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第5部:復讐の刃と忘れえぬ残照
第43話:朱鷺の追憶・一 ~幸福だった日々と、全てを焼いた紅い夜~
しおりを挟む(……愚かな。お前もまた、過去に囚われた亡霊か!)
時雨の、嘲るような声が遠のいていく。 朱鷺(とき)の渾身の斬撃と、時雨の放つ理不尽な力が激突した瞬間、彼女の視界は、爆発的な光によって、真っ白に染め上げられた。
キィン、という、耳鳴りではない。 もっと甲高い、澄んだ音。 風鈴、だろうか。
いや、違う。これは、もっと。
(お姉ちゃーん! まってー!)
幼い、舌足らずな声。 懐かしい、声。
(こら、トキ! 走ると危ないと言っているだろう!)
厳格な、けれど、その奥に深い優しさを湛えた、父の声。
(もう、あなたも、リオも。お夕食ですわよ。ほら、今日はトキの大好きなシチューですから)
陽だまりのような、母の声。
視界を覆っていた白が、ゆっくりと色づいていく。 それは、血の赤でも、瘴気の紫でもない。 目に痛いほどの、鮮やかな、黄金色だった。
―――十数年前。秋。 国境の辺境伯領、ジルベスタ。
「きゃー! つかまえてごらんなさーい!」
黄金色に輝く広大な麦畑の中を、一本の獣道が貫いている。刈り入れを間近に控えた麦の穂が、秋風に吹かれてさわさわと波打つ、その海の中を、二人の子供が駆け回っていた。
「ま、まってよぉ、おねえちゃ!」
先を走るのは、活発そうな、黒髪をおさげにした少女。年の頃は、十歳(ととせ)ほど。 後ろから、小さな体で必死にそれを追いかける、五歳ほどの幼い少年。 少女は、わざと大げさに転ぶふりをして、麦の海に倒れ込む。
「わっ! やられたー!」 「わーい! つかまえたー!」
少年が、待ってましたとばかりに少女の背中に飛び乗る。二人はそのまま、刈り取られた麦の束が積まれた「わら塚」に倒れ込み、空を見上げた。
「……あははっ!」 「えへへへっ」
どちらからともなく、弾けるような笑い声が上がる。 少女の名は、トキ・ジルベスタ。このジルベスタ領を治める辺境伯の、一人娘。 そして、少年は、彼女の歳の離れた弟、リオ。
この頃の彼女の笑顔は、仮面ではなかった。 弟のイタズラに本気で眉をつり上げ、父との剣の稽古で汗と泥にまみれ、母と庭の花に水をやりながら、心の底から笑う、活発で感受性豊かな少女だった。
空は、どこまでも高く、深く、澄み渡った青。 遠くの山々は、燃えるような赤や、鮮やかな黄色に色づき、まるで錦の織物のようだ。 刈り取られた麦の、香ばしくて、少しだけ甘い匂い。 城下町のパン屋から、風に乗って漂ってくる、焼きたてのパンの香り。 肌を撫でる空気は、ひんやりと冷たく、清々しい。 そして、遠くで響く、領民たちの収穫作業を祝う、活気ある歌声と笑い声。
ジルベスタは、そういう場所だった。 厳格だが、誰よりも領民を愛し、領民からも「お父様」と慕われる父。 陽だまりのように優しく、城の中庭で、季節の花々を育てることが生きがいだった母。 そして、やんちゃで、いつも姉である自分の後ろを、雛鳥のようについて回る、幼い弟。
彼女の世界は、完璧なまでに幸福で、満たされていた。 この、温かく、穏やかで、生命力に満ちた日常が、永遠に続くものだと、彼女は、心の底から信じて疑わなかった。 仏教でいうところの「壊苦(えく)」 。幸福な状態が、やがて変化し、崩壊することで生じる苦しみ。その残酷な真理を、彼女はまだ、知る由もなかった。
「トキ様ー! リオ様ー! 奥様がお呼びですぞー!」
遠くから、使用人の呼ぶ声がする。
「はーい!」
