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第4部:偽りの聖女と裏切りの王国
第38話:鉄斎の特別稽古と、心の目を開くということ
しおりを挟むその夜、王宮の空気は、張り詰めた弦のように固く、静まり返っていた。 陽菜は、自らの一族が背負ってきた宿命と、かろうじて見つけ出した「共存の儀式」という細い希望を胸に、疲弊しきった身体を引きずるようにして自室に戻っていった。 朱鷺は、宰相から突きつけられた、故郷ジルベスタ滅亡の冷徹な「真実」を、その氷のような瞳の奥に沈めたまま、部屋で瞑想に入っていた。 そして玄は、戻らなかった。彼が自室で、過去の贖罪のためではなく、今を守るための刃を月光に晒し、無心に研ぎ続けていることを、まだ誰も知らなかった。
仲間たちが、それぞれの形で、それぞれの覚悟を決めていく。 その中で、相田宗一郎だけが、未だに自室の床の上で、膝を抱えたまま動けずにいた。 彼らの覚悟が眩しければ眩しいほど、宗一郎の内なる闇は、より濃く、深く、その輪郭を露わにする。 (俺だけだ。何もできないのは) 陽菜には、国と精霊の歴史を背負う使命がある。朱鷺には、復讐を超えた、国を正すという義憤がある。玄には、仲間を守るという、剣士としての覚悟がある。 自分には、何がある? 偶然手に入れた、規格外の力。 だが、それすらも、時雨の前では通じなかった。あの男の、世界のルールそのものを内側から書き換えるような、絶対的な「理」の前では、宗一郎の転移魔法など、盤上の駒をズルして動かすだけの、小手先の「現象」いじりに過ぎなかった。 「玩具だ」と、時雨は言った。 その通りだった。自分は、強力な玩具を手にはしゃいでいただけの、空っぽの子供だった。 (結局、俺は何も変われない。あの教室にいた頃と、何も) 無力感という名の冷たい泥が、足元から這い上がり、心臓を掴む。このまま、この冷たい王宮の一室で、あの頃のように、息を殺してうずくまっているしかないのか。 その時だった。 コン、コン、と、やけに間延びしたノックの音が、彼の部屋の扉を叩いた。 返事をする気力もなく黙っていると、扉は、なんの遠慮もなく、ギィ、と軋む音を立てて開かれた。 「よう、坊主。まだウジウジしておるのか」 ひょっこりと顔を覗かせたのは、指南役・鉄斎だった。その手には、みすぼらしい部屋着とは不釣り合いな、年代物の立派な酒瓶が抱えられている。 「……何の用ですか。俺は、もう……」 「まあ、そう腐るな」鉄斎は、勝手に部屋に入り込むと、宗一郎の隣にどっかりとあぐらをかいた。「時雨の小僧に、自慢の力が通じなかったのが、そんなに堪えたか」 図星を突かれ、宗一郎は顔を伏せる。鉄斎は、そんな彼を意にも介さず、酒瓶の栓を「ポン」と小気味よい音を立てて抜き、その芳醇な香りを鼻で楽しんだ。 「お主の力は、確かに規格外じゃ。じゃがな、それは所詮、この世の『現象』をいじっておるに過ぎん。空間から空間へ、モノを移動させる。それだけじゃ」 鉄斎は、酒を湯呑みに注ぎ、ぐい、と煽る。 「だが、時雨の小僧が操る力は、もっと根が深い。あれは『理(ことわり)』そのものじゃ。水が上から下に流れる、というような、この世界の大本のルールに干渉する力よ。そんな奴の前では、お主の力なぞ、川の水を必死で手で掬(すく)おうとするようなもの。ただの玩具よ」 時雨に言われたのと同じ、決定的な言葉。宗一郎は、唇を噛みしめる。 「じゃあ、どうしろって言うんですか! そんなの、勝てるわけないじゃないですか!」 「だから、ここに来てやったんじゃろ」 鉄斎は、ニヤリと笑うと、湯呑みを床に置き、よろよろと立ち上がった。 「ちと散歩に付き合え、坊主。お主の中に眠っておる、とんでもない化け物の顔を、ワシに見せてみい」
