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第三章 確執
翌朝
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「それで、朝も早くからこちらへ逃げてきたというわけね」
溜息まじりに由良の方さまが言われた。
脇息にもたれかかり、小妙に髪を梳かせながらゆったりとくつろいでおられるお姿は今朝もとてもお美しい。
それに引き換え、私はと言えば…。
髪はかろうじて梳いてはきたものの、衣装はといえば、昨日とまったく同じ杜若の小袿が衣桁にかけてあったのをそのまま羽織ってきただけ。
一晩中、眠れなかったせいで、肌はくすんで目は赤くなっている。
そんな酷い状態なのにお化粧も適当で。
邸を出る時には一刻も早く、お側を離れることしか考えていなくて気にする余裕もなかったけれど。
こうして朝から清々しいお美しさを放っておられる御方さまの前に出ると、途端にそれが恥ずかしく、自分がみすぼらしい存在に思えてくる。
私は俯きがちにお答えした。
「別に逃げてきたわけでは……。朝のお支度と朝餉のお給仕はきちんと務めて参りましたし……」
「そしてそれが終るが早いか、こちらで言いつかった用があるからといって、家を出てきたというわけね」
「……はい」
「正清に恨まれるのも無理はないわね。朝は早くから夕方は遅くまで、どこまで人の妻をこき使うつもりなのかって」
「……申し訳ございません…」
私はうな垂れた。
正清さまよりも早く家を出る口実欲しさに、畏れ多いことだけれどつい、御方さまのお名前を使わせていただいたのだ。
「仕方のない子ね」
お言葉とは裏腹に優しいお声にまた涙がこみ上げてくる。
「ああ、ほら。泣かないの。叱っているわけではないのだから」
参上する予定の日でもないのに突然やってきて、御前に出るなり黙ってぼろぼろ涙をこぼし始めた私を見て、御方さまは
「だから無理をしてはいけませんよ、と言ったのに」
と、呆れたように仰りながらもとてもお優しかった。
そのお声を聞くなり、堪えていたものが堰を切ったようにどっと溢れ出して、私は子供のように泣き出した。
「好いても惚れないだから大丈夫、だなんて大見得きってたくせにしょうがないわね」
「無理もないわよ。大丈夫? 佳穂?」
千夏と小妙が寄ってきて肩を抱いたり背中を撫でたりしてくれる。
私は千夏にしがみついてわんわん泣きながら一部始終を語った。
最後の部分だけは意識的に省略した。
少しおなかのふっくらしてみえた御方さまに変なお気遣いをさせたくはなかった。
最初は皆、うんうんと頷きながら自分も涙を浮かべんばかりの表情で私の話を聞いてくれていたのだけれど。
話が進むに連れて次第に微妙な表情になっていき。
浮気相手の名前を紙に書き出しておけと言われたという下りでまずは千夏が。
他所の家の御膳のたとえの下りで小妙が笑い出し。
植木屋さんのたとえの下りではとうとう、浅茅さまと御方さままでクスクスとと肩を揺らせ始めて……。
私が話し終える頃には、御前の間は笑いの渦に包まれていた。
「何がおかしいのでございますかっ!!」
私は涙も引っ込んで叫んだ。
「だって……だって……」
一番、無遠慮に笑い転げている千夏が、涙さえ浮かべながら私の肩を叩いた。
「ああ、もう佳穂って本当に面白いわ。だから好きよ」
「だから何が面白いのよっ!」
私が怒れば怒るほど、可笑しさが募るらしく千夏も小妙も転げまわらんばかりに笑っている。
「ほらもう、皆そんなに笑わないの。佳穂が可哀想ではありませぬか。本気で悲しんでここへやって来たというのに……」
そういう御方さまも、完全に目が笑っていらっしゃる。
私は頬を膨らませた。
「もう結構です。どうせ私が馬鹿なのです。あれだけ大見得を切っておいて結局は知らぬふりをしておくどころか、あんな大喧嘩にまでなって……。自分で一番馬鹿だって分かっているのです。皆さま、好きなだけお笑いになればよろしいわ」
