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第三章 確執
噂(一)
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この夜の事件以来。
義朝さまと為義さまのご関係はますます冷えたものになっていかれた。
由良の方さまは、それに御心を痛めておいでだったけれど……。
お気を遣われた結果があのような事になってしまった以上、もうどうすることもお出来にならないようだった。
御父子の間の冷ややかな緊張関係は、この夜より二年後の仁平三年(1153年)
為義さまがご次男の義賢さまに、源家嫡流の証である『友切の太刀』を授ける決断をされ。
その後、久寿二年(1155年)義朝さまのご長男、義平さまにより義賢さまが武蔵の国大蔵にて殺害され、『友切』を奪い返したことにより、その決裂が決定的なものになるまで。
不思議な静けさをもって続くこととなる。
浅茅さまは、御方さまの御身を案じておられた。
表面上は何事もないように気丈に振る舞っておられたし、凛としたお美しさも、鬼武者さまにお見せになる厳しくも慈しみに溢れたお顔もいつも通りだったけれど……。
ふとした折にみせられる憂いに曇ったお顔と。
以前よりもほっそりとされた頬のあたりがその内面のお悩みの深さを物語っていた。
御方さまの御心をお悩ませしているのは、義朝さま父子の不仲の問題だけではなかった。
義朝さまはこのところ、お邸を空けられることが多くなられていた。
夜になってもお戻りにならず、昼日中も、四日も五日もお姿をお見せになられない日が続いた。
浅茅さまにせっつかれて、それとなく正清さまに伺っても
「知らぬ」
「殿は何かとお忙しいのだ」
と素っ気無く返されるだけで、まったく要領をえない。
最初は、為義さまと言い争いの末、激しく殴打されたのを見られた気まずさと、その原因となる宴を催された御方さまに対して、拗ねたようなお気持ちでおられるだけなのかと思っていたけれど。
そのうち、ひとつの噂が耳に入ってきた。
義朝さまに新しい女君がお出来になったというのだ。
義朝さまに他に女君がいらっしゃるというお話自体は、何ら目新しいものではない。
これまでも、どこそこの女官と恋仲になられただの、何某殿の娘御のもとへ通われただのというお噂は枚挙にいとまがないほどだった。
だが、そのどれもがご正室の由良御前さまのご出自と比べたら、取るに足らない身分の女性ばかりがお相手で。
御方さまも、それらのお噂はすべてご存知のうえ、ほとんど気にかけておられないように見えた。
なんといっても、こちらの御方さまはご正室でそのうえ、ご嫡男となる鬼武者さまを儲けられている。
今さら、そのような女君が山となって現れようとも、こちらの御方さまのお立場にまったく揺るぎはないはずで。
数多いられるご愛妾の存在など、歯牙にもかけられず、いつも毅然とした誇り高い態度を崩さずにいられるお方さまを、私たち周りの者たちも心より尊敬し、憧れをもって見上げてきたのだけれど。
此度の女君の噂に限り、お側の女房衆の心を騒がせたのには理由があった。
女君の御名は常盤の君。
今上帝の中宮、呈子さまの御殿にお仕えする雑仕女で、年齢はなんとまだ十四歳といううら若さだという。
それくらいならば、これまでの他の女君と比べて特に騒がれることもなかったと思うのだけれど。
常盤の君は、今から数年前。
中宮呈子さまがご入内になる折に催され、都中の話題をさらった『久安の美女選び』で、都のうちから集められた千人の美女のなかから、最も美しい一人として選び抜かれ、洛中随一の美貌を謳われた評判の美人というのである。
『衣通姫(そとおりひめ)の再来』
とも評される、噂の女人を射止める幸運な殿方は誰であろうというのは、ここ数年来、都びとの興味をそそってきた話題だったのだけれど。
その女性を義朝さまが見事射止め、宮中の常盤の君の曹司にまで度々忍ばれるということは、いまや宮中では誰知らぬこともない公然たる事実とのことだった。
「十四などとまだほんの子どもではないですか。なにが洛中随一の美女じゃ。馬鹿馬鹿しい」
御方さまが、統子内親王さまの御所に上がられてお留守の際。
お居間に集めた私たちを相手に浅茅さんは憤懣やるかたないといった風で、義朝さまへの不満をぶちまけた。
「おおかた、ちょっと人より器量が良いのをいいことに閨で殿方に甘えるしか能のない小娘なのでしょう。
そんな女が、我がお方さまの御心をわずかでも曇らせておるなど…考えただけでも腹立たしい!」
いつも冷静でてきぱきと物事を運ばれる浅茅さんだけれど、ことが大切な養い君の御方さまのこととなると、どうしても頭に血が上った物言いになってしまわれるようだった。
「まあまあ、浅茅さま。落ち着いて下さいませ」
私は宥めるように云った。
「洛中随一の美女といったところで、その集められた千人のうちには由良の御方さまは入っていなかったのでございましょう?」
