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第三章 確執
夕暮れ(二)
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「さっきからみっともないところばかりを見られているな。家に戻ったら夫に言ってやるがよい。六条の邸の倅たちは揃いも揃って間抜けばかりだと。何人集めたところで、義朝の兄上の足元にも及ばない、と。 もっとも、わざわざ言わずとも正清は、そんなことはとっくに承知しておるだろうがな」
「いえ……そんな…」
どうお返事して良いかわからず。
かと言って逃げだすわけにもゆかず。
途方に暮れている私を見て、頼賢さまがふうっと深く吐息をつかれた。
「困らせるだけの事を言うてすまぬ。ただ少し……自分が情けなくてな。俺のようなものなど、父にとっては居てもいなくても何の変わりもない。まったくもって不要で、取るに足らぬものだと思い知らされるのは、何度目でもやはり辛い」
「頼賢さま……」
「父を思い、敬う気持ちは兄弟のうちの誰にも負けておらぬつもりだ。あの優しい父を……この手で守りたいと。父の志が中途で砕けたり、穢されたりすることのないよう支えてゆきたいと……そう思う気持ちは誰よりも強くもっておるのに。それだけでは何にもならぬのだな。父は……俺などに守られることを。俺がそばにおることなど、少しも望んではおらぬのに……」
言いながら、頼賢さまはぐっと唇を噛み締めて宙を見据えられた。
ふいっとお顔を反らされた拍子にこぼれた雫が一筋頬を伝って落ちた。
それを見ないように下に落とした視線の先に、強く握り締められた頼賢さまの拳が目に入る。
ぎゅっと力を込めたせいで、傷口からいったんは止まった血が滲み出て、巻きつけた白い布を赤く染め始めていた。
私はそっと歩み寄ると、会釈をしてその御手をとった。
黙ったまま血の滲んだ布を解いてゆく。
頼賢さまは子供のように素直にされるがままになっておられた。
傷口から滲んだ血をそっと拭って、新たに布を巻きなおしながら。
私は心のなかで懸命に考えをめぐらせていた。
私は正清さまの妻である。
頼賢さまから見たら、敵対する異母兄の一の郎党と関わりのある者など、今の時期には、顔を見るのも厭わしい存在だろう。
それなのに、頼賢さまは私のことを「優しい女子だ」と言って下さった。
親しみ深くお声をかけて下さった。
その頼賢さまが、ひどく傷つかれ、ご自身のことを貶めたように仰って苦しげにしておられるのを目の当たりにしていて。
「あの……頼賢さま」
「なんだ?」
頼賢さまのお声は優しかった。
私を思いやってのこと、というよりは脱力して放心しておられるような声音だった。
「……大殿は、頼賢さまを必要としていらっしゃいます。頼りがいのあるご子息だと、自慢に思うていらっしゃいます」
「慰めてくれておるのか?」
自嘲気味な力ない笑顔は、父君の為義さまのお顔を思い出させた。私は小さく首を振った。
「いえ。まことにそう思うて申し上げております。為義さまは頼賢さまを信頼なさっておいでです。だからこそ、あのように厳しい物言いをなされるのです。もうどうでも良い、好きにせよ、と思うておられるのなら、あんな風にお手をあげられたりなど、決してなさらないはずです」
頼賢さまがお顔をあげられた。
「……そうだろうか…?」
笑いに紛らせてしまおうとされながら、縋るような、切なげな光がお目の奥にあった。
私はこくりと頷いた。
「そうでございますとも」
「いや……そなたは、そう言うてくれるが。俺とても馬鹿ではない。父が心底、頼りにし、一目置いておるのが誰かということくらい見ておれば分かる」
「そうだと致しましても」
畏れ多いことながら、私は主家の御曹司にお言葉を返した。
「大殿がご信頼なされ、お心を寄せておられるお方が他にいらしたとしましても。それで頼賢さまへのお気持ちがまったく無になるというわけではございません。それに……」
私は言葉を切って、じっと頼賢さまのお目を見た。
「もし、今、大殿に頼賢さまのお気持ちのすべてが伝わっていなくとも…。いつかきっと、伝わる日が参ります。
ですから、そのようにご自分の価値をご自身で貶めるようなことを仰るのはもうおよしになって下さいませ。人にとって、一番つらくて、苦しいことは、自分で自分のことを嫌いになってしまうことです。他のどなたが何を仰っても、それでご自身の価値を自ら貶めるようなことをなさらないで下さい」
生意気に響いたのではないか。お心を損ねられたのではないか、と内心びくびくしながら、それでも最後まで言葉を続けたのは。
「父に必要とされておらぬ」と。
「自分など何の価値もない」と仰せになられる頼賢さまのお言葉に、自分の今の立場が重なって聞こえたからだった。
