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第4部:偽りの聖女と裏切りの王国
第39話:束の間の休息と、不器用すぎる優しさ
しおりを挟む王宮に満ちる空気は、張り詰めたままだった。 陽菜がもたらした「共存の儀式」という蜘蛛の糸のような希望 。それは、朱鷺と玄の覚悟を固め、鉄斎に宗一郎を導かせた 。だが、その希望の全てが、今や、たった一つの、しかし最も分厚い壁の前で足止めを食らっていた。 姫・小雪。 彼女が、生きることを拒絶していた。
王宮の侍女たちが、盆に載せた食事を、日に三度、彼女の部屋へと運ぶ。そして、三度、全く手のつけられていない、冷たくなった食事を、無言で下げてくる。 最初はスープだけだった。やがて、水差しの中身すら減らなくなった。 「姫様。このままでは、お身体が……」 侍女の悲痛な声は、固く閉ざされた扉の向こう側に、吸い込まれて消えるだけだった。 彼女は、兄が敵となり、国が嘘でできていたという真実、その二つの巨大な絶望に挟まれ、自らの存在意義そのものを失っていた。光の届かない、心の深淵。そこに、彼女はたった一人でうずくまり、ゆっくりと、命の灯火を消そうとしていた 。王宮の医師団も、もはや打つ手はないと、静かに首を振るばかりだった 。
その様子を、宗一郎は、客間の扉の隙間から、無力感と共に眺めていた。 (どうしようも、ない) 鉄斎との稽古で、彼は自分の内に眠る「力」の片鱗に触れた 。あれは「戦う」ための力だ。目の前で、静かに消えていこうとする命を、どう救えばいいのか。 転移魔法は、時雨の「理」には通じなかった。そして今、小雪の「心」にも、全く届かない。 無力だ。 結局、自分は、あの教室の隅で、友人が殴られているのをただ見ていることしかできなかった自分と、何も変わっていない。 「……ちくしょう」 宗一郎は、誰に言うでもなく呟くと、客間を飛び出した。 「あっ、宗一郎さん?」 陽菜の戸惑う声を背中に受けながら、彼は、自分が今いるべき場所ではない、全く場違いな場所へと、無我夢中で向かっていた。
王宮の厨房は、それ自体が一つの戦場だった。 体育館ほどもある広大な空間に、数十人もの料理人たちが、怒号に近い声を張り上げながら行き交っている。 薪のはぜる音、巨大な鍋が煮立つ音、分厚い包丁がまな板を叩くリズミカルな音。空気は、高熱と湯気、香ばしい肉の焼ける匂い、多種多様な香辛料、そして人々の汗の匂いで、むせ返るようだった。 その入り口に、場違いな冒険者の服を着た宗一郎が、埃まみれのまま立っている。 「あ? なんだ、小僧。ここは貴様の来るところでは……」 いかにも料理長といった風情の、厳つい大男が、宗一郎を睨みつける。 宗一郎は、現世で培った、権力者に対する最大限の卑屈スキルを発動させた。 「あ、あの! 申し訳ありません! ほんの片隅でいいんです! 火と、小麦粉と、卵と、甘いものを、少しだけ、貸していただけないでしょうか!」 「はあ? 何を……」 料理長が、この不審者を叩き出そうと手を上げた、その時。 「失礼いたします」 宗一郎の後ろから、凛とした、しかしどこか疲れたような声が響いた。朱鷺だった。 「料理長。その者、私の管理下にあります。どうか、厨房の片隅を、お貸し願えませんか。……姫様の、御為(おんため)なのです」 「ひ、姫様の!?」 料理長は、天下一の剣士と、姫の名前の二重の圧力に、一瞬で顔色を変えた 。「し、しかし、何を……」 「分かりません」朱鷺は、宗一郎の背中を見ながら、不思議そうな、それでいて僅かな期待を込めた目で言った。「私にも、彼が何をしようとしているのか、全く」
