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第4部:偽りの聖女と裏切りの王国
第37話:朱鷺の静かな怒りと、玄の研ぎ澄まされた覚悟
しおりを挟む陽菜がもたらした「共存の儀式」という一条の光は、客室に淀んでいた絶望の空気を、ほんのわずかだが確かに揺り動かした 。 それは、分厚い雲の隙間から一瞬だけ差し込んだ陽光にも似ていた。 陽菜は、憔悴しきった顔に不釣り合いなほどの熱量を込め、古文書の解読結果を仲間たちに説明していた 。王家が隠蔽した歴史。封印ではなく、調和の道が存在した可能性。そして、その儀式には小雪姫の力と、彼女の一族に連なる者の力が必要であること 。 「だから、小雪様が……姫様の心が戻ってくれさえすれば、まだ!」 その言葉は、希望であると同時に、新たな絶望的な課題を示してもいた。 宗一郎は、その話を聞きながら、どうしようもない居心地の悪さを感じていた。正しいことを聞かされているはずなのに、素直に受け取れない。あまりにも巨大すぎる、自分たちの手には余る問題。彼は、また無意識のうちに、この重すぎる現実から心を閉ざそうとし始めていた。 玄は、腕を組んだまま黙って聞いていたが、その表情は険しい。「姫様の心が、ね。それが一番の難題じゃねえか」 だが、その中で、朱鷺の反応だけが異質だった。 彼女は、陽菜の発見に安堵の表情を見せるでもなく、かといって絶望するでもなく、ただ、凍てついた湖面のような静けさで、古文書の写しを見つめていた。 やがて彼女は、すっと立ち上がった。その所作は、いつものように滑らかで、音ひとつ立てなかった。 「朱鷺さん?」 陽菜が問いかける。 「陽菜さん、その古文書、お借りします。玄さん、宗一郎さん。少し、お付き合いいただけますか」 彼女の瞳には、いつもの穏やかな光はなかった。そこにあるのは、底の知れない、冷たい決意の色だった。
宰相の執務室は、王宮の奥深く、陽光が最も届きにくい北向きの棟にあった。 重厚な樫(かし)の扉を開けると、焚きしめられた高級な香の匂いと、古い紙の匂いが鼻をつく 。壁一面を埋め尽くす書棚には、革張りの背表紙が隙間なく並び、部屋の主の知性が、そのまま物理的な圧となって訪問者にのしかかるようだった。 宗一郎は、この部屋に入った瞬間から、胃が鉛を飲んだかのように重くなるのを感じていた。謁見の間とはまた違う、個人の知性と権力が凝縮された空間。それは、彼が最も苦手とする場所だった。 宰相は、山積みの書類から顔を上げると、穏やかな笑みを浮かべて三人を迎えた。「これはこれは、朱鷺殿。皆様もお揃いで。姫様のことで、何か進展が?」 その態度は、まるで気心の知れた客人を迎えるかのようだった。 「宰相閣下」朱鷺は、挨拶もそこそこに、陽菜から借りた古文書の写しを、重厚な執務机の上に静かに滑らせた。「本日、陽菜さんが大書庫にて、これを発見いたしました」 宰相は、その紙に一度目を落とすと、「ほう」と短く息を漏らした。 「……『共存の儀式』、ですか。懐かしい。王家の御伽噺(おとぎばなし)の一つですな」 「御伽噺、ではございません」朱鷺の声は、静かだったが、部屋の空気を震わせた。「ここに記された巫女の一族の紋様は、陽菜さんが操る式神の原型と酷似しております。これは、紛れもない、隠蔽された歴史そのもの」 宰相は、指を組んで、楽しそうに目を細めた。「仮にそうだとして、それが何か?」 朱鷺は、一歩前に出た。 「お教えいただきたい。なぜ、王家は共存の道を捨て、わざわざ大地を穢すほどの強硬な『封印』を選ばれたのですか。そして――」 彼女の言葉が、そこで一度、途切れた。彼女は、ゆっくりと息を吸い込む。 「そして、私の故郷、辺境伯領ジルベスタの民は、なぜ、あの夜、妖怪と王国騎士団に、皆殺しにされなければならなかったのですか」 その問いが発せられた瞬間、部屋の温度が数度下がったように、宗一郎は感じた。 玄が、それまで寄りかかっていた壁から、背中を離した。
