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第三章 確執
嫉妬(二)
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私は膝にきちんと手を揃えて居住まいを正した。
「殿」
「なんだ?」
「ここ数日はずっと宿直でいらしたのですよね?昨晩もそうだったのでございましょう」
「ああ、そうだ」
即座に頷かれながら、正清さまは決してこちらをご覧になろうとされない。
「殿」
私は少し膝を進めた。
「私はそのお言葉を信じておりました。それ故、紗枝どのが昨晩、殿とご一緒だったと仰った時も、坊門のお邸で宿直の折に、お目にかかる折でもあられたのかと、そう思っておりました。なれど……」
そこまで言って私は声を詰まらせた。
堪えていた涙がじわっと目に浮んでくる。
「なれど……千夏や小妙はそうではないと申します。宿直というのも紗枝どののお局にお泊りになられたのだろうと…。紗枝どのは殿の秘めた恋人で、それゆえに私にわざわざこんなものを持ってきたのだろうと、そう申します……」
正清さまが小さく舌打ちをされる。
「余計なことを……これだから女房などというのは……」
私はそれに構わず続けた。
「殿」
「何だ」
「千夏たちの言ったことは本当ですか?」
「……」
しばらくの間。
正清さまは腕を組んだまま、じっとあさっての方を睨んでおられたけれど、やがて溜息まじりに言われた。
「確かに昨晩はあれのもとにおった」
思い切り、胸を突き飛ばされたような気がした。
頭が一瞬真っ白になる。
手足がすっと冷たくなり、石のように身じろぎひとつ出来なくなる。
ただ、涙だけがどっと目に溢れてきた。
しゃくりあげる私の声に初めてこちらをご覧になった正清さまがぎょっとしたようなお顔をされる。
「か、佳穂?」
「……嘘でも……ちがうって仰って、下されば、いいのに……っ!」
お顔を見た途端に、堪えていた嗚咽が喉を駆け上がってきて、私は袖で顔を覆って泣き出した。
「そなたが聞いたから答えただけではないか」
「違うと、殿が違うと、そんな事はないと仰せになって下さるのなら、誰がなんと言おうと私はそれを信じようと思っておりましたのに……あんまりでございます……」
「それを先に言わぬか。だったら、今のは嘘だ。昨夜は義朝さまのもとに終夜詰めておった」
「もう遅うございます! 嘘つき!!」
「どうしろというのだ」
そんな事を言われても、自分でもどうして欲しいのかなんて分からない。
私は涙に濡れた目できっと正清さまを見上げた。
「な、なんだ」
「だいたいあの紗枝どのがいけないのです!どうしてわざわざ私のところにあんな事を言いにいらしたのですか!あの方さえそんな事をなさらなければ、今でも何も知らずに済んでいたのに……」
「そんなことを俺に言われても……」
「だってあの方をお相手に選ばれたのは殿ではございませぬか! 殿さえあの方をお選びになっていなければ私がこんな思いをせずに済んだのですわ」
「いや、そういう問題ではないであろう」
「何にも知らずに、今後もよろしくお願い申し上げますなんてご挨拶まで申し上げて……私がまるで馬鹿みたいではございませぬかっ!」
正清さまが、ぶっと噴出された。
「そなた、そんなことまで言ったのか。……いや、そなたらしいと言えばそなたらしいが」
「何がおかしいのでございますかっ!」
「いや。厭味が通じずさぞや苛々したであろうなと思うと、紗枝が何やら気の毒でな」
「………っ!」
正清さまは堪えようとされたけど、あきらかに肩を揺らせて笑っておられる。
私はぐいっと涙を拭った。
槇野の気持ちが今はじめてよく分かった。
人が真剣に怒っている時に、笑って茶々を入れられることほど腹の立つことはない。
「なにが気の毒なものですかっ!!」
私は声を上げた。
「声が高い。静かにせぬか」
「殿が変なことを申されるからいけないのです! 気の毒なのはどう考えたって私の方ではありませぬかっ! 夫の 浮気相手に面と向かって厭味を言われて、それにも気づかずに丁寧に挨拶までかえして。
その上、朋輩たちには鈍いの抜けているだのさんざん言われて……っ」
「確かにな。その朋輩どもの余計な差し出口さえなければそなたは今でも気づいておらなんだのだろうからな」
溜息まじりに言われる正清さまを見て私の怒りは頂点に達しようとしていた。
「余計なことをしたのは千夏たちより紗枝どのでしょう! 正妻のもとへ直接押し掛けて厭味を言う愛人なんて聞いたことがありませんわ。明石の君なんて、光の君さまとの間に姫君まで儲けられながら、あくまで影の存在に徹して紫の上をたてておられましたのに」
力説するのに一生懸命になっていた私はその時、正清さまのお顔に走った微妙な表情に気がつかなった。
「それなればこそ、のちにご対面になった折に、お二人はお互いを心から認めあい、『この方ならば我が君がお心を惹かれるのも無理はない』と納得しあわれたのですわ。どうせ浮気をなさるのなら、そう思えるようなお相手をお選びくだされば良かったのに……!」
我ながら論点が盛大にずれてきていると思ったが、一度開いた口はなかなか止まらない。
「また『源氏物語』か」
正清さまは苦々しげに言われた。
「武家の妻があんなものにかぶれるでない。馬鹿馬鹿しい。なにが紫の上と明石の上だ。そんなに紗枝が気に入らぬなら、誰となら寝ても良いのか紙にでも書き出しておけ。次からはその中から選んでやる」
「何が次からはですか、殿のばかっ!」
「夫に向かって馬鹿だと!?」
私はわあっと泣き伏した。
「知りません!もう殿なんて大嫌い!」
「ああ。嫌いで結構。されど大嫌いな男のことでそんなに泣き騒ぐこともないではないか。おかしなやつだ」
私はぱっと顔を上げた。
「そんなの、嘘で申し上げただけだからに決まっているではありませぬかっ! お慕いしているから怒っているし、お慕いしているから悲しいのです! そんなこともお分りにならないなんて、鈍いのは殿の方です……」
また、床に伏せて泣き始めた私の頭上で、溜め息をつく気配がする。
「佳穂」
答えずに泣き続ける私の頭に正清さまのお手が遠慮がちに乗った。
「佳穂」
あやすように髪が撫でられる。
「顔をあげよ」
私は俯せたまま首を横に振った。
「殿」
「なんだ?」
「ここ数日はずっと宿直でいらしたのですよね?昨晩もそうだったのでございましょう」
「ああ、そうだ」
即座に頷かれながら、正清さまは決してこちらをご覧になろうとされない。
「殿」
私は少し膝を進めた。
「私はそのお言葉を信じておりました。それ故、紗枝どのが昨晩、殿とご一緒だったと仰った時も、坊門のお邸で宿直の折に、お目にかかる折でもあられたのかと、そう思っておりました。なれど……」
そこまで言って私は声を詰まらせた。
堪えていた涙がじわっと目に浮んでくる。
「なれど……千夏や小妙はそうではないと申します。宿直というのも紗枝どののお局にお泊りになられたのだろうと…。紗枝どのは殿の秘めた恋人で、それゆえに私にわざわざこんなものを持ってきたのだろうと、そう申します……」
正清さまが小さく舌打ちをされる。
「余計なことを……これだから女房などというのは……」
私はそれに構わず続けた。
「殿」
「何だ」
「千夏たちの言ったことは本当ですか?」
「……」
しばらくの間。
正清さまは腕を組んだまま、じっとあさっての方を睨んでおられたけれど、やがて溜息まじりに言われた。
「確かに昨晩はあれのもとにおった」
思い切り、胸を突き飛ばされたような気がした。
頭が一瞬真っ白になる。
手足がすっと冷たくなり、石のように身じろぎひとつ出来なくなる。
ただ、涙だけがどっと目に溢れてきた。
しゃくりあげる私の声に初めてこちらをご覧になった正清さまがぎょっとしたようなお顔をされる。
「か、佳穂?」
「……嘘でも……ちがうって仰って、下されば、いいのに……っ!」
お顔を見た途端に、堪えていた嗚咽が喉を駆け上がってきて、私は袖で顔を覆って泣き出した。
「そなたが聞いたから答えただけではないか」
「違うと、殿が違うと、そんな事はないと仰せになって下さるのなら、誰がなんと言おうと私はそれを信じようと思っておりましたのに……あんまりでございます……」