宗一郎は、厨房の最も隅にある、使われていない古いかまどの一つを借り受けた。 彼は、深呼吸する。 (何で、こんなことしてるんだ、俺は) 自分でも、分からない。ただ、あの、生きることを放棄したような、ガラス細工の瞳が、どうしても、頭から離れなかった。 あの瞳は、あの日の自分と同じだ。 彼は、この世界の乏しい食材を、不安げに見つめる 。小麦粉。貴重な鳥の卵。木の実から採ったという、黒蜜に似た甘味料 。 (足りない。圧倒的に、何かが足りない) 彼が作ろうとしているのは、現世で、幼い頃、熱を出して寝込んだ時に、唯一優しかった祖母が作ってくれた、素朴な蒸しパンだった 。ふわふわで、温かく、ただ、優しい甘さだけが口に広がる、思い出の味。 だが、あの「ふわふわ」を再現するには、ベーキングパウダーか、あるいは、卵白を完璧に泡立てる必要がある。 (ミキサーも、ホイッパーも、ない) 彼は、料理人が野菜をかき混ぜるために使う、子供の腕ほどもある巨大な竹の泡立て器を手に取り、絶望した。 (無理だ。こんなので、メレンゲなんて) その時、彼の脳裏に、悪魔的な、しかし唯一の可能性が閃いた。 彼は、大きな陶器のボウルに卵白だけを器用に(何度か失敗しながら)分けると、両手をボウルの縁に置いた。 (転移魔法。物体を、別の座標に瞬間移動させる) (もし。このボウルの中の、一番上にある卵白を、一番下の座標に。一番下にある卵白を、一番上の座標に。『転移』させ続けたら?) 彼は、目を閉じ、精神を集中させる。 「……転移、転移、転移、転移、転移っ!」 シュボボボボボ!!! 奇妙な、空気を巻き込むような音と共に、ボウルの中の卵白が、物理法則を完全に無視して、猛烈な勢いで攪拌(かくはん)され始めた。 「な、なんだぁ!?」 近くで野菜を切っていた料理人が、その超常現象に気づき、包丁を落とす。 Sōichirōの数十秒後。 宗一郎が目を開けると、ボウルの中には、硬く、きめ細かく、ボウルを逆さにしても落ちない、完璧なメレンゲの角が立っていた。 「……よし」 宗一郎は、その完璧すぎるメレンゲに、若干の罪悪感を覚えながらも、小麦粉と甘味料を手早く混ぜ込み、湯気の立つ蒸し器に、そっと流し込んだ。 やがて、厨房の、汗と脂と香辛料の匂いが支配する空間に、場違いなほど優しく、温かく、甘い香りが、ふわりと漂い始めた。
宗一郎は、出来上がった、不格好だが、ふわふわに膨らんだ蒸しパン(カステラのようなもの)を、一枚の粗末な皿に乗せると、姫の部屋へと向かった 。 彼は、扉をノックする勇気も、顔を合わせる勇気もなかった。 ただ、扉を数センチだけ開け、その隙間に、まだ湯気の立つ皿をそっと滑り込ませる。 「……あの。食べ物、です。口に、合わないかもしれませんが。……すみません」 それだけを小声で言うと、彼は、逃げるようにその場を立ち去った 。
部屋の暗闇の中、小雪は、扉の隙間から差し込まれた皿を、虚ろな目で見つめていた。 そして、匂いが届いた。 甘い、香り。 それは、王宮で焚かれる高価な香でもなければ、侍女たちが運んでくる豪勢な料理の匂いでもない。 もっと、素朴で、不器用で、懐かしいような……温かい匂い。 その匂いが、彼女の心の、固く凍りついていた壁を、ほんの少しだけ、内側から叩いた 。 彼女は、何日ぶりかに、自らの意志で、その身を起こした。 震える、骨と皮だけになったような手で、皿を引き寄せる。 湯気で、指先が、ほんのりと温かい。 彼女は、その黄色い蒸しパンを、小さくちぎると、恐る恐る、口に運んだ。
