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第二章 上洛
湖畔
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道中は順調だった。
義父上から遣わされてきた橋田どのは、こういう事の差配に慣れておられるらしく、宿の手配から食事や衣類、車や馬の世話まで滞りなく、テキパキと指示して行程をすすめて下さった。
私は、故郷や両親と別れた寂しさや、来るべき都での暮らしへの不安も一時忘れて、珍しい旅の空を楽しんでいた。
ただ一つ。
槇野の愚痴の多いことを除けば、だけれど。
最初のうちこそ、
「都にあがったら、あちらの女人方に侮られてはなりませぬ!」
などと、もう正清さまに女君がいらっしゃることを勝手に、前提にして気炎をあげていた槇野だったけれど。(それだけでも十分煩わしかったけれど……)
ものの二日もたたないうちに、やれ腰が痛いだの足が痛いだの、宿の食事がまずいだのと文句を言い出した。
他にも暑いだの寒いだの、虫が出ただの、宿の床が汚くて衣が汚れただの,よくもそう次々と不平の種を探してくるものだと感心するほどだ。
その度にいちいち恐縮している橋田どのが気の毒で仕方がなくて割って入るのだが毎日のように口論になる。
「いい加減にしなさい、槙野。そんなに文句ばかり言うならここから一人で野間へお帰りなさい!」
「まあまあ。姫さまは殿がいらっしゃならい所ではご威勢のよろしいこと!恐れながら、そういうのを世間では猫かぶりと申しますのよ」
「どこが恐れながらなのよっ! 言っとくけどねっ! 槇野なんてお邸の若い使用人たちの間では猫かぶりどころか『安達が原の鬼婆』って呼ばれてるのよっ!」
「まああ!どこの誰ですのっ!そんな事を言い出したのは!」
「言い出したのは私だけど」
「姫さまっ!!」
しまいには、うなだれて困り果てていた橋田どのも大笑いになって終ることが多いのだけれど。
この槇野の、最近ますます血気盛んな口達者ぶりを見ていると、京についてからの暮らしが今から思いやられてくる。
事件は、近江の国の瀬田という宿りに到着した時に起こった。
橋田どのが高い熱を出して寝込んでしまったのだ。
前日から少し顔色が優れないとは思っていたのだけれど、その翌朝目覚めてみたら、熱が高く、咳が激しくて、枕も上がらないようなありさまだった。
「お加減はいかが?」
果物を持って病室を訪れると、橋田どのはしきりに恐縮していた。
「申し訳ござりませぬ。御方さま。京まであと一息というところで世話役のそれがし自身が道中の足止めになってしまうなど……。お恥ずかしゅうございます」
「病は時も人も選ばぬもの。そんなことを気に病んでいたら治るものも治りませんよ」
私は笑って枕元に座った。
「もったいないお言葉。しかし、若殿はさぞかし、御方さまのご到来を首を長くしてお待ちでございましょう。明日にはどうでもこの宿を発たねば……」
私は手を伸ばして橋田どのの額に触れた。まだひどく熱い。
「無理を言ってはだめよ。まだこんなに熱が高いではありませんか」
楓に持たせてきた水桶に手拭を浸して固く絞り、額に乗せてやると橋田どのはハラハラと涙をこぼした。
「病を得て、かような場所にお留まりを強いてしまったばかりか御方さま手ずからご看病まで……。もったいなや…」
律儀で実直な人なのだ。
「ほら、もういいから。そのように四六時中、気を張り詰めているから旅の疲れが出たんだわ。私はここの宿が気に入っているの。縁側に出ると近江の湖がすっかり見渡せて、はればれとして気持ちがいいわ。
半月ほどもゆっくり滞在していたいくらいよ」
「……御方さま…」