正室でありながら、世継の男子どころか子の一人も挙げられていない自分。
由良の方さまのような確固とした後ろ盾や、信念をもって夫君のお志を支えてゆけるわけでもなく。
だからと言って、正清さまのお心に叶うように、いつでも穏やかに慎ましやかに。
嫉妬心などかけらも匂わせず、鷹揚に構えて、夫君をくつろがせて差し上げられるのかといえば、そうでもない。
そんな私は、果たして正清さまにとって必要なのか。
私があのお方のお側にいる意味はあるのか。
ここしばらく、ずっと胸の奥底に沈んでいて、時折ふっと浮かび上がっては私を苦しめていたその悩みを。
今、頼賢さまのお口を通じて、初めてはっきりとした形で目の前に差し出されたような気がしていた。
悲しいとき。苦しいとき。
殿の前で笑顔をつくるのがつらくなってしまうような時。
『人が何と言おうと、それで自分の値打ちを貶めるようなことがあってはいけませんよ』
『あなたのその明るい気立てが、きっと夫君とそのお家に幸いを沢山運びます。そのつもりで、いつも笑顔を絶やさぬように』
野間の里を出るときに、母さまが贈ってくださった言葉。
私を今日まで支えてきてくれたその言葉たちが、少しでも頼賢さまにとっても救いになってくれればいい。
「佳穂……」
こちらをご覧になっている頼賢さまのお目が揺れた。
私は小さく頷いた。
「頼賢さまのその、父君想いのお優しいお心がきっと大殿や源氏一門のお力になる時が参ります。それに……」
一呼吸おいて、頭のなかで言葉を選びながら続ける。
「父君を思い、一門を思う頼賢さまのことを見ている人は……そんな頼賢さまのことを慕わしく頼もしい方だとご尊敬申し上げている人はきっといます。一門になくてはならぬ方だと思うておられる方も。頼賢さまがいまだ気がついていらっしゃらないだけ」
「そなた……」
「少なくとも、私は頼賢さまのお志が果たされることを…真心が父君さまに通じられる日が来ることを心からお祈り致しております。どうか、ご自分をもっと信じて差し上げて下さい」
ほとんどが、母さまの受け売りで。
それをつぎはぎして、一部を変えただけの台詞とはいえ、我ながらちょっといい事を言った……と、自己満足を感じながら、私はお手に巻いた布の両端をくるりと結わえて、結び目をつくった。
「はい。出来ました」
次の瞬間。
「佳穂」
名前を呼ばれ。
「はい……」
返事をしかけた途端、ぐいっと肩を引き寄せられ。
頼賢さまに抱きしめられていた。
風が、茜色に染まった木々の梢をざあっと揺らして吹きすぎた。
「いえ……そんな…」
どうお返事して良いかわからず。
かと言って逃げだすわけにもゆかず。
途方に暮れている私を見て、頼賢さまがふうっと深く吐息をつかれた。
「困らせるだけの事を言うてすまぬ。ただ少し……自分が情けなくてな。俺のようなものなど、父にとっては居てもいなくても何の変わりもない。まったくもって不要で、取るに足らぬものだと思い知らされるのは、何度目でもやはり辛い」
「頼賢さま……」
「父を思い、敬う気持ちは兄弟のうちの誰にも負けておらぬつもりだ。あの優しい父を……この手で守りたいと。父の志が中途で砕けたり、穢されたりすることのないよう支えてゆきたいと……そう思う気持ちは誰よりも強くもっておるのに。それだけでは何にもならぬのだな。父は……俺などに守られることを。俺がそばにおることなど、少しも望んではおらぬのに……」
言いながら、頼賢さまはぐっと唇を噛み締めて宙を見据えられた。
ふいっとお顔を反らされた拍子にこぼれた雫が一筋頬を伝って落ちた。
それを見ないように下に落とした視線の先に、強く握り締められた頼賢さまの拳が目に入る。
ぎゅっと力を込めたせいで、傷口からいったんは止まった血が滲み出て、巻きつけた白い布を赤く染め始めていた。
私はそっと歩み寄ると、会釈をしてその御手をとった。
黙ったまま血の滲んだ布を解いてゆく。
頼賢さまは子供のように素直にされるがままになっておられた。
傷口から滲んだ血をそっと拭って、新たに布を巻きなおしながら。
私は心のなかで懸命に考えをめぐらせていた。
私は正清さまの妻である。
頼賢さまから見たら、敵対する異母兄の一の郎党と関わりのある者など、今の時期には、顔を見るのも厭わしい存在だろう。
それなのに、頼賢さまは私のことを「優しい女子だ」と言って下さった。
親しみ深くお声をかけて下さった。
その頼賢さまが、ひどく傷つかれ、ご自身のことを貶めたように仰って苦しげにしておられるのを目の当たりにしていて。
「あの……頼賢さま」
「なんだ?」
頼賢さまのお声は優しかった。
私を思いやってのこと、というよりは脱力して放心しておられるような声音だった。
