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第5部:復讐の刃と忘れえぬ残照
第46話:現在 ~届かない刃と、初めて届いた言葉~
しおりを挟む過去の追憶という名の白日夢から、朱鷺(とき)の意識は、強烈な憎悪と共に、現在へと引き戻された。
視界を支配していたのは、もはや故郷ジルベスタを焼いた「紅い夜」の炎ではない。 目の前に広がる、淀んだ沼地。空を覆う、病的な黄土色の瘴気。そして、その中心に立つ、全ての元凶―――時雨(しぐれ)。
(そうだ。私は、あの日に死んだ) 彼女の思考は、氷のように冷徹だった。 (そして、あの男たちを、この国の全てを、この手で斬り捨てるためだけに、今日まで生きてきた!)
彼女の瞳から、天下一の穏やかな光は完全に消え失せていた。そこにあるのは、弟を殺されたあの夜に宿った、純粋で、研ぎ澄まされた、殺意の光だけだった。
「おおおおおおおおっ!」
もはや、それは剣技と呼べる代物ではなかった。 憎悪そのものが形を成し、天下一の称号を得るまでに磨き上げられた技を、ただ一点の「殺」という目的にのみ収束させる。 彼女の姿が、霞む。 残像ですらない。神速の踏み込みによって、彼女の存在そのものが、時雨を中心とした空間の、全方位に「同時に」出現したかのように見えた。
軌道すら見えない無数の斬撃が、時雨の首、心臓、四肢、あらゆる急所へと、文字通り殺到する。
その、人の理を超えた神速の刃を、しかし。
時雨は、一歩も、動かなかった。
彼は、その殺意の嵐のただ中で、まるで庭に咲く花でも眺めるかのように、静かに、ただ片手を、かざしていた。
キィン、という甲高い音はしない。 ガギン、という手応えのある感触もない。 朱鷺の渾身の刃は、時雨の衣服に触れる、その数寸手前で、まるで濃霧の中に吸い込まれるかのように、全て、虚空を斬り裂いていた。
「なっ……!?」
手応えの無さに、朱鷺の神速の動きが、ほんの僅かに乱れる。 時雨は、その凍てついた瞳で、必死に剣を振るう朱鷺を、まるで哀れな虫でも見るかのように見下ろしていた。
「哀れだな、天下一」
その声は、沼の底から響いてくるかのように、冷たく、重い。 「お前の剣は、この世界の『理(ことわり)』に縛られている。だが、私は、その『理』そのものを、今、ここで書き換えている」
時雨の周囲。彼がかざす手のひらの前には、物理的な障壁は何もない。 ただ、朱鷺の刃が触れるはずだった「空間」そのものが、時雨の憎しみに呼応し、その「定義」を『腐食』させられていた。 そこはもはや、剣が「存在する」ことを許された空間ではなかった。
「お前の刃が、私に届くことは、未来永劫ありえない」
「……っ!」
「お前もまた、あの夜の残骸か」 時雨が、退屈そうにそう呟き、かざしていた手を、ゆっくりと握りしめた。
呼応する、大地。 「きゃあっ!」 朱鷺の立っていた地面が、何の予兆もなく、粘度の高い泥のように液状化した。 バランスを崩し、足を取られる朱鷺。 次の瞬間、その泥の中から、無数の瘴気の腕が蛇のように現れ、彼女の四肢に、胴に、首に、抗いようのない力で絡みついた。
「姐さん!!」 玄(げん)が、絶叫する。 彼は愛刀を抜き放ち、師である鉄斎(てっさい)との稽古で磨き上げた、最速の踏み込みで朱鷺を救おうと駆けた。
「邪魔だ」
時雨は、玄を一瞥だにしない。 ただ、彼から放たれる「理の歪み」の余波、その圧力の壁が、玄の突進を、まるで巨大な鉄槌で打ち据えるかのように、いとも容易く吹き飛ばした。
「がはっ……!」 玄の体は、枯れ葉のように舞い、後方の騎士たちの盾に叩きつけられて崩れ落ちた。
「朱鷺様!」 陽菜(ひな)が叫び、懐から式神を放つ! 純白の隼が、光の矢となって時雨に迫るが、それもまた、時雨の周囲に渦巻く「理の歪み」に触れた瞬間、紙細工のように燃え尽き、消滅した。
万事、休す。 朱鷺は、瘴気の腕に拘束され、宙吊りにされながら、憎しみに燃える瞳で、時雨を睨みつけていた。 (ああ……ここで、終わりか。リオ……お父様……お母様……結局、私は……何も、守れず、何も、果たせず……) 朦朧とする意識の中、彼女は、静かに、死を覚悟した。
時雨が、その指先に、瘴気を凝縮させる。朱鷺の命を、今度こそ確実に絶つための一撃が、紫黒の光を放ち、収束していく。 「さらばだ、過去の亡霊。お前も、同胞の糧となれ」
指先から、必殺の一撃が放たれた。 それは、光速。 それは、絶対の死。
誰もが、その光景に、絶望した、その刹那。
シュンッ。
空間が、歪んだ。 時雨と、宙吊りにされた朱鷺。その、ほんの数センチの間に。 ありえないはずの場所に、一人の男が、「出現」した。
「……え?」
朱鷺の、虚ろな瞳が、信じられないものを見たかのように、見開かれる。 そこに立っていたのは、このパーティで最も弱く、卑屈で、いつも何かに怯えていたはずの、あの男。 相田宗一郎だった。
彼は、朱鷺に背を向け、時雨の必殺の一撃を、その細く、震える背中、その一点で、真正面から受け止めていた。
ドゴオオオオオオン!!!