「当り前です! 例のお祭り騒ぎ自体が、雑仕女を選ぶという、いわば下賤の女子を集めた催しだったのですから」
「だったら、その洛中随一のお美しさという評判も、少なくともうちの御方さまを除いては、という但書がついてのものにございましょう。だって御方さまのようにお美しくて、気高くて、教養深く聡明な女性は帝の姫宮にもなかなかいらっしゃらないと思いますもの」
私が言うと、浅茅さまはようやく頬をゆるめて満足げに頷かれた。
「当り前です。我が姫君ほどご容姿のみならず、内面から輝き出るようなお美しさをお持ちの女君など他にいらっしゃいませんよ」
そのご様子に、まわりの女房たちがあからさまにほっとした顔をする。
浅茅さまのご機嫌の良し悪しは、御殿の雰囲気を大きく左右するのでお仕えしている女房たちにとっては疎かに出来ないものなのだ。
しかし、空気が和らいだのもつかの間。
「ときに佳穂どの」
浅茅さんが、ちらりと鋭い視線を送ってきた。
「その常盤とかいう娘の様子。義朝さまがもうすっかり心奪われてしまって、夜も昼もないご寵愛ぶりだとかいう、胸が悪くなるような都すずめどもの噂話はまことか否か、少しは聞くことが出来ましたか?」
「さ、さあ、それはなんとも……」
私は曖昧に言って首をすくめた。
「なんともではありませぬ!そなたの夫君は義朝さまの乳兄弟。お側去らずの一の郎党ではございませんか! 義朝さまがこちらにおいででない間、どちらで何をしておいでかくらい、知らぬはずがありますまい!」
こちらに参上したばかりの頃に小妙から聞いていた通り。
お怒りになられた時の浅茅さんはなかなかに迫力がある。
さすがは『八岐大蛇』
それにしても、いつも思うのだけれど、八岐大蛇って首が八つあったのなら股は七つのような気がするのだけれど、どうして八股なのかしら……?
どうでもいい思案に気をとられていると、浅茅さんが焦れたようにバンと床を叩いた。
「聞いておいでですか! 佳穂どの!」
「は、はいっ!」
私は肩をすくませ、側にいる千夏や小妙まで身を縮める。
けれど、私もだてに『安達ヶ原の鬼婆』を乳母として育ったわけではない。
怒りで感情的になっている中年女性というのは、嫌というほど見慣れている。
「それはそうではありましょうけれども……」
私は反論を試みた。
「我が殿は家で無駄なお喋りというものをほとんど致しませぬ。常磐さまのことで、私が何を聞いても、知らぬ存ぜぬ、おまえに関係ないと仰るばかりで。物事を聞き出すという点においては、我が殿ほど相応しくない相手は滅多にいないと存じまする」
「頼りにならぬ。こんな時のための夫婦でしょう!?」
「こんな時の為に夫婦になったのではございませぬ」
私は頬を膨らませた。
義朝さまと為義さまのご関係はますます冷えたものになっていかれた。
由良の方さまは、それに御心を痛めておいでだったけれど……。
お気を遣われた結果があのような事になってしまった以上、もうどうすることもお出来にならないようだった。
御父子の間の冷ややかな緊張関係は、この夜より二年後の仁平三年(1153年)
為義さまがご次男の義賢さまに、源家嫡流の証である『友切の太刀』を授ける決断をされ。
その後、久寿二年(1155年)義朝さまのご長男、義平さまにより義賢さまが武蔵の国大蔵にて殺害され、『友切』を奪い返したことにより、その決裂が決定的なものになるまで。
不思議な静けさをもって続くこととなる。
浅茅さまは、御方さまの御身を案じておられた。
表面上は何事もないように気丈に振る舞っておられたし、凛としたお美しさも、鬼武者さまにお見せになる厳しくも慈しみに溢れたお顔もいつも通りだったけれど……。
ふとした折にみせられる憂いに曇ったお顔と。
以前よりもほっそりとされた頬のあたりがその内面のお悩みの深さを物語っていた。
御方さまの御心をお悩ませしているのは、義朝さま父子の不仲の問題だけではなかった。
義朝さまはこのところ、お邸を空けられることが多くなられていた。
夜になってもお戻りにならず、昼日中も、四日も五日もお姿をお見せになられない日が続いた。
浅茅さまにせっつかれて、それとなく正清さまに伺っても
「知らぬ」
「殿は何かとお忙しいのだ」
と素っ気無く返されるだけで、まったく要領をえない。
最初は、為義さまと言い争いの末、激しく殴打されたのを見られた気まずさと、その原因となる宴を催された御方さまに対して、拗ねたようなお気持ちでおられるだけなのかと思っていたけれど。
そのうち、ひとつの噂が耳に入ってきた。
義朝さまに新しい女君がお出来になったというのだ。
義朝さまに他に女君がいらっしゃるというお話自体は、何ら目新しいものではない。
これまでも、どこそこの女官と恋仲になられただの、何某殿の娘御のもとへ通われただのというお噂は枚挙にいとまがないほどだった。
だが、そのどれもがご正室の由良御前さまのご出自と比べたら、取るに足らない身分の女性ばかりがお相手で。
御方さまも、それらのお噂はすべてご存知のうえ、ほとんど気にかけておられないように見えた。
