夢の雫~保元・平治異聞~

橘 ゆず

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第一章 出逢い

3.前夜

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その年の夏は飛ぶように過ぎた。

付け焼き刃もいいところだけれど、槙野にうるさく言われて裁縫だの、お習字だの、立ち居振る舞いのお作法など、花嫁修業めいたものに追われているうちに、いつの間にか秋風が吹きはじめ、気がついたら婚礼を明日に控えるばかりとなっていた。

「お衣裳はすべて揃っていますか?」
「御膳の数は足りていますね?お料理の仕込みは?」
「ああ、違います!そこの几帳はそれではなくてこちらの垂れ布を!」

婚礼に関して、奥向きの事の総指揮に当たっている槙野は、その日は朝から頭に血が登って引っ繰り返るんじゃないかと心配になる勢いで館じゅうを走り回っている。

ずっと、いまいち実感が湧かずにここまで来てしまった私も、この期に及んでさすがに緊張してきた。

なんと言っても明日には、夫となる人と会って、その夜にはもう夫婦となるのだ。
緊張しない方がおかしい。
その日の夜は母様が私の部屋に泊りに来て下さった。

「姫がお嫁にいってしまえばもうこんな事も出来ませんものね」

お嫁にいく、とは言っても明日からも同じ邸内に住むのだけれど。
そんな風に改まって言われると、なんだかしんみりしてしまう。

思わず滲みそうになった涙を誤魔化す為に、私は慌てて口を開いた。

「ねぇ、母様。正清さまってどんな方かしら?」

 今日までもう何度聞いたか分からない質問をまた繰り返す。

 母様のお返事もいつもと同じ。

「お強くて逞しくて、お優しい方ですよ。きっと姫を大切にして、生涯かけて守って下さる頼りがいのある旦那さまですよ」

「父様が母様にそうされているみたいに?」

「まぁ、ふふふ。そうね。母様が父上にしていただいているように、それ以上にきっと姫を幸せにして下さいますよ」

 縁談が決まった日より、繰り返し繰り返し聞かされてきた言葉。

 私が今日まで、さしたる不安もなく来られたのは  実感がいまいち湧いていないというせいもあるけれど、いつでも微笑みながらそう言って下さる母様がいたからかもしれない。

 結婚をして。
 人の妻となったら。

 こんな風に、にこにこと微笑みながら、夫や子供たちの世話をして、使用人たちにも心を配って、心穏やかに暮らせる平和で幸福な毎日が待っていると。

そう信じられたからなのかもしれない。

その夜は母様と、布団を並べて眠った。

が、やはり緊張しているのかもしれない。

夜中に目が覚めてしまった。
隣りでは母様が健やかな寝息をたてている。

普段なら、私の僅かな身じろぎの気配でも目を覚まして

「姫さま、如何なさいました?」
と、次の間から声をかけてくる槙野も昼間の疲れからぐっすりと眠っているようだ。

(喉が渇いたな)

お水が飲みたいと思ったけれど、明日も忙しい槙野をこんな夜更けに起こすのは可哀想である。

私は、夜着の上に薄物の単衣を一枚羽織ってそっと部屋を滑り出た。

一応、この野間の荘では「姫さま」で通っている私だけれど、母様の方針で幼い頃から、身の回りの事くらいは何でも自分で出来るように育てられている。

だから、着替えをしたり、ちょっとした繕い物をしたり。
水や白湯を取りに水屋に足を運んだり、というような事は日常的に自分でしている。
もともと、動き回るのが性にあっている私には母様の教えは合っていたと思うけれど。

祖母君は、都のさる上卿のお邸で女房をしていたという、侍女たちの言葉を借りれば、『都かぶれ』の槇野は、私を物語に出てくるような貴族の姫君のように育てることを理想としていて、何かにつけては

「姫さまは、多少慎み深さや奥ゆかしさに欠けますわね」
と溜め息まじりに漏らしている。

しんと静まり返った水屋で、水甕から柄杓で水を掬って飲んだ。

毎日、朝一番に下働きの雑仕女たちが井戸から汲み上げてくる水は、今は少しぬるくなっていた。

もう数刻もしたら、日が昇ると同時に、また井戸から汲んだばかりの冷たくて涼やかな水に入れ替えられるのだろう。
水屋のなかは、真っ暗だったが、勝手が分かっているので、どこかにぶつかったり躓いたりすることはなかった。

その時。
かすかに馬のいななきが聞こえたような気がした。

水屋のある離れから、厩はわりと近い。
明日の婚礼に備えて、すでに今夜から邸内に泊まり込んでいるお客様もいらして、そのお客様がたの乗馬もそこに繋がれているはずだった。

(慣れない厩に繋がれて落ち着かないのかしら)

少し耳を澄ませてみる。
確かに馬の昂奮したようないななきが聞こえる。

後から思えば、なぜそんな事をしたのか分からないのだけれど。

私はその声に誘われるように、水屋を出た。
土間に降りる時につっかけた草履のまま、厩の方に歩いていく。

昼間はまだ暑さが残っているけれど、この時間はさすがに涼しく、草履越しの地面からもひんやりとした感触が伝わってくる。

虫の音が降るようだった。





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