夜の王宮訓練場は、静寂に包まれていた。 昼間の騎士たちの熱気は、夜の湿った空気に冷やされ、今はただ、濃い草の匂いと土の匂いだけが立ち込めている。 雲の切れ間から覗く月が、だだっ広い土の地面を、舞台照明のように青白く照らし出していた。遠くで、名前も知らない虫の声だけが、りん、りんと響いている。 「さて」 鉄斎は、どこからか拾ってきた、ただの枯れた小枝を一本、ひゅん、と軽く振った。 「ここで、お主に一つ、稽古をつけてやる。ルールは簡単じゃ」 彼は、酒瓶の残りを大事そうに地面に置くと、宗一郎に向き直った。 「お主は、魔法を一切使うな。転移も、あの変な壁も、一切禁止じゃ」 「え」 「そして、ただ、ワシのこの小枝から、自分の身を避け続けてみよ。それだけじゃ」 宗一郎は、唖然とした。先日、騎士団を相手にした時と、全く逆の立場。 (無理だろ、どう考えたって) この老人は、あの玄や朱鷺の師なのだ。その攻撃を、魔法なしで避けろなど、拷問以外の何物でもない。 「あの、それって、何か意味が……」 「意味ならある」鉄斎は、宗一郎の言葉を遮った。「お主は、自分の力が『現象』をいじるだけだと言われて、悔しいんじゃろ? ならば、現象の、さらに奥にあるものを、その目で見開いてみせい」 鉄斎の姿が、ふっと、かすんだ。 そう見えた瞬間、宗一郎の視界の端に、老人の顔が迫っていた。 「ぺしっ」 軽い、気の抜けたような音と共に、小枝が、宗一郎の後頭部を、正確に、しかし痛みは全くない絶妙な力加減で叩いた。 「なっ……!」 いつの間に背後に回られたのか、全く分からなかった。宗一郎が慌てて振り返ると、鉄斎は、すでに三メートルほど離れた元の場所に、酒瓶を持って呑気に立っている。 「どうした、坊主。そんなことでは、夜が明けてしまうぞ」
そこから先は、一方的な蹂躙(じゅうりん)だった。 宗一郎は、神経を全て目に集中させる。鉄斎の、その一挙手一投足を見逃すまいと、まばたきすら忘れて凝視する。 だが、鉄斎は、ほとんど動いていないように見える。 右肩が、ほんの少し揺れた。そう認識した瞬間、 「ぺしっ」 今度は、左の肩が叩かれる。 「くそっ!」 左に飛び退くと、待ち構えていたかのように、右の脛(すね)を小枝が撫でる。 「ぺしっ」「ぺしっ」「ぺしっ」 額。背中。脇腹。 痛みはない。だが、その屈辱感が、宗一郎の心の奥底にこびりついた、古い記憶を容赦なくこじ開けた。 (ああ、これ、知ってる) この感覚を、彼は知っていた。 現世の、あの薄暗い教室。 どこに逃げても、どこに隠れても、いじめっ子たちの手が伸びてくる。 ロッカー室に鍵をかけて閉じ込められ、どこから殴られるか分からない恐怖。体育館の裏で、背後から突然突き飛ばされる理不尽。 予測不能な暴力に、ただ、なす術もなく晒され続けた、あの日の絶望。 「やめろ……」 息が荒くなる。足がもつれる。 「やめてくれ……!」 鉄斎の姿が、あの日の嘲笑を浮かべたクラスメイトたちの顔と重なる。 パニック。 宗一郎は、ついにその場にうずくまり、両手で頭を固く、固く抱え込んだ。あの頃と、全く同じ格好で。