「……大殿は、頼賢さまを必要としていらっしゃいます。頼りがいのあるご子息だと、自慢に思うていらっしゃいます」
「慰めてくれておるのか?」
自嘲気味な力ない笑顔は、父君の為義さまのお顔を思い出させた。私は小さく首を振った。
「いえ。まことにそう思うて申し上げております。為義さまは頼賢さまを信頼なさっておいでです。だからこそ、あのように厳しい物言いをなされるのです。もうどうでも良い、好きにせよ、と思うておられるのなら、あんな風にお手をあげられたりなど、決してなさらないはずです」
頼賢さまがお顔をあげられた。
「……そうだろうか…?」
笑いに紛らせてしまおうとされながら、縋るような、切なげな光がお目の奥にあった。
私はこくりと頷いた。
「そうでございますとも」
「いや……そなたは、そう言うてくれるが。俺とても馬鹿ではない。父が心底、頼りにし、一目置いておるのが誰かということくらい見ておれば分かる」
「そうだと致しましても」
畏れ多いことながら、私は主家の御曹司にお言葉を返した。
「大殿がご信頼なされ、お心を寄せておられるお方が他にいらしたとしましても。それで頼賢さまへのお気持ちがまったく無になるというわけではございません。それに……」
私は言葉を切って、じっと頼賢さまのお目を見た。
「もし、今、大殿に頼賢さまのお気持ちのすべてが伝わっていなくとも…。いつかきっと、伝わる日が参ります。
ですから、そのようにご自分の価値をご自身で貶めるようなことを仰るのはもうおよしになって下さいませ。人にとって、一番つらくて、苦しいことは、自分で自分のことを嫌いになってしまうことです。他のどなたが何を仰っても、それでご自身の価値を自ら貶めるようなことをなさらないで下さい」
生意気に響いたのではないか。お心を損ねられたのではないか、と内心びくびくしながら、それでも最後まで言葉を続けたのは。
「父に必要とされておらぬ」と。
「自分など何の価値もない」と仰せになられる頼賢さまのお言葉に、自分の今の立場が重なって聞こえたからだった。
正室でありながら、世継の男子どころか子の一人も挙げられていない自分。
由良の方さまのような確固とした後ろ盾や、信念をもって夫君のお志を支えてゆけるわけでもなく。
だからと言って、正清さまのお心に叶うように、いつでも穏やかに慎ましやかに。
嫉妬心などかけらも匂わせず、鷹揚に構えて、夫君をくつろがせて差し上げられるのかといえば、そうでもない。
そんな私は、果たして正清さまにとって必要なのか。
私があのお方のお側にいる意味はあるのか。
ここしばらく、ずっと胸の奥底に沈んでいて、時折ふっと浮かび上がっては私を苦しめていたその悩みを。
今、頼賢さまのお口を通じて、初めてはっきりとした形で目の前に差し出されたような気がしていた。
悲しいとき。苦しいとき。
殿の前で笑顔をつくるのがつらくなってしまうような時。
『人が何と言おうと、それで自分の値打ちを貶めるようなことがあってはいけませんよ』
『あなたのその明るい気立てが、きっと夫君とそのお家に幸いを沢山運びます。そのつもりで、いつも笑顔を絶やさぬように』
野間の里を出るときに、母さまが贈ってくださった言葉。
私を今日まで支えてきてくれたその言葉たちが、少しでも頼賢さまにとっても救いになってくれればいい。
「佳穂……」
こちらをご覧になっている頼賢さまのお目が揺れた。
私は小さく頷いた。
「頼賢さまのその、父君想いのお優しいお心がきっと大殿や源氏一門のお力になる時が参ります。それに……」
一呼吸おいて、頭のなかで言葉を選びながら続ける。
「父君を思い、一門を思う頼賢さまのことを見ている人は……そんな頼賢さまのことを慕わしく頼もしい方だとご尊敬申し上げている人はきっといます。一門になくてはならぬ方だと思うておられる方も。頼賢さまがいまだ気がついていらっしゃらないだけ」
「そなた……」
「少なくとも、私は頼賢さまのお志が果たされることを…真心が父君さまに通じられる日が来ることを心からお祈り致しております。どうか、ご自分をもっと信じて差し上げて下さい」
ほとんどが、母さまの受け売りで。
それをつぎはぎして、一部を変えただけの台詞とはいえ、我ながらちょっといい事を言った……と、自己満足を感じながら、私はお手に巻いた布の両端をくるりと結わえて、結び目をつくった。
「はい。出来ました」
次の瞬間。
「佳穂」
名前を呼ばれ。
「はい……」
返事をしかけた途端、ぐいっと肩を引き寄せられ。
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風が、茜色に染まった木々の梢をざあっと揺らして吹きすぎた。
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