なんといっても、こちらの御方さまはご正室でそのうえ、ご嫡男となる鬼武者さまを儲けられている。
今さら、そのような女君が山となって現れようとも、こちらの御方さまのお立場にまったく揺るぎはないはずで。
数多いられるご愛妾の存在など、歯牙にもかけられず、いつも毅然とした誇り高い態度を崩さずにいられるお方さまを、私たち周りの者たちも心より尊敬し、憧れをもって見上げてきたのだけれど。
此度の女君の噂に限り、お側の女房衆の心を騒がせたのには理由があった。
女君の御名は常盤の君。
今上帝の中宮、呈子さまの御殿にお仕えする雑仕女で、年齢はなんとまだ十四歳といううら若さだという。
それくらいならば、これまでの他の女君と比べて特に騒がれることもなかったと思うのだけれど。
常盤の君は、今から数年前。
中宮呈子さまがご入内になる折に催され、都中の話題をさらった『久安の美女選び』で、都のうちから集められた千人の美女のなかから、最も美しい一人として選び抜かれ、洛中随一の美貌を謳われた評判の美人というのである。
『衣通姫(そとおりひめ)の再来』
とも評される、噂の女人を射止める幸運な殿方は誰であろうというのは、ここ数年来、都びとの興味をそそってきた話題だったのだけれど。
その女性を義朝さまが見事射止め、宮中の常盤の君の曹司にまで度々忍ばれるということは、いまや宮中では誰知らぬこともない公然たる事実とのことだった。
「十四などとまだほんの子どもではないですか。なにが洛中随一の美女じゃ。馬鹿馬鹿しい」
御方さまが、統子内親王さまの御所に上がられてお留守の際。
お居間に集めた私たちを相手に浅茅さんは憤懣やるかたないといった風で、義朝さまへの不満をぶちまけた。
「おおかた、ちょっと人より器量が良いのをいいことに閨で殿方に甘えるしか能のない小娘なのでしょう。
そんな女が、我がお方さまの御心をわずかでも曇らせておるなど…考えただけでも腹立たしい!」
いつも冷静でてきぱきと物事を運ばれる浅茅さんだけれど、ことが大切な養い君の御方さまのこととなると、どうしても頭に血が上った物言いになってしまわれるようだった。
「まあまあ、浅茅さま。落ち着いて下さいませ」
私は宥めるように云った。
「洛中随一の美女といったところで、その集められた千人のうちには由良の御方さまは入っていなかったのでございましょう?」
「当り前です! 例のお祭り騒ぎ自体が、雑仕女を選ぶという、いわば下賤の女子を集めた催しだったのですから」
「だったら、その洛中随一のお美しさという評判も、少なくともうちの御方さまを除いては、という但書がついてのものにございましょう。だって御方さまのようにお美しくて、気高くて、教養深く聡明な女性は帝の姫宮にもなかなかいらっしゃらないと思いますもの」
私が言うと、浅茅さまはようやく頬をゆるめて満足げに頷かれた。
「当り前です。我が姫君ほどご容姿のみならず、内面から輝き出るようなお美しさをお持ちの女君など他にいらっしゃいませんよ」
そのご様子に、まわりの女房たちがあからさまにほっとした顔をする。
浅茅さまのご機嫌の良し悪しは、御殿の雰囲気を大きく左右するのでお仕えしている女房たちにとっては疎かに出来ないものなのだ。
しかし、空気が和らいだのもつかの間。
「ときに佳穂どの」
浅茅さんが、ちらりと鋭い視線を送ってきた。
「その常盤とかいう娘の様子。義朝さまがもうすっかり心奪われてしまって、夜も昼もないご寵愛ぶりだとかいう、胸が悪くなるような都すずめどもの噂話はまことか否か、少しは聞くことが出来ましたか?」
「さ、さあ、それはなんとも……」
私は曖昧に言って首をすくめた。
「なんともではありませぬ!そなたの夫君は義朝さまの乳兄弟。お側去らずの一の郎党ではございませんか! 義朝さまがこちらにおいででない間、どちらで何をしておいでかくらい、知らぬはずがありますまい!」
こちらに参上したばかりの頃に小妙から聞いていた通り。
お怒りになられた時の浅茅さんはなかなかに迫力がある。
さすがは『八岐大蛇』
それにしても、いつも思うのだけれど、八岐大蛇って首が八つあったのなら股は七つのような気がするのだけれど、どうして八股なのかしら……?
どうでもいい思案に気をとられていると、浅茅さんが焦れたようにバンと床を叩いた。
「聞いておいでですか! 佳穂どの!」
「は、はいっ!」
私は肩をすくませ、側にいる千夏や小妙まで身を縮める。
けれど、私もだてに『安達ヶ原の鬼婆』を乳母として育ったわけではない。
怒りで感情的になっている中年女性というのは、嫌というほど見慣れている。
「それはそうではありましょうけれども……」
私は反論を試みた。
「我が殿は家で無駄なお喋りというものをほとんど致しませぬ。常磐さまのことで、私が何を聞いても、知らぬ存ぜぬ、おまえに関係ないと仰るばかりで。物事を聞き出すという点においては、我が殿ほど相応しくない相手は滅多にいないと存じまする」
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