「京の義父上には、佳穂が我儘を言ってどうしても近江の湖で舟遊びをしたり、有名な石山詣をしたいとダダをこねたので、仕方がなかったとでもおっしゃい。そういえば、ここから石山寺はすぐ近くですものね。
本当にそうしようかしら。そこで橋田どのの病の平癒のご祈祷でもしてきてあげるわ。……こんな、ついでみたいに言ったら悪いわね」
持参した柑子の皮を剥きながら肩をすくめると、橋田どのはまた目に涙を溢れさせた。
「…なんと、お優しい事を……。御方さま。このご恩は必ず……もし御方さまの御身に何かあらばこの橋田三郎、一命を賭してお役に立ちまするぞ」
「また、そんな大袈裟な。今はそんな風に肩に力を入れないで。栄養のあるものを食べて、横になっていらっしゃいな。はい、この話はもうおしまい。これ、食べられるようなら食べて」
皮を剥いた柑子の実を小皿に乗せて差し出すと、橋田どのは
「もったいない……」
などと、まだブツブツ言いながら床の上に半身を起こした。
その動作は、ひどくのろのろとして気だるそうだ。
それを見て、少なくともあと3日か4日はこの宿にとどまろうと心を決める。
部屋に戻ると、槇野が待ち構えたように尋ねてきた。
「それで?出立はいつになりそうなのですか?」
私はうんざりと顔をしかめた。
「あのね、槇野。お見舞いから戻った人に最初に言う言葉がそれ?橋田どののお加減はいかがでしたか? とか尋ねるのが普通でしょ」
「そうは仰いましても、もう三日もこの宿で足止めをくっておりますのよ。本当ならもうとっくに京のお邸についておる頃ですのに……」
「そんな事言ったって仕方がないでしょう。体の調子が悪いのだから」
「姫さまがそうやってお優しいことばかりを仰っているから、あのお爺殿は甘えておるだけですよ。
病は気からと申すではありませんか! その気になって、しゃきっと気合を入れれば、この瀬田から京までの道のりなど気力で乗り切れますわよ」
乱暴なことを言う。
よくぞ、この乳母のもとで、私も、実の娘である楓も無事に今日まで生き延びてきたものだ。
風邪をひいて寝込むたびに「気合で治せ」と言われるんじゃたまったものじゃない。
「無茶苦茶を言うんじゃないの。それに私はここの宿場町が気に入ってるのよ。近江の湖の風景も美しいし、名所旧跡も近くに多いし。そうだわ。さっき、橋田殿にも言ったのだけれど、槙野。待ってる間に石山寺にお参りに行かない?」
そそのかすように言うと、槙野はたちまち心を惹かれた様子で。
でも、それをあからさまに表に出すのは悔しいのか、ブツブツと言った。
「姫さまは相変わらずのんびりしていらっしゃること。一刻も早く殿にお会いしたくはございませんの?」
「それはもちろんお会いしたいけど……」
なんとなく口ごもる私を見て、槙野が訝しげに目を細めた。
「けど、なんでございます?」
「でも、京に着いてしまったらもう、こんなお気楽な暮らしもおしまいなのよねー、とか思うとちょっと寂しいというか、もうちょっとのんびりしてみても良いかな、というか…」
怒るかと思った槙野はがくりと首をうなだれた。
「本当に姫さまは……。昔からそういうところがおありでしたけれど、相変わらずというか何というか…」
「そういうところって?」
「姫さまはお小さい頃から、私や母君さまがお側を離れても少しも寂しがらず、その時側にいる侍女に懐いて、ご機嫌よくお過ごしになられるようなお子様でした。手がかからないといえばかからないのですが、乳母としては寂しいというか、物足りない思いをしたこともございましたわ。さぞ、お寂しい思いをしていらっしゃるのではないか、泣いていらっしゃるのではないかと気を揉んで、急いで用事を済ませて戻れば、他の侍女を相手になんの屈託もなく笑っていらっしゃるのですもの」
確かに。私はそういうところがあるかもしれない。
けど、それと今の話と何の関係があるのかしら?
