35 / 61
第4部:偽りの聖女と裏切りの王国
第35話:心を閉ざす姫と、届かない手のひら
しおりを挟む宰相(さいしょう)の懺悔(ざんげ)が終わった後、部屋には本当の静寂(しじま)が訪れた。 それは、もはや重苦しいとか、息苦しいとか、そういう次元のものではなかった。まるで、音を吸い込む分厚い綿(わた)か、あるいは真空そのものに放り込まれたかのような、絶対的な「無」だった。 窓の外では、黄金色(こがねいろ)だった空が、最後の残照(ざんしょう)を燃やし尽くし、穏やかな夜の帳(とばり)へとその姿を変えていた。王都に一つ、また一つと灯(あか)る家々(いえいえ)の明かりは、まるで地上に撒(ま)かれた宝石のように美しく、平和そのものだった。 その、あまりにも皮肉なほどの静けさの中で。 ふっ、と。 まるで、ロウソクの火が、息を吹きかけられて消えるかのように。 輿(こし)の中に座る小雪姫から、それまで彼女の身体を包んでいた、清浄(せいじょう)で、どこか近寄りがたいほどの神聖なオーラが、跡形(あとかた)もなく掻(か)き消えた。 「あ……」 誰かが、息を呑む音がした。 ついさっきまで、そこに確かに存在していたはずの「聖女」の気配が、完全に消え失せていた。 後に残されたのは、ただ、美しい顔(かんばせ)をした、一人の少女だった。 いや、それですらなかった。 彼女は、感情を失っていた。 その瞳は、もう何も映してはいなかった。虚空(こくう)を見つめたまま、微動だにしない。これまで彼女の心をかろうじて支えていた、最後の細い糸が、宰相の告白という残酷(ざんこく)な真実によって、無慈悲(むじひ)に断ち切られてしまったのだ 。 彼女の心は、完全に、折れてしまった 。 「姫様! 小雪様!」 陽菜(ひな)が、その肩を揺さぶる。だが、反応はない。 まるで、精巧(せいこう)に作られた、魂の宿っていないガラス細工の人形のようだった 。 この国(くに)の、唯一(ゆいいつ)の希望だった。 穢(けが)れを浄化(じょうか)できる、最後の光だった。 その光が、今、完全に、消えた。 王国は、もはや時雨(しぐれ)の穢れに対抗する術(すべ)を、何一つ持たない、絶対的な絶望の淵(ふち)に立たされた 。
相田宗一郎(あいだそういちろう)は、その光景を、ただ、見ていた。 彼は、朱鷺(とき)や玄(げん)のように、この国の正義や歴史に裏切られたという怒りや絶望を感じていたわけではなかった。彼にとって、この国はまだ、陽菜と出会った、あの畳(たたみ)の匂(にお)いのする村の延長でしかなかったからだ。 だが、彼には、痛いほど、分かった。 あの、人形のように光を失った瞳が、何を意味するのか。 (ああ……) 宗一郎の脳裏(のうり)に、忘れたくても忘れられない光景が、鮮やかすぎるほどの色彩(しきさい)でフラッシュバックした。 冷たい雨が降る、放課後の教室。 薄暗い廊下(ろうか)に響く、嘲笑(ちょうしょう)。 埃(ほこり)っぽい隅(すみ)の机に突っ伏(つっぷ)し、ただ、嵐(あらし)が過ぎ去るのを待っていた自分。 誰にも助けてもらえない。 声の出し方も、忘れてしまった。 泣き方も、忘れてしまった。 痛みを感じないように、苦しみを感じないように、ただ、自分の心を殺す。 自分は、ここにいない。 自分は、石だ。 自分は、空気だ。 そうやって、心を殺して、殺して、殺し続けて、息を潜(ひそ)めていた、あの時の自分。 目の前の小雪の姿は、あの日の自分自身と、寸分違(たが)わぬほどに、重なって見えた 。 (この人も……同じだったんだ) (俺なんかよりも、ずっと、ずっと酷(ひど)い場所で、たった一人で、ずっと……) 胸の奥が、締め付けられる。 だが、その時、宗一郎の心に湧き上がってきたのは、いつもの自己憐憫(じこれんびん)や、無力感への諦(あきら)めではなかった。 