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第5部:復讐の刃と忘れえぬ残照
第44話:朱鷺の追憶・二 ~逃亡と、芽生えた殺意~
しおりを挟む(生きなさい、トキ)
母の最後の言葉が、燃え盛る城の轟音の中で、奇妙なほどはっきりと耳にこびりついていた。
押入れの暗闇の中、トキは震える弟のリオをただ無言で抱きしめていた。隙間から差し込む光は、もはや黄金色ではなく、全てを飲み込む、忌まわしい「赤」だった。 どれほどの時間が経ったのか。 悲鳴も、怒号も、建物の崩れる音も、全てが遠い世界の出来事のように感じられた。
やがて、彼女をこの場に縫い付けていた恐怖が、別の、たった一つの、より強烈な衝動によって上書きされた。
「……リオ」
弟の手は、氷のように冷たくなっていた。 だが、あの時、母が自分たちをここに押し込んだ時、弟は確かにここにいた。 いや、違う。 母は、自分と、リオを、別々に。
(リオ、トキを頼むわね)
違う。母はそう言わなかった。 母は、自分を押し入れに隠し、リオを抱きしめ、そして、おとりになって。
いや、違う。 記憶が、混乱している。 熱と煙で、頭が正常に働かない。
(お姉ちゃーん!)
幻聴が聞こえた。 そうだ。リオがいない。 弟は、どこだ。 父も、母も、もういない。ならば、自分が。 父の言葉が蘇る。
(ジルベスタの剣は、『守る』ための剣だ。そのことを、ゆめゆめ忘れるでないぞ)
「……リオを、探さなきゃ」
トキは、まるで夢遊病者のように、押入れの扉を静かに開けた。 廊下は、すでに火の海だった。 熱気が空気を歪ませ、呼吸をするたびに喉が焼ける。火の粉が、まるで地獄の雪のように、音もなく舞い落ちてくる。 充満する煙の匂い。そして、その奥に、今生の者とは思えない、肉の焼けるおぞましい匂いが混じっていた。
彼女は、母の最後の言葉に、半分だけ従った。 「生きる」ために。 そして、その半分に、逆らった。 「弟を探す」ために。
彼女は、母が逃げた方向とは逆、城の秘密通路へと、よろめきながら走り出した。 命からがら、炎上する城から外へ転がり出る。 しかし、彼女が向かったのは、安全な森ではなく、地獄絵図と化した城下町、その中心だった。
「リオ! リオ、どこー!」
炎の中を、彼女は弟の名を呼びながら、逆走する。 昨日まで、あれほど美しかった町並みは、見る影もなかった。 至る所に転がっている、黒焦げの、あるいは斬り捨てられた、無残な死体。 さっきまで笑い合っていたパン屋の主人。花を売っていた老婆。一緒に麦畑で遊んだ、村の子供たち。 もう、誰が誰だか、分からない。
「うわあああっ!」 「助け……」
まだ息のある者の、すぐそばを、あの黒い鎧の騎士たちが、馬で踏み潰していく。彼らの冷酷な怒号と、妖怪たちの不気味な呻き声が、四方八方から迫ってくる。
(憎むべき対象との遭遇―――怨憎会苦 おんぞうえく)
「……っ!」
裏路地に追い詰められた。 目の前に、三人の「影」の部隊の兵士が、無感動な目でトキを囲んでいた。 「生存者だ」 「子供だが、命令は『皆殺し』だ」 「始末しろ」
ああ、ここで、終わりか。 リオ。ごめん。 トキが、諦めて目を閉じようとした、その瞬間。
「―――何をしている! 相手は子供だぞ!」
鋭い、しかし、まだ若さを残す声。 三人の兵士の間に、一陣の風のように割り込んだ男がいた。 使い古された旅装束。しかし、その腰に差した一振りの刀は、紛れもない本物。目つきは鋭く、全身から、正義感と、それに見合うだけの実力が溢れ出ている。 まだ、酒焼けもしておらず、今のようなだらしない無精髭も生やしていない、若き日の玄(げん)だった。