「三つ子の魂百までと申しますけれどね。今の姫さまのおっしゃりようを伺って、槙野はつくづくその通りだと思いましたわ。姫さまは夫君に対してもそういう姿勢でいらっしゃいますのね。もちろん、正清さまのことを好いてはいらっしゃるのでしょうけれど…。身も世もなく、頼り切って、殿がいらっしゃらなければ生きてはいけない、というほどではございませんのね?」
「そんな風に言われるとちょっと角がたつけれど……まあ、そうよね」
私は渋々、認めた。
「そもそも、正清さまがいらっしゃらないと生きてはいけないほどだったら、私は今頃とっくに死んでなきゃならないじゃないの。結婚以来、一緒にいられる時間の方が少ないんだから」
「そういうお話ではございません!」
槙野は情けなさそうに言った。
「実際に死ぬの生きるのというお話ではございません。 もっと言えば、実際にそれほど殿を想っていらっしゃるかどうかというお話でもございません。 内心はどうあれ、殿の御前ではもう少し、『あなた様なしでは私は一日とて生きてはいられないのです……』といった、たおやかな、風にも耐えない様な儚げな風情を出された方がよろしいと申し上げているのです」
槙野の作り声の台詞を聞いて私はけらけら笑った。
「槙野も清五郎の前では、そうやって言ってるの?」
後ろで楓がぶっと噴出し、槙野はまた床を叩いて声を荒げた。
「姫さま!また、そうやっておふざけになって!」
「別にふざけてないけど…」
言いながらもまだ笑いの止まらない私を見て、槙野は深々とため息をついた。
「俗に『京女は好いても惚れぬ』と申しますけれど、姫さまはそこだけは京風でございますのね」
「何よ、それは」
「京のおなごは殿方のことを好いても、わが身を賭して惚れぬくということがない。恋をしていてもどこか冷静だ、というような意味の諺にございます。正清さまは、人の情け深い東国のお生まれ。さようなことでは、薄情で可愛げもない女子よと愛想を尽かされてしまいますよ」
「はあい」
私は、適当に返事をして肩をすくめた。
「姫さまも、ご結婚なさった当初は、もうちょっと殿にお縋りするようなお可愛らしいところがおありでしたのにねえ…」
槙野がわざとらしくため息をつく。
私は聞き咎めた。
「なあに?どういう意味?」
「『殿が義朝さまのことのみを思うてお過ごしなら、その間、私は殿のことのみを思うて毎日暮らしまする』だとか」
「は?」
「『殿があまりにお優しいことをおっしゃるからお側を離れるのが寂しくなってしまいました』とか」
「………」
「あの時の姫さまは我が養い君ながら本当にいじらしくてお可愛らしくていらっしゃいました。
それが今ではすっかりこのように口ばかり達者になられて……」
はじめはキョトンとして聞いていた私の頬にたちまちカアッと血が上ってくる。
「な、な、な……っなによ、それっ!」
「あら。姫さまが正清さまに申し上げたお言葉でございますわよ。よもやお忘れでございますか?」
「そういう事じゃなくって!なんっで槙野がそれを知ってるのよっ!!」
今、槙野がわざとらしい作り声で再現した台詞は確かに、結婚間もない頃に私が正清さまに申し上げたものである。
忘れっぽい私だけれど、さすがに覚えている。
けどっ!!
どれも寝所の中でだとか……。
朝、お着替えのお手伝いをしながらだとか…。
正清さまと二人っきりの時に申し上げた言葉であって、私と正清さま以外、誰も知らないはずの内容なのに……。
「槙野……あなた聞いてたの?」
「はい。たまたま、洩れ聞こえたもので」
槙野はまったく悪びれずに頷いた。
「洩れ聞こえるわけないでしょっ!部屋の中には間違いなく私と正清さましかいなかったんだからっ!どこにいたのよ!床下?天井裏?」
「まさか。私は鼠や野良犬ではございませんのよ。そんな盗み聞きみたいなことはいたしません!正々堂々と立ち聞きしておったのです」
怒りと、恥ずかしさで私は卒倒しそうになった。
「なんでそんなことするのよっ!馬鹿!」
もう涙目になって怒鳴る私に、槙野はあくまでしれしれと
「馬鹿とは失礼な。私は姫さまの身を案じて、万が一に備えてお側近くに身を潜めておっただけにございます」
と、胸を張った。
何が万が一よ。何が姫さまの身を案じてよっ!
私はもう怒る気力もなくして脇息に突っ伏した。
腹がたつっていうより、もう恥ずかしくて恥ずかしくて顔があげられない。
槙野が聞いてるって知ってたら、あんなこと口が裂けても言わなかったのに…!