次の瞬間、彼女の口の中に、優しい甘さが広がった。 ただ、甘い。それだけの、純粋な感覚。 何の義務も、何の役割も、何の絶望も伴わない、ただ、「甘い」という感覚。 その温かさが、凍てついていた彼女の心を、無理やり溶かしていく 。 ぽろり、と。 彼女の乾いた瞳から、一筋の涙がこぼれ落ち、蒸しパンの上に、小さな染みを作った 。 それは、兄を失った絶望の涙ではなかった。国に裏切られた悲しみの涙でもなかった。 それは、温かいものに触れた、ただそれだけの、雪解けの涙だった 。 「……おい、しい」 絞り出した声は、掠れていた 。 だが、それは、彼女が絶望の底に落ちてから、初めて発した、「生」の言葉だった。
その一連のやり取りを、朱鷺は、回廊の柱の陰から、ずっと見ていた 。 彼女は、宗一郎が厨房に向かった時から、その予測不能な行動の結末を、ただ静かに見守っていたのだ。 やがて、姫の部屋から、侍女の「姫様が! 姫様が、お召し上がりに!」という、泣き声混じりの歓喜の声が響き渡った。 王宮の重苦しい空気が、その一瞬、確かに揺らいだ。 朱鷺は、その喧騒を背に、静かにその場を離れた。 彼女が向かったのは、王宮の庭園。月明かりが、手入れされた芝生を青白く照らしている。 宗一郎が、そこにいた。 彼は、やりきった顔ではなく、むしろ、とんでもない場違いなことをしてしまったと、後悔しているかのように、一人でうずくまっていた。 「宗一郎さん」 朱鷺が声をかけると、宗一郎の肩が、ビクリと跳ねた。 「あ、朱鷺さん……。あの、俺、勝手なこと……」 宗一郎の「姫様、お召し上がりになったそうです」 朱鷺は、彼の言い訳を遮るように、静かに告げた。 「『おいしい』と。そう、仰っていたそうですよ」 「え……」 宗一郎は、きょとんとした顔で、朱鷺を見上げた。 その顔は、天下一の剣士でも、国の切り札でもない。ただ、自分のしたことが、思いがけず誰かの役に立ったことに、戸惑っているだけの、不器用な青年の顔だった。
朱鷺は、その顔を見つめながら、自分の心の奥底で、硬く凍りついていた何かが、カラン、と音を立てて小さく欠けるのを感じていた。 (この人だ) 故郷を焼かれ、家族を奪われ、復讐のためだけに剣を振るってきた。そのために、感情を殺し、完璧な笑顔の仮面を貼り付けてきた。 宗一郎の力は、確かに「残酷」だ。常識も、努力も、積み重ねてきた誇りさえも、全てを無に帰す。 だが、その力の持ち主である彼自身は、どうだ。 最強の力を持っていながら、誰よりも傷つくことを恐れ、誰よりも他人の視線に怯え、そして、誰よりも不器用に、ただ、目の前で苦しむ人を救おうとする 。 (優しい。……ああ、なんて、優しい人なんだろう) それは、彼女の凍てついた心に、十数年ぶりに灯った、小さな、しかし確かな温もりだった 。
朱鷺は、宗一郎の隣に、そっと腰を下ろした。 「月が、綺麗ですね」 彼女が、ぽつりと呟く。 宗一郎は、その唐突な言葉に、極度に緊張した。 「あ、はい! 月齢から見て大潮に近いかと! 明日の気候への影響は、軽微だと思われます!」 完璧なまでに、業務連絡のような返答。 そのあまりの不器用さに、朱鷺の口元から、くすり、と、仮面ではない、心の底からの、本物の笑いが、小さく、小さく漏れた。 宗一郎が、その珍しい笑い声に驚いて朱鷺を見る。月明かりに照らされた彼女の横顔は、彼が今まで見たどの表情よりも、美しく見えた。
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