それは、彼がこの異世界(いせかい)に来て、いや、生まれて初めて感じる、熱い、純粋(じゅんすい)な感情の奔流(ほんりゅう)だった。 (助けたい) それは、誰かに言われたからでも、義務(ぎむ)だからでも、ましてや英雄(えいゆう)になりたいからでもない。 ただ、目の前で、かつての自分と同じように心を殺してうずくまっている一人の人間を、このままにはしておけない、という魂の奥底からの叫び(さけび)だった 。 「姫様、こちらへ……」 侍女(じじょ)たちが、おそるおそる小雪の腕を取り、輿から降ろそうとする。彼女は、何の抵抗も示さず、まるで操(あやつ)り人形のように、その足を引きずった。 「……っ!」 宗一郎は、無意識に一歩、踏み出していた。 何ができる? 何を言えばいい? 「大丈夫だ」とでも言うのか? 何が大丈夫なんだ。 「俺が守る」とでも言うのか? 何から守れるんだ。 そうだ、俺には、力がある。 最強の、「転移魔法」が。 だが、彼は、その一歩を踏み出したまま、凍りついた。 最強の力。 それは、物理的な現象(げんしょう)を、この世界の理(ことわり)を無視して操(あやつ)るだけの力だ 。 時雨(しぐれ)の土の腕は、弾(はじ)き返せるかもしれない。 だが、この、凍りついた心は? この、絶望に閉ざされた、分厚い心の扉は? この力で、どうやって、その扉に触(ふ)れろと言うんだ? 転移魔法は、彼女の心の傷一つ、癒(いや)すことができない 。 宗一郎は、あの森で時雨に感じた「力の敗北」とは、まったく質の違う、どうしようもない、絶対的な「無力感」に打ちのめされていた 。 最強の力(チート)を持っているはずなのに、目の前で苦しんでいる、たった一人の少女を救う術(すべ)が、何一つ、ない 。 結局、俺は、あの教室の隅(すみ)で何もできなかった自分と、何も変わっていないじゃないか。
侍女たちに支えられ、小雪の虚(うつろ)な影(かげ)が、部屋の扉の向こうへと消えていく。 宗一郎は、その背中に、何の言葉もかけることができなかった。 朱鷺も、玄も、陽菜も、誰もが、自分の傷や、あまりにも重い真実に打ちのめされ、動けないでいた。 やがて、医師や役人たちが慌(あわ)ただしく部屋を出入りし、負傷者の手当てが始まった。喧騒(けんそう)が戻ってきた。だが、宗一郎の耳には、その音は、まるで分厚い水の中にいるかのように、遠く、くぐもってしか聞こえなかった。 彼は、いつの間にか、小雪が連れて行かれた、彼女の私室へと続く廊下(ろうか)に、一人で立っていた。 堅く、冷たく、そして壮麗(そうれい)な彫刻(ちょうこく)が施(ほどこ)された扉(とびら)。 その扉の向こう側で、彼女は今、どんな闇の中にいるのだろう。 宗一郎は、何もできないまま、ただ、その冷たい扉の前で、立ち尽くすことしかできなかった 。 (どうすれば……) (どうすれば、あの心を、救えるんだ?) それは、物理的な強さとは全く別の、彼が真(まこと)の主人公となるために、超えなければならない、最初の、そして最大の試練(しれん)だった 。 彼の本当の戦いが、今、この場所で、静かに始まろうとしていた 。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
クラス転移したけど、皆さん勘違いしてません?
青いウーパーと山椒魚
ファンタジー
加藤あいは高校2年生。
最近ネット小説にハマりまくっているごく普通の高校生である。
普通に過ごしていたら異世界転移に巻き込まれた?
しかも弱いからと森に捨てられた。
いやちょっとまてよ?
皆さん勘違いしてません?
これはあいの不思議な日常を書いた物語である。
本編完結しました!
相変わらず話ごちゃごちゃしていると思いますが、楽しんでいただけると嬉しいです!