というか。あれを聞いてたんだとしたら、その後のあれこれとか。
ううん。そもそも、婚礼の夜からずっと寝所のすぐ側に控えて聞き耳立てていたんじゃ……。
そう思うともう頭から衣を引き被って、近江の湖にでも飛び込みたくなってくる。
「姫さま?いかがなさいました?」
「うるさいっ!もうあっち行って!槙野なんか大嫌い!大っ嫌いよ!」
それから橋田どのが回復されて、この瀬田の宿を出立する五日後まで。
私と槙野はほとんど口を利かなかった……。
義父上から遣わされてきた橋田どのは、こういう事の差配に慣れておられるらしく、宿の手配から食事や衣類、車や馬の世話まで滞りなく、テキパキと指示して行程をすすめて下さった。
私は、故郷や両親と別れた寂しさや、来るべき都での暮らしへの不安も一時忘れて、珍しい旅の空を楽しんでいた。
ただ一つ。
槇野の愚痴の多いことを除けば、だけれど。
最初のうちこそ、
「都にあがったら、あちらの女人方に侮られてはなりませぬ!」
などと、もう正清さまに女君がいらっしゃることを勝手に、前提にして気炎をあげていた槇野だったけれど。(それだけでも十分煩わしかったけれど……)
ものの二日もたたないうちに、やれ腰が痛いだの足が痛いだの、宿の食事がまずいだのと文句を言い出した。
他にも暑いだの寒いだの、虫が出ただの、宿の床が汚くて衣が汚れただの,よくもそう次々と不平の種を探してくるものだと感心するほどだ。
その度にいちいち恐縮している橋田どのが気の毒で仕方がなくて割って入るのだが毎日のように口論になる。
「いい加減にしなさい、槙野。そんなに文句ばかり言うならここから一人で野間へお帰りなさい!」
「まあまあ。姫さまは殿がいらっしゃならい所ではご威勢のよろしいこと!恐れながら、そういうのを世間では猫かぶりと申しますのよ」
「どこが恐れながらなのよっ! 言っとくけどねっ! 槇野なんてお邸の若い使用人たちの間では猫かぶりどころか『安達が原の鬼婆』って呼ばれてるのよっ!」
「まああ!どこの誰ですのっ!そんな事を言い出したのは!」
「言い出したのは私だけど」
「姫さまっ!!」
しまいには、うなだれて困り果てていた橋田どのも大笑いになって終ることが多いのだけれど。
この槇野の、最近ますます血気盛んな口達者ぶりを見ていると、京についてからの暮らしが今から思いやられてくる。
事件は、近江の国の瀬田という宿りに到着した時に起こった。
橋田どのが高い熱を出して寝込んでしまったのだ。
前日から少し顔色が優れないとは思っていたのだけれど、その翌朝目覚めてみたら、熱が高く、咳が激しくて、枕も上がらないようなありさまだった。
「お加減はいかが?」
果物を持って病室を訪れると、橋田どのはしきりに恐縮していた。
「申し訳ござりませぬ。御方さま。京まであと一息というところで世話役のそれがし自身が道中の足止めになってしまうなど……。お恥ずかしゅうございます」
「病は時も人も選ばぬもの。そんなことを気に病んでいたら治るものも治りませんよ」
私は笑って枕元に座った。
「もったいないお言葉。しかし、若殿はさぞかし、御方さまのご到来を首を長くしてお待ちでございましょう。明日にはどうでもこの宿を発たねば……」
私は手を伸ばして橋田どのの額に触れた。まだひどく熱い。
「無理を言ってはだめよ。まだこんなに熱が高いではありませんか」
楓に持たせてきた水桶に手拭を浸して固く絞り、額に乗せてやると橋田どのはハラハラと涙をこぼした。
「病を得て、かような場所にお留まりを強いてしまったばかりか御方さま手ずからご看病まで……。もったいなや…」
律儀で実直な人なのだ。
「ほら、もういいから。そのように四六時中、気を張り詰めているから旅の疲れが出たんだわ。私はここの宿が気に入っているの。縁側に出ると近江の湖がすっかり見渡せて、はればれとして気持ちがいいわ。
半月ほどもゆっくり滞在していたいくらいよ」