彼は、ジルベスタの収穫祭に、ただの旅の剣士として偶然訪れていた、それだけだった。
「どけ、小僧。王国の公務だ」 「ふざけるな! 理由もなき殺戮が、公務であってたまるか!」
玄の剣が、閃光を放つ。 その剣技は、若くしてすでに卓越していた。兵士の一人を一瞬で斬り伏せ、二人目の鎧を弾き飛ばす。 だが、相手は、国の暗部を担う、選りすぐりの精鋭部隊。そして、多勢に無勢。 三人を倒したところで、路地の向こうから、さらに五人、六人と、黒い影が増えていく。
「ちぃっ!」
玄の肩に、背中に、次々と浅い傷が刻まれていく。彼の卓越した剣技も、歴戦の兵士たちの、無駄のない連携攻撃の前では、徐々にその輝きを失っていく。 ついに、重い一撃が彼の脇腹を捉え、玄は膝をついた。
「ぐっ……!」 「愚かな。正義ごっこも、そこまでだ」
黒い騎士たちが、深手を負った玄と、その背後で震えるトキを、ゆっくりと囲んでいく。 玄は、トキを背中に庇い、死を覚悟した。 絶体絶命。
その、時だった。
トキは、見てしまった。 玄の肩越し、通りの向かい側。 崩れたパン屋の荷車の物陰に、小さな影がうずくまっているのを。 恐怖に引き攣った、見間違えるはずもない、最愛の弟、リオの姿を。
そして、弟もまた、黒い騎士たちに囲まれた姉の姿に気づいた。
「……あ」
弟が、声を出した。 その小さな音を、聞き逃さない者がいた。
ゆっくりと、馬上で近づいてくる、一人の男。 ひときわ禍々しい、特徴的な兜。あの、父を貫いた、部隊の隊長。
隊長は、面倒くさそうに馬から降りると、荷車の陰を覗き込んだ。 そこには、恐怖で声も出せず、ただ、大きな瞳から涙をこぼし、ぶるぶるを震えている、幼い少年がいた。
(愛する者との、決定的な別れ―――愛別離苦 あいべつりく)
その光景に、リオは、最後の力を振り絞ったかのように、絶叫した。 恐怖を、姉への想いが、上回った。
「お姉ちゃーーーーん!!!!」
手を、伸ばす。 姉に、助けを求めて。
その、子供の、あまりにも無力で、純粋な叫び声に。 隊長は、その兜の下で、ほんの一瞬、顔をしかめた。 まるで、うるさい虫の羽音でも聞いたかのように。 彼は、何の感情も込めず、ただ、面倒くさそうに。 腰の剣を、抜き、
一閃した。
ヒュッ、という、乾いた音。
弟の声が、まるで糸が切れたかのように、ぷつり、と途切れた。 伸ばされた小さな手は、宙を掴んだまま、力なく、地面に落ちた。 血が、じわり、と石畳に広がっていく。 隊長は、まるで道端の虫を払ったかのように、剣を鞘に戻すと、馬上の人となった。
…………あ。
その瞬間。 トキの中で、何かが、音を立てて、砕け散った。
悲しみ。 恐怖。 絶望。 無力感。
その全てが、まるで燃料のように、一瞬で燃え尽きた。 そして、その後に残ったのは、ただ一つ。 焼けつくように、純粋で、どこまでも冷たい、「何か」。
彼女は、地面に転がっていた兵士の、錆びついた短剣を、その小さな、震える手で、握りしめた。 熱いのか、寒いのか、もう、分からない。
「……殺す」
か細い、しかし、この世のものとは思えないほどの憎悪が込められた声が、彼女の唇から漏れた。 彼女の瞳から、少女の光が、完全に消え失せた。
「お、おい、坊主!」 深手を負った玄が、その異様な気配に、必死に声をかける。 だが、トキの耳には、もう何も届いていなかった。 助けてくれた玄のことなど、もはや目に入っていなかった。
彼女は、短剣を握りしめたまま、よろめきながら、立ち上がった。 憎悪の源である、あの隊長に向かって。 ただ、一歩、また一歩と、地獄の業火の中を、進み始めた。
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