凄まじい轟音。瘴気が爆発し、大気が震える。 だが、 爆発も、衝撃も、何も、起きなかった。
時雨の、世界の理すら書き換えるはずの一撃は、宗一郎の背中に触れる、その寸前。 彼の背中から、わずか一ミリの薄皮一枚の「空間」ごと、別の、どこかも分からない場所へと「転移」させられ、跡形もなく、虚空に消滅していた。
「な……!?」 時雨が、初めて、予測不能な現象を前に、驚愕の声を上げた。
宗一郎は、立っていた。 全身が、凄まじい集中力の行使によって、ガタガタと、みっともなく痙攣していた。 顔からは血の気が引き、脂汗が滝のように流れ、恐怖で奥歯がカチカチと鳴っている。 どう見ても、強者の姿ではなかった。ただ、必死に、そこに立っているだけだった。
「……なぜ」 朱鷺が、拘束されたまま、呆然と、その背中に問いかけた。 「なぜ……私を、庇った……? 私の、復讐は……私の、邪魔を……!」
彼女の思考は、まだ「過去」に囚われている。彼女の「我」は、復讐という名の執着によって、固く閉ざされている。その「我」にとって、宗一郎の行動は、理解不能な「バグ」でしかなかった。
「……う、るさい……」
宗一郎が、絞り出した。 彼の脳裏に、あの薄暗い教室の光景が、鮮烈にフラッシュバックしていた。 『なんで生きてんの?』 『お前みたいなのが、輪の中に入ってこようとすんなよ』 あの時、死を望んでいた、無力な自分。 今、目の前で、過去に囚われ、「死」に向かって盲目的に突き進む、朱鷺の姿。 二つの姿が、ぐちゃぐちゃに、重なった。
彼は、時雨ではない。 背後にいる、朱鷺に向かって、その、みっともなく震える全身で、心の底から、叫んだ。 顔は、恐怖と、安堵と、訳の分からない感情で、涙と鼻水とよだれで、ぐちゃぐちゃになっていた。
「うるさあああああいっ!!」
「あんたの過去が、どれだけ辛かったかなんて、俺に知るかあああっ!!」
それは、英雄の言葉ではなかった。 それは、絶望の縁に立つ仲間を励ます、優しい言葉でもなかった。
「でも! あんたが死んだら、陽菜さんが、泣くだろ! 玄さんだって、絶対、困るだろ!」
彼は、いじめられっ子だった。 誰からも必要とされず、誰の輪にも入れず、ただ、空気のように消えることだけを願っていた。 そんな自分が、今、この異世界で、初めて、不器用ながらも「繋がり」を手に入れた。 陽菜の、屈託のない笑顔。玄の、下品だが、どこか優しい眼差し。朱鷺の、完璧な笑顔の裏にある、不器用な優しさ。 それが、彼にとっての、全てだった。
「俺がっ!!」
「俺が、嫌なんだよっ!!!!」
利己的で、 不器用で、 格好悪くて、 だが、何よりも、純粋な、魂の叫びだった。 「俺の、せっかくできた、この居場所を、あんたの勝手な『過去』のために、これ以上、壊させない!」
その、あまりにも「理を外れた」言葉。 それは、時雨の物理攻撃が、決して届かなかった、朱鷺の心の奥底。 十数年もの間、復讐心という名の、分厚く、冷たい氷の鎧によって、完璧に閉ざされていた、彼女の「我」。 その、一番柔らかい場所を、
バキリ、と。 正面から、貫通した。
「――――あ」
朱鷺の、凍てついていた瞳が、激しく揺れた。 弟が死んで以来、ただ「殺意」と「憎悪」に反応するだけだった彼女の心臓が、全く別の理由で、張り裂けそうなほど、激しく、痛く、脈打つのを感じた。
「……貴様ら、二人とも」
時雨が、自らの「理」の及ばない、二つの「バグ」(宗一郎の力と、宗一郎の叫び)に、初めて、明確な不快感と、殺意を露わにした。 彼が、追撃のために、再び瘴気を収束させようと、手を上げた、その時。
ドォォォンッ!!
森の側面。全く別の方向から、巨大な爆発音と、閃光が迸った。 時雨の集中が、一瞬だけ、そちらへ向く。
「今じゃ、阿呆ども! 退くぞ!!」
聞き慣れた、呑気な、しかし、今は切羽詰まった老人の声。 指南役・鉄斎だった。 いつの間にか、猛(たける)たち『紅蓮の獅子』を率いた別動隊が、陽動のための最大攻撃を、側面から放っていたのだ。
「姐さん! 帰るぞ!」 吹き飛ばされていた玄が、泥だらけの顔で、瘴気の腕から解放された朱鷺の腕を、強引に掴む。 朱鷺は、まだ、呆然と、宗一郎の背中を見つめたまま、立ち尽くしている。
「全員、掴まれ!」
宗一郎が、最後の力を振り絞って叫ぶ。 彼は、玄が掴んだ朱鷺の手を、そして、駆け寄ってきた陽菜と騎士たちの体を、自らの「絶対防御」の空間の内側に、強引に引きずり込む。
「逃がす、か!」 時雨が、再び手を伸ばす。
だが、遅かった。 宗一郎の、最後の意志が、発動する。 空間が、ぐにゃりと歪み、 次の瞬間、一行の姿は、憎悪の渦巻く沼地から、跡形もなく、消え失せていた。
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