1話は1000字くらいなのでササッと読めるはず…
追放された味噌カス第7王子の異種族たちと,のんびり辺境地開発
ハーフのクロエ
ファンタジー
アテナ王国の末っ子の第7王子に産まれたルーファスは魔力が0で無能者と言われ、大陸の妖精族や亜人やモンスターの多い大陸から離れた無人島に追放される。だが前世は万能スキル持ちで魔王を倒し英雄と呼ばれていたのを隠し生まれ変わってスローライフを送る為に無能者を装っていたのだ。そんなルーファスはスローライフを送るつもりが、無人島には人間族以外の種族の独自に進化した先住民がおり、周りの人たちが勝手に動いて気が付けば豊かで平和な強国を起こしていく物語です。
「婚約破棄された転生令嬢ですが、王城のメイド五百人に慕われるメイド長になりました。なお元婚約者は私のメイドに土下座中です」
まさき
恋愛
社畜OLとして過労死した私は、異世界の令嬢・アリア・ヴェルナーに転生した。
目が覚めたら、婚約破棄されていた。
理由は「地味で面白みがない」から。
泣く暇もなかった。翌朝、王城のメイド採用面接に向かった。
最初は鼻で笑われた。雑用係からのスタートだった。
でも——前世で叩き込まれた仕事術と、一人ひとりの話を聞く姿勢で、少しずつメイドたちが集まってきた。
厨房が変わった。リネンが変わった。王城全体が変わっていった。
そして就任スピーチで宣言した。
「500人全員の名前を、覚えます」
冷酷と噂される王太子は、静かに見ていた。
悪役令嬢は妨害を仕掛けてきた。
元婚約者は——後悔し始めていた。
婚約破棄された令嬢が、500人に慕われるメイド長になるまでの物語。
なお元婚約者は、私のメイドたちの前で土下座中です。
ギャルい女神と超絶チート同盟〜女神に贔屓されまくった結果、主人公クラスなチート持ち達の同盟リーダーとなってしまったんだが〜
平明神
ファンタジー
ユーゴ・タカトー。
それは、女神の「推し」になった男。
見た目ギャルな女神ユーラウリアの色仕掛けに負け、何度も異世界を救ってきた彼に新たに下った女神のお願いは、転生や転移した者達を探すこと。
彼が出会っていく者たちは、アニメやラノベの主人公を張れるほど強くて魅力的。だけど、みんなチート的な能力や武器を持つ濃いキャラで、なかなか一筋縄ではいかない者ばかり。
彼らと仲間になって同盟を組んだユーゴは、やがて彼らと共に様々な異世界を巻き込む大きな事件に関わっていく。
その過程で、彼はリーダーシップを発揮し、新たな力を開花させていくのだった!
女神から貰ったバラエティー豊かなチート能力とチートアイテムを駆使するユーゴは、どこへ行ってもみんなの度肝を抜きまくる!
さらに、彼にはもともと特殊な能力があるようで……?
英雄、聖女、魔王、人魚、侍、巫女、お嬢様、変身ヒーロー、巨大ロボット、歌姫、メイド、追放、ざまあ───
なんでもありの異世界アベンジャーズ!
女神の使徒と異世界チートな英雄たちとの絆が紡ぐ、運命の物語、ここに開幕!
※不定期更新。
※感想やお気に入り登録をして頂けますと、作者のモチベーションがあがり、エタることなくもっと面白い話が作れます。
勘当された少年と不思議な少女
レイシール
ファンタジー
15歳を迎えた日、ランティスは父親から勘当を言い渡された。
理由は外れスキルを持ってるから…
眼の色が違うだけで気味が悪いと周りから避けられてる少女。
そんな2人が出会って…
荷物持ちを追放したら、酷い目にあった件について。
しばたろう
ファンタジー
無能だと思い込み、荷物持ちのレンジャーを追放した戦士アレクス。
しかし――
彼が切り捨てた仲間こそが、
実はパーティを陰で支えていたレアスキル持ちだった。
事実に気づいた時にはもう遅い。
道に迷い、魔獣に襲われ、些細な任務すらまともにこなせない。
“荷物持ちがいなくなった瞬間”から、
アレクスの日常は静かに崩壊していく。
短絡的な判断で、かけがえのない存在を手放した戦士。
そんな彼と再び肩を並べることになったのは――
美しいのに中二が暴走する魔法使い
ノー天気で鈍感な僧侶
そして天性の才を秘めた愛くるしい弟子レンジャー
かつての仲間たちと共に、アレクスはもう一度歩き出す。
自らの愚かさと向き合い、後悔し、懺悔し、それでも進むために。
これは、
“間違いを犯した男が、仲間と共に再び立ち上がる”
再生の物語である。
《小説家になろうにも投稿しています》
軽トラの荷台にダンジョンができました★車ごと【非破壊オブジェクト化】して移動要塞になったので快適探索者生活を始めたいと思います
こげ丸
ファンタジー
===運べるプライベートダンジョンで自由気ままな快適最強探索者生活!===
ダンジョンが出来て三〇年。平凡なエンジニアとして過ごしていた主人公だが、ある日突然軽トラの荷台にダンジョンゲートが発生したことをきっかけに、遅咲きながら探索者デビューすることを決意する。
でも別に最強なんて目指さない。
それなりに強くなって、それなりに稼げるようになれれば十分と思っていたのだが……。
フィールドボス化した愛犬(パグ)に非破壊オブジェクト化して移動要塞と化した軽トラ。ユニークスキル「ダンジョンアドミニストレーター」を得てダンジョンの管理者となった主人公が「それなり」ですむわけがなかった。
これは、プライベートダンジョンを利用した快適生活を送りつつ、最強探索者へと駆け上がっていく一人と一匹……とその他大勢の配下たちの物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる