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第三章 確執
子のない正室(一)
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「これは若殿」
六条の鎌田屋敷の門をくぐると、ちょうど父の腹心である橋田三郎と出くわした。
「ひさしゅうございますな。ご息災なようで何より」
橋田は日にやけた頬を綻ばせて笑った。
「今日はどうなされました?殿ならば奥の母屋においでになりますが。お取次ぎして参りましょう」
「いや構うな。自分で行く」
正清は短くいって邸内にあがった。
(なにがどうなされました、だ)
自分が何をしにここに来たかなど百も承知であろうに白々とした顔をしている橋田に腹をたてながら、ずんずんと内に進んでいく。
こちらへ来れば、ひょっとしたら佳穂が
(まあ、殿。どうされましたの)
などと言いながら出てくるかもしれない。
もし、そうならもう有無をいわせず連れて帰ってしまおうと思っていたのだが。
邸内はやけに人少なだった。
佳穂どころか、出迎えにくる侍女の姿のひとりもない。
父の居室になっている母屋へ行き
「失礼します」
と、一声あけて妻戸を開けると。
やはり人気のない室内で、父の通清がのんびりと横になっていた。
肘枕をついて、部屋の前庭の前栽などを眺めている。
物心ついた頃から、大殿の側に常に控え、お側去らずで忙しく忠勤に励んでいるのが当り前だった父のそんな姿は、正清の目には見慣れないものだった。
「おお。なんだ。そなたがこちらへ顔を見せるなど珍しいな。元気にしておったか」
正清が入ってきたのを見ても、起き上がる風でもなく通清はのんびりと言った。
正清はそんな父の前に居住まいを正して座った。
「珍しいといえば父上こそ。今日はどうなされたのです。そのように昼間から横になられておるなど常にないこと。お体の様子でも優れませぬか」
「いや、体の方は何ともない。ただ少し休んでおっただけだ」
と、朗らかに言った。
「お体の方が悪くないのなら今日はどうなされたのです。堀河のお邸へは参上しなくとも良いのですか」
つい尖った声で訊ねると、通清はにっと笑った。
「実は今日は北の方さま主催の歌会が催されておっての。殿や義賢さまは、これも昨今では武士の嗜みの一つだ、などと申されて近頃、とみにそんなものを奨励しておられるが……。なんの。わしなどはどこまで言っても無骨な坂東武者に過ぎぬ。和歌だの管弦の宴などというのはむずがゆくて、どうにも性に合わぬでな。失礼させていただいたのじゃ」
父の気持ちは正清にもよく分かった。
確かに、あるじの義朝が藤原家の姫君を正室に娶り、北面の武士として院の御所に出入りするようになってからは、武芸だけでなく、詩歌管弦の教養をも身につけておるのが武士としての嗜み、といった風潮はあちらの邸でもあった。
義朝はともかく、その嫡男の鬼武者などは、生母の由良御前の手引きのもと、漢詩や和歌、宮廷での有職故実、笛や舞など、一通りの教育を受けさせられている。
義朝も、そんな長男を他の妾室腹の子息たちとは明らかに区別して、自慢の嫡男として誇らしく思っているようだ。
そういう風潮は風潮として、自分にはどうにも性に合わないと思っていたのも事実で。
もし、十人の敵を相手に組討をせよと言われても少しも怯むものではないが、歌の一首も詠めなどといわれたらとても叶わない、と常々思っていたので、父が歌会への参加を渋る気持ちはよく分かる。
…が、それはともかく。
先ほどから自分が何故、ひさしぶりにここへ足を運んだのか。
とうに分かっているくせに、そ知らぬふりをして優雅に寝転んだまま話を続けている父に、だんだん腹がたってくる。
この期に及んでも、正清は自分の口から「佳穂はどこにいるのです?」と訊ねるのが気が進まなかった。
大の男ともあろう者が、妻が数日帰ってこないくらいで、わざわざ迎えに出向いてきたと思われるのが嫌だったのだ。