「それを先に言わぬか。だったら、今のは嘘だ。昨夜は義朝さまのもとに終夜詰めておった」
「もう遅うございます! 嘘つき!!」
「どうしろというのだ」
そんな事を言われても、自分でもどうして欲しいのかなんて分からない。
私は涙に濡れた目できっと正清さまを見上げた。
「な、なんだ」
「だいたいあの紗枝どのがいけないのです!どうしてわざわざ私のところにあんな事を言いにいらしたのですか!あの方さえそんな事をなさらなければ、今でも何も知らずに済んでいたのに……」
「そんなことを俺に言われても……」
「だってあの方をお相手に選ばれたのは殿ではございませぬか! 殿さえあの方をお選びになっていなければ私がこんな思いをせずに済んだのですわ」
「いや、そういう問題ではないであろう」
「何にも知らずに、今後もよろしくお願い申し上げますなんてご挨拶まで申し上げて……私がまるで馬鹿みたいではございませぬかっ!」
正清さまが、ぶっと噴出された。
「そなた、そんなことまで言ったのか。……いや、そなたらしいと言えばそなたらしいが」
「何がおかしいのでございますかっ!」
「いや。厭味が通じずさぞや苛々したであろうなと思うと、紗枝が何やら気の毒でな」
「………っ!」
正清さまは堪えようとされたけど、あきらかに肩を揺らせて笑っておられる。
私はぐいっと涙を拭った。
槇野の気持ちが今はじめてよく分かった。
人が真剣に怒っている時に、笑って茶々を入れられることほど腹の立つことはない。
「なにが気の毒なものですかっ!!」
私は声を上げた。
「声が高い。静かにせぬか」
「殿が変なことを申されるからいけないのです! 気の毒なのはどう考えたって私の方ではありませぬかっ! 夫の 浮気相手に面と向かって厭味を言われて、それにも気づかずに丁寧に挨拶までかえして。
その上、朋輩たちには鈍いの抜けているだのさんざん言われて……っ」
「確かにな。その朋輩どもの余計な差し出口さえなければそなたは今でも気づいておらなんだのだろうからな」
溜息まじりに言われる正清さまを見て私の怒りは頂点に達しようとしていた。
「余計なことをしたのは千夏たちより紗枝どのでしょう! 正妻のもとへ直接押し掛けて厭味を言う愛人なんて聞いたことがありませんわ。明石の君なんて、光の君さまとの間に姫君まで儲けられながら、あくまで影の存在に徹して紫の上をたてておられましたのに」
力説するのに一生懸命になっていた私はその時、正清さまのお顔に走った微妙な表情に気がつかなった。
「それなればこそ、のちにご対面になった折に、お二人はお互いを心から認めあい、『この方ならば我が君がお心を惹かれるのも無理はない』と納得しあわれたのですわ。どうせ浮気をなさるのなら、そう思えるようなお相手をお選びくだされば良かったのに……!」
我ながら論点が盛大にずれてきていると思ったが、一度開いた口はなかなか止まらない。
「また『源氏物語』か」
正清さまは苦々しげに言われた。
「武家の妻があんなものにかぶれるでない。馬鹿馬鹿しい。なにが紫の上と明石の上だ。そんなに紗枝が気に入らぬなら、誰となら寝ても良いのか紙にでも書き出しておけ。次からはその中から選んでやる」
「何が次からはですか、殿のばかっ!」
「夫に向かって馬鹿だと!?」
私はわあっと泣き伏した。
「知りません!もう殿なんて大嫌い!」
「ああ。嫌いで結構。されど大嫌いな男のことでそんなに泣き騒ぐこともないではないか。おかしなやつだ」
私はぱっと顔を上げた。
「そんなの、嘘で申し上げただけだからに決まっているではありませぬかっ! お慕いしているから怒っているし、お慕いしているから悲しいのです! そんなこともお分りにならないなんて、鈍いのは殿の方です……」
また、床に伏せて泣き始めた私の頭上で、溜め息をつく気配がする。
「佳穂」
答えずに泣き続ける私の頭に正清さまのお手が遠慮がちに乗った。
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