トキは、わらの上で寝転がったまま、大きく返事をする。 「ほら、リオ。帰るよ。今日の晩ごはん、なんだと思う?」 「んーとね、シチュー!」 「せいかーい! すごい、なんでわかったの?」 「だって、おしろから、いいにおいがするもん!」
弟の無邪気な言葉に、トキは再び声を上げて笑った。
その日の夕食の光景を、朱鷺は、今でも、まるで昨日のことのように、鮮明に思い出すことができる。
ダイニングルームを満たす、温かいシチューと、暖炉で薪が爆ぜる、懐かしい匂い。 食卓の中央に置かれた、母さん自慢の、具沢山のクリームシチュー。
「あちっ!」
弟のリオが、勢いよくスプーンを口に運び、案の定、舌をやけどしている。 「もう、リオ。あんなに、ふーふーしてから食べなさいと言ったでしょう」 母が、呆れたように、しかし愛おしそうに、弟の口元をナプキンで拭う。
「だって、おいしいんだもん!」
むくれる弟の言葉に、食卓の向かいに座る父が、厳格な顔をほんの少しだけ崩して、笑う気配がした。
「トキ。剣の稽古、進んでおるか」 父が、低い、落ち着いた声で尋ねる。 「はい、お父様! 今日は、鉄斎(てっさい)師範にも、少し筋が良くなったと褒めていただきました!」 「そうか。だが、ジルベスタの剣は、ただ敵を斬るためのものではない。この地を、この民を、そして、お前の大切なものを『守る』ための剣だ。そのことを、ゆめゆめ忘れるでないぞ」 「はい!」
父の書斎の、あの匂いも、覚えている。 古い革の装丁と、インクの、少し埃っぽい匂い。そこで父に教わる、領主としての心構え。それは、幼い彼女には難しすぎたが、父の隣にいられるその時間が、彼女は好きだった。
中庭の、あの匂いも。 母と共に、名前も知らない花に水をやる。雨上がりの、少し湿った芝生と、土の匂い。 「この子はね、トキ。強い日差しは苦手だけど、こうして毎日お水をあげると、とっても綺麗な花を咲かせてくれるのよ」 そう言って微笑む、母の優しい手の感触。
その全てが、彼女の幸福の象徴だった。
そして、運命の日。 ジルベスタが、一年で最も輝きを放つ、収穫祭の夜。
城下町の広場は、無数の色とりどりのランタンで照らされ、まるで地上に星空が降りてきたかのようだった。人々は、豊かな実りに感謝し、広場の中央で、楽団の奏でる陽気な音楽に合わせて、歌い、踊り狂っていた。
「わー! すごい! おさかなみたい!」 「こら、リオ。落ちるぞ」
城のバルコニー。トキは、興奮して身を乗り出す弟を、しっかりと肩車していた。 父と母も、その隣で、満足そうに領民たちの笑顔を眺めている。
「本当に、良いお祭りになりましたわね、あなた」 「うむ。全て、皆が一年間、汗を流してくれたおかげだ」
母が、娘と孫(リオ)の姿を見て、幸せそうに目を細める。 「ふふっ。トキ。リオも、もう重いでしょう」 「ううん、大丈夫! それより、見て、母様! あそこの人たち、すごく楽しそう!」
トキが指差す先で、若者たちが、収穫した麦わらで作った大きな人形を担ぎ、練り歩いている。 全てが、光と、音楽と、歓喜に満ちていた。 トキは、母の袖を掴み、この日、心の底から思ったことを、無邪気に口にした。
「ねえ、母様。ずっと、ずっと、この日が続けばいいのにね」
母は、その言葉に、一瞬だけ、遠い目をした。 そして、娘の頭を優しく撫でると、言った。 「そうね。……そうだと、良いのですけれどね」
「諸行無常」 。 この世の全ては移り変わり、永遠に続くものなど何一つない。 その、世界のどうしようもない「理(ことわり)」を、彼女たちは、この数分後に、思い知ることになる。
宴が、最高潮に達した、その瞬間だった。
ゴオオオオオオオッ!!!