宰相の表情は、完璧なまでに変わらなかった。彼は、組んだ指の先を、とん、と軽く机に打ち付ける。 「ジルベスタ、ですか。ああ、ありましたな。もう、十数年……いや、二十年近く前になりますか。先王の御代のことです」 彼は、まるで遠い昔の帳簿をめくるかのように、淡々と語り始めた。 「当時、王家の一部では、禁足地の『穢れ』……我々が『闇の力』と呼ぶものを、より効率的に引き出し、制御下で国の力として利用できないか、という研究が進められておりまして」 「……実験、ですか」朱鷺の声が、震えた。 「左様。そして、その実験場として、ジルベスタは『最適』でした」 宰相の口にした「最適」という言葉には、何の感情もこもっていなかった。 「王都から遠く、人口も希薄。万が一、制御に失敗しても被害は最小限で食い止められる。そして、何より――あの土地の地脈は、禁足地のものと、非常に性質が近かった」 「失敗、したのですね」 「ええ、見事に」宰相は、初めて微かに笑った。「力は我々の想定を遥かに超え、暴走しました。制御不能になった穢れは、瞬く間に領地全土を覆い、人々は妖怪へと変貌した。放置すれば、第二の禁足地が生まれるところでした」 朱鷺は、その場に崩れ落ちそうになるのを、必死でこらえていた。彼女の脳裏には、あの夜の、空を焼いた紅い炎と、人ならざるものに変わっていく家族や友人たちの最後の顔が、鮮やかに蘇っていた。 「だから、焼き払った……と。そこに住む全ての民ごと、証拠隠滅のために」 「お言葉が過ぎますぞ、朱鷺殿」宰相は、そこで初めて、冷たい光をその目に宿した。「あれは、王国の安寧のためには、必要な犠牲でした。腐った枝を切り落とさねば、木そのものが枯れてしまう。政治とは、そういうものです。全て、過去のことですかな」 「必要な、犠牲……」 朱鷺の唇から、絞り出すような声が漏れた。 彼女の中で、何かが、音を立てて決定的に壊れた。 これまで彼女を突き動かしてきたのは、家族を、故郷を奪った、顔の見えない「何か」への、燃え盛るような憎悪だった。 だが、今、目の前にいるこの男は、その全てを「必要だった」と、こともなげに言い放った。 彼女の怒りの対象は、もはや過去の亡霊ではなかった。 民の命を「犠牲」という名の数字として処理し、歴史を平然と改竄し、その上に築かれた「安寧」という名の欺瞞(ぎまん)に安住する、この国そのものの、腐りきった構造。その非道なシステムそのもの。 彼女の瞳から、個人的な憎悪の炎が、ふっと消えた。 後に残ったのは、その全てを、この世の不正義そのものを、ただ静かに見据える、氷よりも冷徹な「義憤」の光だった。
帰り道、三人の間には、一言も会話がなかった。 宗一郎は、朱鷺の横顔を盗み見ることすらできなかった。宰相の言葉は、彼の想像を絶するほど冷酷で、非人間的だった。だが、それ以上に、その事実を突きつけられてなお、一切の感情を爆発させず、ただ静かに、より深く、冷たい怒りをその身に宿した朱鷺の姿が、恐ろしかった。 (この人も、俺と同じだ。いや、それ以上に、どうしようもない『ままならなさ』に、心を殺されてきたんだ) 客室の前に着くと、玄は「よう、姐さん」と、いつもの軽薄さとは程遠い、静かな声で朱鷺に話しかけた。 「俺は、ちと野暮用を思い出した。今夜は、一人にしておいてくれ」 朱鷺は、何も答えず、ただ小さく頷いた。 玄は、宗一郎の肩を一度だけ、強く、無言で叩くと、自室のある棟へと消えていった。
その夜。 月明かりが、石造りの窓枠を四角く切り取って、玄の部屋の床を青白く照らしていた。 彼は、酒を飲んでいなかった。 部屋の中央であぐらをかき、その膝の上には、彼の愛刀が鞘から抜かれて横たえられている。 部屋に響くのは、規則正しい、乾いた音だけだった。 シュッ、シュッ、シュッ――。 彼は、小さな砥石(といし)を使い、ただ無心に、黙々と、刀身を研ぎ続けていた 。 Sōichirōの布で刀身を拭い、油を塗り、刃の具合を指で確かめ、そしてまた研ぐ。 その顔に、いつものだらしない道化の笑みはない。 彼は、過去から逃げることを、やめたのだ。 ジルベスタの悲劇。あの日、彼が守れなかったもの 。その過去の亡霊が、今、朱鷺の復讐心と、王国の腐敗という、生身の現実となって目の前にある。 守るべきものが、定まった。 もう二度と、目の前で仲間を失わない。失わせない。 そのために、彼は、過去への贖罪(しょくざい)のためではなく、今、ここにあるものを守るための剣を、その刃が月光を吸い込んで、恐ろしいほどの青い輝きを放つまで、ただひたすらに、研ぎ澄ましていた。
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