夢の雫~保元・平治異聞~

橘 ゆず

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第三章 確執

正室

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私は、つと立ち上がった。

「佳穂。どうしたのです」

「寝殿の方に参って、今一度、紗枝どのにお話を伺って参ります。今、千夏たちが言ったことが本当かどうか確かめて参ります」

「馬鹿をおっしゃい」
由良の方さまは目を瞠って言われた。

「馬鹿なことではございませぬ。もし、千夏たちの言うとおりだとしたら、私の方こそあの方に文句や恨み言の一つも申し上げても良い立場でございましょう? それなのに、あの方の方から私へ意地悪をなさるなんておかしいではございませぬか」

御方さまは、はあっと溜息をついてご自身の前の座を指し示された。

「良いからここへお座りなさい」

「でも……」
「佳穂」
御方さまのお声には、静かだけれど、抗いがたい威厳がある。

私は仕方なく、また腰を下ろした。

「朋輩の目のあるところで正室と妾が、顔を突き合わせて大喧嘩だなんて……あの生真面目な正清が知ったらどんな思いをすると思うの。夫に恥をかかせるようなことをしてはいけません」

穏やかに、しかし断固とした口調で諭されて、私は返す言葉もなく俯いた。

「はい……。申し訳ございませぬ……」

「驚いたのは分かるわ。悲しい気持ちになるのも、裏切られたような気持ちになるのもようく分かります。
 けれどね、佳穂。 あなたは正清の正室なのですよ。他の数多いる側女たちとは立場が違うのです。
 それを忘れて、慎みのない振る舞いをしてはなりません」

「はい…」

さすがは由良の方さま。
浮気三昧の夫君を持っていらっしゃるだけにお言葉にも、尋常ではない説得力がおありになる。

そう思ってうな垂れる私を見て、

「……さすがに浮気し放題の夫を持つ人は言うことが違う、と思っているのでしょう」
御方さまがちらりとこちらを睨まれる。
 
「まあ、御方さまは人の心をお読みになれるのですか」
私が目を丸くすると、
「失礼な人ね」
怒ったように言われたけれどお目は笑っていらっしゃる。

「あのね。佳穂。正室とお側女の違いというのは何か分かる?」

私は頬に手を当てて考えた。

「結婚した順番、とか…」

私の答えに御方さまは苦笑して小さく首を振られた。

「お側女というのは、殿方を癒し、慰め、喜ばせるために存在するもの。けれど、正室はそれだけでは駄目なのです」

そこで御方さまは言葉を切り、すっと背筋を伸ばされた。

「正室とは、夫となられた殿方をお支えし、そのお力となるもの。そのお志を支え、無事にご宿願を果たされるその日まで、お側にあって共に戦う覚悟がなければなりませぬ。その為には、我が君の為に今、自分に何が出来るのか、何を為すべきか常に考えておらねば。私はそう常々、そう考えています」

私に言うというよりも、ご自身の覚悟を確かめるようなそのお言葉。
私はその威厳に打たれて息を呑んだ。

「殿の為に何が出来るのか……」

私は呟いた。

私よりも十以上もご年長で、いつも落ち着いていて、冷静で、お優しい正清さま。
そんなあの方に私がして差し上げられることなんてあるのかしら。

武家の妻として、一番必要とされる最低限のつとめさえ、いまだ果たせていないこの私に……。

胸の奥がキュウッと締め付けられるように痛んだ。
私はそっと胸を押さえた。

その痛みが顔をもたげようとする時に、いつもそうするように、蓋をするようにその気持ちに気づかないふりをした。

考えても仕方のないことは、考えない方がいい。
黙りこんでしまった私を見て、由良の方さまは優しく微笑まれた。

「そんなに難しい顔をしないの。自分がどうすればいいか分からない時は……そうね。私は、まず自分にとって一番大切なものは何か、絶対に他に譲りたくないものは何かっていうことを改めて思い出すの。一番に大切なもの。それだけは絶対に守りたいもの。それさえ、はっきりしていれば、物事はいつもそんなに難しくないものよ」

私は顔を上げた。

「御方さまにとって一番大切なもの。譲れないものとは何ですか?」
お返事はすぐに返ってきた。

「我が殿、義朝さまと鬼武者。そして今、お腹にいるこの子。それだけよ。それよりも大切にしたいものは他にないわ」

「義朝さまと若君たち……」

「そうよ。殿のなかの源氏の御曹司としての誇り、お志をお守りすること。そして、我が子たちを立派な源氏の武者として育てあげること。その二つを叶える為ならば、私はなんだって出来るし、何にだって耐えられるわ。その為に、時にはお耳触りの良くないことを口にして殿に厭われることになろうとも……」

「御方さま……」
私は言葉に詰まった。

御方さまのお覚悟の高潔さと、深い殿と若君たちへのご愛情。

そんなものの前では、私が今抱えているこんな感情なんて、とても些細でちっぽけなものに思えた。

「分かりました。御方さま。此度のような些細なことで、殿の御心を煩わせるのはやめに致します」

私は居住まいを正して、御方さまにそう申し上げた。

「そう?」

「はい。その……御方さまのようにご立派な深い志や覚悟は私にはとてもありませぬ。けれど、私にとっての、一番は何かと考えてみたら、やっぱり我が殿なのです。もともとあの御方にさえ今日お会いしなければ知らずに済んでいたことですものね。聞かなかったことにして、知らぬふりをしておきます」

「偉いわ」
御方さまは満足げに微笑まれた。

「でも……あまり無理をしてはいけませんよ。夫に恥をかかせないというのと、自分のなかの感情まで押し殺してなかったことにしてしまうというのは、また別の話なのですから」

「大丈夫です! 自慢ではありませんが、こう見えても私は『好いても惚れぬ女』で『情が薄い』と評判なのです。何事もなかったかのように振る舞ってみせますわ」

「そう?だったら良いのだけれど……」
どんと胸を叩いて言う私を見て、御方さまが不安げに眉を曇らせた。

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