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第6部:剣士の涙と贖罪の太刀
第52話:玄の追憶・一 ~『正義』の剣と、ささやかな約束~
しおりを挟むキィン、という甲高い金属音が、瘴気の森に響き渡る。 理性を失い、ただ憎悪のままに振り下ろされた玄の剣は、カゲヤマと名乗る男の妖刀の「鞘」によって、こともなげに受け止められていた 。 その、あまりにも絶対的な実力差。 十五年という時を経てもなお、変わらぬ絶望的なまでの隔絶。 その事実が、玄の脳の奥底にあった、固く閉ざしていた記憶の扉を、容赦なく蹴破った。
視界が、白く染まる。 瘴気の腐臭が消え、代わりに、乾いた畳の匂いと、ほのかな白檀の香りが鼻腔をくすぐる。
――そこは、王都から遠く離れた、小さな城下町だった 。 玄の故郷。十五年前の、空気が澄み渡った、秋の午後 。
町の鍛冶場からは、リズミカルな槌の音が響き渡り、父が師範を務める道場の、使い込まれた床板が「ミシッ」と心地よく軋む 。 夕暮れ時になれば、母屋の台所から、根菜の煮物の、少し甘い醤油の香りが漂ってくる 。 それが、彼の世界の全てだった。
彼の名は、玄ではない。 橘 玄一郎(たちばな げんいちろう) 。当時、二十歳そこそこ。 今のだらしなく伸びた無精髭とは無縁の、清潔な顔立ち。酒に焼けて濁った現在の瞳とは違う、どこまでも真っ直ぐに真実だけを見据えようとする、強い光を宿した瞳。 背筋は、まるで鍛え上げられた竹のように、常にぴんと伸びている 。 無駄口は一切叩かない。冗談も、下卑た笑いも、彼の辞書には存在しない。 彼は、絵に描いたような、真面目で、正義感の塊のような青年だった 。
玄一郎の日常は、ただ、剣の稽古に明け暮れる日々だった。 早朝、陽が昇る前から道場に立ち、素振りを繰り返す。日没後、全ての門下生が去った後も、一人残り、月明かりの下で型を打ち込む。 父の教えは、絶対だった。 「我らが剣は、『正義の剣』。弱きを守り、強きを挫く、王国の盾となるための剣だ」 玄一郎は、その教えを、微塵も疑っていなかった 。 この世界は、守るべき「弱き者」と、打ち倒すべき「悪しき者」で構成されている。そして自分は、その「悪」を討ち滅ぼす「正義」の側にいるのだと、心の底から信じていた。
そんな彼に、唯一、心からの、不器用な笑顔を向けさせる存在がいた。 幼馴染であり、将来を誓い合った許嫁(いいなずけ)、小夜(さよ) 。
「玄一郎様」 彼女は、稽古で汗だくになった彼に手拭いを渡しながら、花が咲くように笑う。 「また、お父様に叱られておりましたね」 「……稽古が、足りんだけだ」 「ふふっ。そうではありませんよ。玄一郎様は、あまりにも真っ直ぐすぎて、いつかその心が、ご自分で振るう剣よりも先に、折れてしまわないか……私、それが心配です」
彼女は、王宮での侍女見習いを終え、その誠実な働きぶりを認められた、聡明な女性だった。そして彼女の次の任地が、決まっていた。 辺境のジルベスタ領。かの地を治める心優しい伯爵(朱鷺の父)の元へ、侍女として仕えることになっていたのだ 。
出発の前夜だった。 二人は、月明かりが清冽(せいれつ)に差し込む道場の縁側で、並んで座っていた。虫の声だけが、秋の夜の静寂(しじま)に響いている 。 玄一郎は、懐から、この数日、慣れない手つきで削り出した、一羽の小さな木彫りの鳥(キジバト)の根付(ねつけ)を、無言で彼女に手渡した 。 「……これを、お守りに」 小夜は、その不器用な贈り物に、嬉しそうに目を細める。
「小夜」 玄一郎は、真っ直ぐに前を見据えたまま、誓いの言葉を紡いだ。 「ジルベスタの冬は厳しいと聞く。だが、次の秋、収穫祭の頃には、必ず、お前を迎えに行く。そして、王都で式を挙げよう」 彼の声には、揺るぎない自信が満ちていた。 「俺の剣は、お前と、この国に生きる全ての人々を守るためにある。必ず、守り抜いてみせる」
それが、彼の「正義」であり、彼が信じる世界の全てだった。 小夜は、愛おしそうに彼を見つめると、懐から、彼が以前彫った、対になるもう一羽の鳥の根付を取り出し、彼の手のひらに握らせた。 「はい。楽しみにお待ちしています」 彼女は、幸せそうに微笑んだ。 「私も、玄一郎様が、その正義の剣に疲れた時に……いつでも帰ってこられる場所を、ここで守っていますから」
翌朝。 抜けるような秋晴れの空の下、小夜を乗せた馬車が、ジルベスタ領へと出発していった。 玄一郎は、道場の入り口に立ち、その姿が見えなくなるまで、真っ直ぐに、ただ真っ直ぐに見送り続ける。
彼の心は、希望に満ちていた。 揺るぎない自らの「正義」への自信と、愛する人を生涯守り抜くという、強く、純粋な「渇愛(かつあい)」に満ち溢れていた 。
彼はまだ、知らなかった。 その誓いこそが、彼の人生で最も重く、残酷な呪いとなることを。 そして、彼が信じた「正義」が、最も無力なものとなる「紅い夜」が、あと一年後に迫っていることなど、知る由もなかった。
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