「拗ねないの。そういう素直で飾り気のないところがあなたの良いところだから。皆、佳穂のそういうところが好きだから笑っているのよ」
御方さまがクスクスと笑いながらとりなして下さる。
確かに御前の間のあちらこちらであがっている笑い声のどれも、純粋におかしがっているようで馬鹿にしたり嘲笑したりしているような雰囲気はないのだけれど。
夫に浮気されて悲しんでいるという話をしているのを純粋に可笑しがられるというのも、それはそれでちょっと情けないものがある。
「それでもここに来るまでそれを乳母にも誰にも言わずに心に納めてきたのでしょう。えらいわ。女主人の気持ちというのは使用人たちにすぐに伝染しますからね。正清が四条の家で居心地の悪い思いをしないようにと気遣ってあげたのね」
御方さまが子供をあやすような口調で言って下さる。
私はふるふると首を振った。
「いいえ。うちの乳母はかねてより、殿に他にお通い所があるのでは、女君がいらっしゃるのでは、と事あるごとに口にしておりまして、私が呑気過ぎる、ぼんやりし過ぎていると小言ばかり言っていたのです。
その通りになったなどと知ったら、鬼の首を獲ったように騒ぐに決まっております。それが癪に障るから黙っておっただけでございます」
周りからまた笑い声があがる。
「そこまで正直に言わなくてもいいものを」
御方さまも呆れたように袖でお口元を覆って笑われる。
「本当にねえ」
浅茅さまが笑いながらも溜息をつかれる。
「佳穂どののその考えなしなまでの素直さのほんの少しだけでも姫さまにおありになればねえ……」
途端に御方さまがちらりとそちらをご覧になられる。
「浅茅。余計なことは云わないのよ」
けれど浅茅さまは一向に応えた風もなく
「『お慕いしているから怒っているし、お慕いしているからこそ悲しいのです』 ですか。鎌田どのがこの人に弱いのも分かる気が致しますわね。……姫様も一度くらい殿に申し上げてみたらいかがですか?」
「浅茅」
浅茅さまを睨まれる御方さまのお顔はいつになく、少女めいていてお可愛らしかった。
乳母というものは、由良の方さまほどのお方にとってもなかなかに扱いにくく手ごわい存在であるらしい。
溜息まじりに由良の方さまが言われた。
脇息にもたれかかり、小妙に髪を梳かせながらゆったりとくつろいでおられるお姿は今朝もとてもお美しい。
それに引き換え、私はと言えば…。
髪はかろうじて梳いてはきたものの、衣装はといえば、昨日とまったく同じ杜若の小袿が衣桁にかけてあったのをそのまま羽織ってきただけ。
一晩中、眠れなかったせいで、肌はくすんで目は赤くなっている。
そんな酷い状態なのにお化粧も適当で。
邸を出る時には一刻も早く、お側を離れることしか考えていなくて気にする余裕もなかったけれど。
こうして朝から清々しいお美しさを放っておられる御方さまの前に出ると、途端にそれが恥ずかしく、自分がみすぼらしい存在に思えてくる。
私は俯きがちにお答えした。
「別に逃げてきたわけでは……。朝のお支度と朝餉のお給仕はきちんと務めて参りましたし……」
「そしてそれが終るが早いか、こちらで言いつかった用があるからといって、家を出てきたというわけね」
「……はい」
「正清に恨まれるのも無理はないわね。朝は早くから夕方は遅くまで、どこまで人の妻をこき使うつもりなのかって」
「……申し訳ございません…」
私はうな垂れた。
正清さまよりも早く家を出る口実欲しさに、畏れ多いことだけれどつい、御方さまのお名前を使わせていただいたのだ。
「仕方のない子ね」
お言葉とは裏腹に優しいお声にまた涙がこみ上げてくる。
「ああ、ほら。泣かないの。叱っているわけではないのだから」
参上する予定の日でもないのに突然やってきて、御前に出るなり黙ってぼろぼろ涙をこぼし始めた私を見て、御方さまは
「だから無理をしてはいけませんよ、と言ったのに」
と、呆れたように仰りながらもとてもお優しかった。
そのお声を聞くなり、堪えていたものが堰を切ったようにどっと溢れ出して、私は子供のように泣き出した。
