのだ。
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