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第4部:偽りの聖女と裏切りの王国
第40話:再び穢れの森へ、それぞれの決意を胸に。
しおりを挟む奇跡は、その最も静かな場所で起きていた。 姫・小雪の私室。あの日、宗一郎が扉の隙間から差し入れた、不格好だが温かい蒸しパンの皿は、空になっていた。それどころか、侍女が恐る恐る差し入れた白湯の入った湯呑みも、半分ほどに減っていた。 sōichirō「姫様が、ご自身の意志で水を……!」 侍女のその震える声が、絶望という名の分厚い氷に閉ざされていた王宮の客間に、最初の亀裂を入れた。
「今なら……今なら、儀式ができるかもしれない!」 陽菜が、血の滲むような目を見開き、古文書の写しを握りしめて叫んだ。数日間の不眠不休で彼女の身体は限界だったが、その声には、彼女の魂の全てを燃やすかのような、凄まじい熱がこもっていた。 「共存の儀式」。 それは、もはや時雨を打倒するためではない。彼に、そして彼が背負う「闇の住人」たちの数百年にわたる悲しみに、対話の道を提示するための、唯一にして最後の希望だった。 朱鷺が、瞑想から静かに目を開いた。その瞳の奥には、故郷ジルベスタを焼いた宰相への義憤と、目の前の少女への信頼が、冷たく、そして熱く同居していた。 「行きましょう」 玄が、自室から戻ってきた。その姿は、いつもと何も変わらない。だらしない着流し、無精髭。だが、彼が腰に差した愛刀だけが、以前とはまるで違う、研ぎ澄まされた青白い光を放っていた。 「おう。姫さんを、これ以上泣かせっぱなしにもできねえからな」 彼らの覚悟は、定まった。 再び、あの絶望の森へ。
一行が出立の準備を進めていると、客間の重い扉が開き、数人の男たちが現れた。 「……頼む」 包帯を痛々しく巻いた、近衛騎士団の生き残りだった。その先頭に立つのは、かつて宗一郎たちの前で、自分たちの誇りを無残にも打ち砕かれた、あの騎士団長だった。 彼は、兜を脱ぎ、その下に晒された傷だらけの顔を、ためらいもなく宗一郎たちの前で床に擦り付けた。 「我々は、無力だった」 その声は、絞り出すようだった。 「プライドだ、騎士の誇りだと言いながら、我らは姫様一人お守りできず、多くの仲間を失った。もはや、騎士を名乗る資格などないのかもしれん。だが!」 彼が顔を上げる。その目は、屈辱でも、恐怖でもなく、ただひたすらに、何かを護りたいと願う者の目をしていた。 「今度こそ、我々を、姫様を……そして、この国を守るための、本物の『盾』として使ってほしい。どうか、この通りだ」 生き残った騎士たちが、一斉に頭を下げる。 その場に、重たい沈黙が落ちた。その沈黙を破ったのは、土足で廊下を歩いてくる、無作法な足音だった。 「盾だけじゃ、心もとねえだろ!」 扉に寄りかかるようにして立っていたのは、『紅蓮の獅子』のリーダー、猛(たける)だった。彼は、バツが悪そうに頭を掻きながら、宗一郎を睨みつける。 「言っとくが、お前の戦い方は、今でも反吐が出るほど気に入らねえ」 「はあ、どうも……」 「だがな」猛は、視線を騎士団長に移した。「姫様を泣かせて、平気な顔してる奴は、もっと気に入らねえ! この『紅蓮の獅子』が、最強の剣になってやる。文句はねえな!」 騎士、冒険者、天下一、剣豪、陰陽師の末裔、そして――世界のバグ。 生まれも、育ちも、信じる正義さえもバラバラな者たちが、今、たった一つの目的のために、その場に集っていた。
出立は、夜明け前だった。 夏の生暖かい夜気が、夜明け前の冷たい空気と混じり合い、濃い霧となって王都を包んでいる。 sōichirōの門の前には、見送りの人影一つない。それは、あまりにも静かで、荘厳な出陣だった。 聞こえるのは、鎧が擦れる微かな音、馬車の車輪が石畳を噛む音、そして、仲間たちの息遣いだけ。
小雪は、馬車の中から、白んでいく東の空を見つめていた。その手は、宗一郎が不器用にこしらえた、あの甘い蒸しパンの、最後のひとかけらを強く握りしめている。弱々しく、しかし、その瞳には、初めて自らの意志で運命と向き合う、凛とした光が宿っていた。「お兄様……」。 陽菜は、馬車の御者台で、手綱と共に古文書を握りしめていた。数百年にわたる一族の悲願。その全てが、今、自分の双肩にかかっている。彼女は、恐怖で震えそうになる唇を、ぐっと噛みしめた。 玄は、馬車の護衛として、その隣を歩いていた。彼はもう、下品な冗談を飛ばさない。ただ、静かに、しかし一切の隙なく、周囲の闇に目を配る。もう二度と、仲間を失わないために。 朱鷺は、一行の先頭に立っていた。彼女の心にあったのは、もはや復讐の炎だけではない。この絶望的な戦いの先に、宗一郎たちと笑い合える「未来」があるのなら、そのためにこの剣を振るう。 そして、宗一郎。 彼は、朱鷺の少し後ろを歩きながら、その背中をじっと見つめていた。 胃が痛い。怖い。今すぐにでも、全てを放り出して、陽菜の家の縁側で昼寝でもしていたい。 この世界は、どうしようもなく「ままならない」。 だが、と彼は思う。 ままならない世界で、それでも必死に前を向こうとする、この人たちと一緒にいたい。 初めて、誰かに強制されたわけでも、恐怖から逃げるためでもなく、自らの意志で、彼はこの理不尽な現実の、その中心へと足を踏み出していた。
再び訪れた、穢れの森。 その入り口は、数日前に撤退した時とは、比べ物にならないほど禍々しい瘴気(しょうき)に満ちていた。 黒い霧が、まるで意志を持った生き物のように、大地の上を渦巻いている。空は、腐った泥のような色に覆われ、光は一切届かない。 だが、そこに、時雨の姿も、妖怪の群れもなかった。 ただ、森の入り口、正常な世界と穢れた世界の境界線の上に、ぽつんと、人影が一つ立っていた。 白い、巫女装束。 「……静(しず)!」 宗一郎は、思わずその名を叫んだ。 かつて、彼の力を「世界の理を歪める」と警告した、あの退魔師の少女だった。 彼女は、時雨の味方になったのか。それとも。 静は、感情の読めない、静かな瞳で一行を見据えると、その手に持った錫杖(しゃくじょう)を、トン、と地面に突き立てた。 「やはり、あなたたちが災いを大きくする」 その声は、風の音のように、冷たく、無機質だった。 {align="left"} 「これ以上、この世界の理(ことわり)を乱すことは、この私が許しません」 } 彼女は、敵でも味方でもない、第三の勢力として。 時雨という絶望への道を阻む、絶対的な「調停者」として、最強の門番として、一行の前に、ただ一人、静かに立ちはだかった。
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