「……御方さま…」
「京の義父上には、佳穂が我儘を言ってどうしても近江の湖で舟遊びをしたり、有名な石山詣をしたいとダダをこねたので、仕方がなかったとでもおっしゃい。そういえば、ここから石山寺はすぐ近くですものね。
本当にそうしようかしら。そこで橋田どのの病の平癒のご祈祷でもしてきてあげるわ。……こんな、ついでみたいに言ったら悪いわね」
持参した柑子の皮を剥きながら肩をすくめると、橋田どのはまた目に涙を溢れさせた。
「…なんと、お優しい事を……。御方さま。このご恩は必ず……もし御方さまの御身に何かあらばこの橋田三郎、一命を賭してお役に立ちまするぞ」
「また、そんな大袈裟な。今はそんな風に肩に力を入れないで。栄養のあるものを食べて、横になっていらっしゃいな。はい、この話はもうおしまい。これ、食べられるようなら食べて」
皮を剥いた柑子の実を小皿に乗せて差し出すと、橋田どのは
「もったいない……」
などと、まだブツブツ言いながら床の上に半身を起こした。
その動作は、ひどくのろのろとして気だるそうだ。
それを見て、少なくともあと3日か4日はこの宿にとどまろうと心を決める。
部屋に戻ると、槇野が待ち構えたように尋ねてきた。
「それで?出立はいつになりそうなのですか?」
私はうんざりと顔をしかめた。
「あのね、槇野。お見舞いから戻った人に最初に言う言葉がそれ?橋田どののお加減はいかがでしたか? とか尋ねるのが普通でしょ」
「そうは仰いましても、もう三日もこの宿で足止めをくっておりますのよ。本当ならもうとっくに京のお邸についておる頃ですのに……」
「そんな事言ったって仕方がないでしょう。体の調子が悪いのだから」
「姫さまがそうやってお優しいことばかりを仰っているから、あのお爺殿は甘えておるだけですよ。
病は気からと申すではありませんか! その気になって、しゃきっと気合を入れれば、この瀬田から京までの道のりなど気力で乗り切れますわよ」
乱暴なことを言う。
よくぞ、この乳母のもとで、私も、実の娘である楓も無事に今日まで生き延びてきたものだ。
風邪をひいて寝込むたびに「気合で治せ」と言われるんじゃたまったものじゃない。
「無茶苦茶を言うんじゃないの。それに私はここの宿場町が気に入ってるのよ。近江の湖の風景も美しいし、名所旧跡も近くに多いし。そうだわ。さっき、橋田殿にも言ったのだけれど、槙野。待ってる間に石山寺にお参りに行かない?」
そそのかすように言うと、槙野はたちまち心を惹かれた様子で。
でも、それをあからさまに表に出すのは悔しいのか、ブツブツと言った。
「姫さまは相変わらずのんびりしていらっしゃること。一刻も早く殿にお会いしたくはございませんの?」
「それはもちろんお会いしたいけど……」
なんとなく口ごもる私を見て、槙野が訝しげに目を細めた。
「けど、なんでございます?」
「でも、京に着いてしまったらもう、こんなお気楽な暮らしもおしまいなのよねー、とか思うとちょっと寂しいというか、もうちょっとのんびりしてみても良いかな、というか…」
怒るかと思った槙野はがくりと首をうなだれた。
「本当に姫さまは……。昔からそういうところがおありでしたけれど、相変わらずというか何というか…」
「そういうところって?」
「姫さまはお小さい頃から、私や母君さまがお側を離れても少しも寂しがらず、その時側にいる侍女に懐いて、ご機嫌よくお過ごしになられるようなお子様でした。手がかからないといえばかからないのですが、乳母としては寂しいというか、物足りない思いをしたこともございましたわ。さぞ、お寂しい思いをしていらっしゃるのではないか、泣いていらっしゃるのではないかと気を揉んで、急いで用事を済ませて戻れば、他の侍女を相手になんの屈託もなく笑っていらっしゃるのですもの」
確かに。私はそういうところがあるかもしれない。
けど、それと今の話と何の関係があるのかしら?