地響き。 それまで聞こえていた陽気な音楽を、人々の歓声を、全てかき消す、凄まじい轟音。 大地が、まるで生き物のように激しく身悶えし、城のバルコニーが大きく揺れた。
「きゃあっ!」 「な、なんだ!?」
トキは、とっさに弟を抱きしめ、床に伏せる。 父が、バルコニーの縁から、信じられないものを見たかのように、目を見開いていた。
「馬鹿な……! 防護結界が!?」
ジルベスタの領地は、古くから、王家とは別系統の力を持つ、強力な防護結界によって守られていた。 その結界が、今、目に見えるほどの巨大な亀裂を走らせ、次の瞬間、
パリンッ!!!!
と、巨大な一枚ガラスが砕け散るような、甲高い音を立てて、完全に砕け散った。
そして、それと同時だった。 領地の四方を囲む、夜の闇に沈んでいたはずの森。その森の、あらゆる場所から、空が、不気味なほど鮮やかな「赤色」に染まるほどの、おぞましい「穢れ」が、火山のように噴出した。
「な……なにあれ……」
トキの、震える声。 地獄が、始まった。
穢れの瘴気の中から、見たこともない、異形の「妖怪」の群れが、津波のように雪崩れ込んでくる。それは、この世の生物の法則を無視した、悪夢そのものだった。 だが、絶望は、それだけではなかった。
「なっ……! あの鎧は……!?」 父が、絶叫する。 「なぜだ! なぜ、王国の『影』の部隊が、ここにいる!!」
妖怪の群れと、ほぼ同時。 領地の四方から、漆黒の、一切の装飾を排した、不気味な鎧をまとった騎士の一団が、整然と、しかし迅速に、町へと侵入してきた。 彼らは、妖怪には目もくれず、ただ、逃げ惑う領民たちを、何の感情もなく、無差別に斬り捨て始めた。
「あ……あ……」
幸福な宴の音楽は、一瞬にして、阿鼻叫喚の悲鳴に変わった。 ついさっきまで、広場で笑い合っていた人々が、妖怪に食われ、騎士に斬られ、物のように倒れていく。
「お父様! お母様!」
トキが叫ぶ。 父は、すでにバルコニーから部屋に戻り、壁に掛けてあった領主の剣を抜き放っていた。 「母さん! トキとリオを連れて、隠し通路へ! 早く!」 「あなた!」 「問答無用だ! 行け!」
父は、迫り来る黒い騎士団の隊長(兜のデザインが特徴的だった)に向かって、一人、立ち向かっていく。 「貴様ら! 何のつもりだ! これは、王国への反逆と心得よ!」 隊長は、何も答えない。 ただ、面倒くさそうに、その手に持った黒い槍を、一閃させた。
「がっ……!」
父の剣は、届かなかった。 彼の胸を、いとも容易く貫いた槍。 父は、信じられないという顔で、自分の胸を見下ろし、そして、娘たちの方を最後に振り返ると、そのまま崩れ落ちた。
「お父様あああああ!!」
「トキ! 来なさい!」 母が、娘の腕を掴み、泣き叫ぶトキと、恐怖で声も出せないリオを引きずるようにして、廊下を走る。 だが、逃げ切れるはずもなかった。 廊下の向かい側から、異形の妖怪の群れが、すでに迫っていた。
絶体絶命。 その時、母は、廊下の物陰にある、小さな「押入れ(リネン庫)」に、二人の子供を無理やり押し込んだ。
「リオ、トキを頼むわね」 「いや! 母様も一緒に!」
トキが、泣きながら母の服を掴む。 母は、その手を、優しく、しかし、力強く、振り払った。 そして、彼女は、娘が生まれてから一度も聞いたことのないような、凄絶な、しかし、美しい笑みを、浮かべた。
「生きなさい、トキ」
母は、それだけを言うと、押入れの扉を閉め、自ら、妖怪の群れに向かって、大声で叫びながら、反対方向へと駆け出した。 おとりになるために。
「母様あああああ!!!!」
押入れの扉を叩く、幼いトキの、絶叫。 しかし、扉は開かない。 彼女は、恐怖で震える弟を抱きしめながら、押入れの、ほんの数ミリの隙間から、外を見た。
炎。煙。 全てが燃えていく。 全てが壊れていく。 彼女の愛した、家族が。故郷が。幸福だった、全てが。
彼女の瞳から、少女の光が消え始める。 まだ、それは、憎悪ではなかった。 ただ、理解を超えた現実を前にした、深い、深い、絶望だった。
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