「好いても惚れないだから大丈夫、だなんて大見得きってたくせにしょうがないわね」
「無理もないわよ。大丈夫? 佳穂?」
千夏と小妙が寄ってきて肩を抱いたり背中を撫でたりしてくれる。
私は千夏にしがみついてわんわん泣きながら一部始終を語った。
最後の部分だけは意識的に省略した。
少しおなかのふっくらしてみえた御方さまに変なお気遣いをさせたくはなかった。
最初は皆、うんうんと頷きながら自分も涙を浮かべんばかりの表情で私の話を聞いてくれていたのだけれど。
話が進むに連れて次第に微妙な表情になっていき。
浮気相手の名前を紙に書き出しておけと言われたという下りでまずは千夏が。
他所の家の御膳のたとえの下りで小妙が笑い出し。
植木屋さんのたとえの下りではとうとう、浅茅さまと御方さままでクスクスとと肩を揺らせ始めて……。
私が話し終える頃には、御前の間は笑いの渦に包まれていた。
「何がおかしいのでございますかっ!!」
私は涙も引っ込んで叫んだ。
「だって……だって……」
一番、無遠慮に笑い転げている千夏が、涙さえ浮かべながら私の肩を叩いた。
「ああ、もう佳穂って本当に面白いわ。だから好きよ」
「だから何が面白いのよっ!」
私が怒れば怒るほど、可笑しさが募るらしく千夏も小妙も転げまわらんばかりに笑っている。
「ほらもう、皆そんなに笑わないの。佳穂が可哀想ではありませぬか。本気で悲しんでここへやって来たというのに……」
そういう御方さまも、完全に目が笑っていらっしゃる。
私は頬を膨らませた。
「もう結構です。どうせ私が馬鹿なのです。あれだけ大見得を切っておいて結局は知らぬふりをしておくどころか、あんな大喧嘩にまでなって……。自分で一番馬鹿だって分かっているのです。皆さま、好きなだけお笑いになればよろしいわ」
「拗ねないの。そういう素直で飾り気のないところがあなたの良いところだから。皆、佳穂のそういうところが好きだから笑っているのよ」
御方さまがクスクスと笑いながらとりなして下さる。
確かに御前の間のあちらこちらであがっている笑い声のどれも、純粋におかしがっているようで馬鹿にしたり嘲笑したりしているような雰囲気はないのだけれど。
夫に浮気されて悲しんでいるという話をしているのを純粋に可笑しがられるというのも、それはそれでちょっと情けないものがある。
「それでもここに来るまでそれを乳母にも誰にも言わずに心に納めてきたのでしょう。えらいわ。女主人の気持ちというのは使用人たちにすぐに伝染しますからね。正清が四条の家で居心地の悪い思いをしないようにと気遣ってあげたのね」
御方さまが子供をあやすような口調で言って下さる。
私はふるふると首を振った。
「いいえ。うちの乳母はかねてより、殿に他にお通い所があるのでは、女君がいらっしゃるのでは、と事あるごとに口にしておりまして、私が呑気過ぎる、ぼんやりし過ぎていると小言ばかり言っていたのです。
その通りになったなどと知ったら、鬼の首を獲ったように騒ぐに決まっております。それが癪に障るから黙っておっただけでございます」
周りからまた笑い声があがる。
「そこまで正直に言わなくてもいいものを」
御方さまも呆れたように袖でお口元を覆って笑われる。
「本当にねえ」
浅茅さまが笑いながらも溜息をつかれる。
「佳穂どののその考えなしなまでの素直さのほんの少しだけでも姫さまにおありになればねえ……」
途端に御方さまがちらりとそちらをご覧になられる。
「浅茅。余計なことは云わないのよ」
けれど浅茅さまは一向に応えた風もなく
「『お慕いしているから怒っているし、お慕いしているからこそ悲しいのです』 ですか。鎌田どのがこの人に弱いのも分かる気が致しますわね。……姫様も一度くらい殿に申し上げてみたらいかがですか?」
「浅茅」
浅茅さまを睨まれる御方さまのお顔はいつになく、少女めいていてお可愛らしかった。
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