「三つ子の魂百までと申しますけれどね。今の姫さまのおっしゃりようを伺って、槙野はつくづくその通りだと思いましたわ。姫さまは夫君に対してもそういう姿勢でいらっしゃいますのね。もちろん、正清さまのことを好いてはいらっしゃるのでしょうけれど…。身も世もなく、頼り切って、殿がいらっしゃらなければ生きてはいけない、というほどではございませんのね?」
「そんな風に言われるとちょっと角がたつけれど……まあ、そうよね」
私は渋々、認めた。
「そもそも、正清さまがいらっしゃらないと生きてはいけないほどだったら、私は今頃とっくに死んでなきゃならないじゃないの。結婚以来、一緒にいられる時間の方が少ないんだから」
「そういうお話ではございません!」
槙野は情けなさそうに言った。
「実際に死ぬの生きるのというお話ではございません。 もっと言えば、実際にそれほど殿を想っていらっしゃるかどうかというお話でもございません。 内心はどうあれ、殿の御前ではもう少し、『あなた様なしでは私は一日とて生きてはいられないのです……』といった、たおやかな、風にも耐えない様な儚げな風情を出された方がよろしいと申し上げているのです」
槙野の作り声の台詞を聞いて私はけらけら笑った。
「槙野も清五郎の前では、そうやって言ってるの?」
後ろで楓がぶっと噴出し、槙野はまた床を叩いて声を荒げた。
「姫さま!また、そうやっておふざけになって!」
「別にふざけてないけど…」
言いながらもまだ笑いの止まらない私を見て、槙野は深々とため息をついた。
「俗に『京女は好いても惚れぬ』と申しますけれど、姫さまはそこだけは京風でございますのね」
「何よ、それは」
「京のおなごは殿方のことを好いても、わが身を賭して惚れぬくということがない。恋をしていてもどこか冷静だ、というような意味の諺にございます。正清さまは、人の情け深い東国のお生まれ。さようなことでは、薄情で可愛げもない女子よと愛想を尽かされてしまいますよ」
「はあい」
私は、適当に返事をして肩をすくめた。
「姫さまも、ご結婚なさった当初は、もうちょっと殿にお縋りするようなお可愛らしいところがおありでしたのにねえ…」
槙野がわざとらしくため息をつく。
私は聞き咎めた。
「なあに?どういう意味?」
「『殿が義朝さまのことのみを思うてお過ごしなら、その間、私は殿のことのみを思うて毎日暮らしまする』だとか」
「は?」
「『殿があまりにお優しいことをおっしゃるからお側を離れるのが寂しくなってしまいました』とか」
「………」
「あの時の姫さまは我が養い君ながら本当にいじらしくてお可愛らしくていらっしゃいました。
それが今ではすっかりこのように口ばかり達者になられて……」
はじめはキョトンとして聞いていた私の頬にたちまちカアッと血が上ってくる。
「な、な、な……っなによ、それっ!」
「あら。姫さまが正清さまに申し上げたお言葉でございますわよ。よもやお忘れでございますか?」
「そういう事じゃなくって!なんっで槙野がそれを知ってるのよっ!!」
今、槙野がわざとらしい作り声で再現した台詞は確かに、結婚間もない頃に私が正清さまに申し上げたものである。
忘れっぽい私だけれど、さすがに覚えている。
けどっ!!
どれも寝所の中でだとか……。
朝、お着替えのお手伝いをしながらだとか…。
正清さまと二人っきりの時に申し上げた言葉であって、私と正清さま以外、誰も知らないはずの内容なのに……。
「槙野……あなた聞いてたの?」
「はい。たまたま、洩れ聞こえたもので」
槙野はまったく悪びれずに頷いた。
「洩れ聞こえるわけないでしょっ!部屋の中には間違いなく私と正清さましかいなかったんだからっ!どこにいたのよ!床下?天井裏?」
「まさか。私は鼠や野良犬ではございませんのよ。そんな盗み聞きみたいなことはいたしません!正々堂々と立ち聞きしておったのです」
怒りと、恥ずかしさで私は卒倒しそうになった。
「なんでそんなことするのよっ!馬鹿!」
もう涙目になって怒鳴る私に、槙野はあくまでしれしれと
「馬鹿とは失礼な。私は姫さまの身を案じて、万が一に備えてお側近くに身を潜めておっただけにございます」
と、胸を張った。
何が万が一よ。何が姫さまの身を案じてよっ!
私はもう怒る気力もなくして脇息に突っ伏した。
腹がたつっていうより、もう恥ずかしくて恥ずかしくて顔があげられない。
槙野が聞いてるって知ってたら、あんなこと口が裂けても言わなかったのに…!
というか。あれを聞いてたんだとしたら、その後のあれこれとか。
ううん。そもそも、婚礼の夜からずっと寝所のすぐ側に控えて聞き耳立てていたんじゃ……。
そう思うともう頭から衣を引き被って、近江の湖にでも飛び込みたくなってくる。
「姫さま?いかがなさいました?」
「うるさいっ!もうあっち行って!槙野なんか大嫌い!大っ嫌いよ!」
それから橋田どのが回復されて、この瀬田の宿を出立する五日後まで。
私と槙野はほとんど口を利かなかった……。
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