虫の声が、急に大きくなったように感じた。 月明かりが、冷たく背中に突き刺さる。 攻撃が、来ない。 静寂の中、頭上から、鉄斎の静かな声だけが降ってきた。 「目で見るな、心で読め」 うずくまる宗一郎は、顔を上げられない。 「お主は、目で追うから遅れる。ワシが小枝を振り下ろす、その『結果』を見てから動くから、間に合わんのじゃ」 鉄斎は、宗一郎の隣にゆっくりとしゃがみ込み、月を見上げた。 「相手の呼吸。筋肉の微細な動き。足が地面を擦る、その僅かな音。そして何より、殺気――お主に当てようとする、その『意図』の流れ。その全てが、ワシの次の動きを、ワシ自身より早くお主に教えてくれるわい」 その言葉に、宗一郎の身体が、ピクリと震えた。 (意図を、読む?) 彼は、知っていた。 その感覚を。 彼は、現世で、いじめから逃れることはできなかった。だが、その地獄の中で、生き延びるため、無意識に、たった一つのスキルを磨き上げていた。 相手の顔色を窺うこと。 殴られる、その瞬間を予測すること。 主犯格の男が、今日は機嫌がいいか、悪いか。彼の眉が、ほんの僅かにピクリと動く。その声のトーンが、いつもより半音だけ、高い。その肩が、不自然に力む、その一瞬。 それらの微細な情報を、彼は、生き延びるためだけに、必死で読み取ろうとしていた。 それは、この世界に来て、転移という「力」を手に入れたことで、必要がなくなり、心の奥底に封印していた、「弱者のスキル」だった。
宗一郎は、うずくまったまま、ゆっくりと、目を閉じた。 うるさい視覚情報を、遮断する。 聴覚が、研ぎ澄まされていく。 りん、りん、と響く虫の声。夜風が、遠くの木の葉を揺らす音。 そして、すぐ近くで響く、鉄斎の、ゆっくりとした、深い呼吸の音。それは、まるで大地の脈動のように、規則正しく空気を震わせている。 肌が、風の流れを感じる。地面から、微かな振動が伝わってくる。 (まだだ) (まだ、来ない) 彼は、ただ、待つ。 その時。 鉄斎の呼吸が、ほんの一瞬、止まった。 空気が、ピンと張り詰めた。 鉄斎の右肩の筋肉が、服の上からでも分かるほど、微かに収縮する。小枝を握る指先に、力がこもる。攻撃の「意図」が、殺気とは違う、純粋なエネルギーの「揺らぎ」として、宗一郎の肌に伝わってくる。 (来た!) 宗一郎は、目を開けないまま、考えるよりも先に、頭を抱えたままの姿勢で、地面を転がるようにして左へと動いた。 「ぺしっ」 先ほどまで、自分の頭があった場所の空間を、小枝が空しく叩く音が響いた。 紙一重。 彼は、鉄斎の攻撃を、初めて、完璧に避けることに成功していた。
宗一郎が、砂埃にまみれたまま、ゆっくりと目を開ける。 月明かりの中、鉄斎が、酒瓶を片手に、満足げな、子供のような笑みを浮かべて立っていた。 「ほっほっほ! どうやら、開眼したようじゃな。お主、見かけによらず、とんでもないモンを、その内に飼っておるわい」 宗一郎は、自分の掌を見つめた。 転移魔法を使った時のような、全能感はない。だが、心臓の鼓動に合わせて、指先まで熱い血が通っている感覚が、確かにあった。 それは、チート能力とは似ても似つかない、彼自身が、相田宗一郎という人間が、あの地獄のような日々を生き延びるために、必死で磨き上げた、本物の「力」の片鱗だった。 彼はまだ、この「相手の意図を読む力」が、時雨の操る「理」と渡り合うための、唯一の鍵になることを知らない。 だが、彼の心の奥底に、鉛のようにこびりついていた無力感は、ほんの少しだけ、その夜の澄んだ月明かりに溶けていった気がした。
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