勝手に連れていったのは父の方なのだから、そちらの方から
「長いこと佳穂を借りていて悪かったな。今、呼んで来させよう」
とでも言うのが筋というものだろうに、通清はそんなことなど思いもよらないといったようにくつろいだ様子を見せている。
(だいたい佳穂も佳穂だ。そう広くもない邸内のこと。俺が来ていることくらい気配で察して、自分から出てきてもよさそうなものを。相変わらずぼうっとしておるというか、気が利かぬというか……)
しかし、いつまでも苛々していても仕方がない。
今日だとて、別に暇だったわけではなく、あるじの義朝には、
「父の体調がこのところ思わしくないようで見舞いにいって参ります」
と言って半日だけの暇を貰ってきているのだ。
そうぐずぐずしてばかりはいられない。
正清は仕方なく口を開いた。
「あれは……」
「ん?」
「あれは、どこにいます。姿が見えぬようですが」
「菊里か?そうだな。あれも久しぶりにそなたに会いたいであろう。呼んで来させよう」
分かっていながらとぼけているとしか思えないその口調に苛立ちが募る。
「いえ。菊里ではなく、うちの妻です。こちらにお邪魔しておるのでしょう」
「妻?佳穂のことか?」
「他におりますまい!」」
「そうだったな」
通清は苦笑して、ゆっくりと肘枕を解き、身を起した。
「それが問題だ」
そのまま、ゆるりと胡坐をかいて座る。
その顔にはもう笑みが消えていた。
正清は眉を寄せた。
「問題?」
「ああ」
「なにが問題だというのです」
それには応えず、通清はすっと居住まいを正した。
「正清」
「はい」
正清も背筋を伸ばして、父に向き直った。
「のう。正清」
「はい」
「そなたはあれで満足しておるのか?」
「は?」
「あれは…もう良いのではないか」
「………」
「義朝御曹司の乳母子であり一の郎党として名高いそなたのことだ。他にいくらでも相応しい女子がおろう。 現に、今でも我が家との縁組を望む声は家中に少なくない」
「……何を、仰っているのか、意味がよく分かりませんが……」
通清は静かに笑った。
「言うたままの意味よ。あんないつまでたっても子の一人も生まぬ。
そのくせ嫉妬深くて、武家の妻としての覚悟の足りぬ女子など、我が鎌田家の嫁としては相応しくないということだ」
今まで、正清が見たこともないような、冷たい、酷薄な顔だった。
正清はしばし、茫然とし。
それから、いつのまにか乾ききった喉からやっとのことで声を絞り出した。
「……それは、佳穂のことを申されておるのですか」
「他に妻はおらぬ、と言うたのはそなたではないか」
「父上は、あれを気に入っておられたのではないのですか。随分と、可愛がっておられるようにお見受けしておりましたが」
「可愛いとは思うておった。が、武家の妻というものは可愛くて気立てがよければそれでよいというものではない。……あれは石女ではないか」
正清は膝の上においた手をぐっと握り締めた。
「……佳穂はまだ若い。子が出来ぬと決まったわけではありませぬ」
「出来ると決まったわけでもない。
結婚して四年以上も子が出来ぬ、というのは石女であるといわれても仕方なかろう」
脳裏に佳穂の顔が浮んだ。
(殿。おかえりなさいませ)
屈託なく微笑むその面影が頼りなげに揺れる。
「仮に……」
「ん?」
「仮にそうだと致しましても、子が出来ぬのがあれの所為とは限りませぬ。それがしの方に原因があって、それで恵まれぬのやもしれませぬし」
「そうでないことは、そなたもよう知っておろう」
冷ややかな父の言葉に、正清は唇を噛み締めた。
六条の鎌田屋敷の門をくぐると、ちょうど父の腹心である橋田三郎と出くわした。
「ひさしゅうございますな。ご息災なようで何より」
橋田は日にやけた頬を綻ばせて笑った。
「今日はどうなされました?殿ならば奥の母屋においでになりますが。お取次ぎして参りましょう」
「いや構うな。自分で行く」
正清は短くいって邸内にあがった。
(なにがどうなされました、だ)
自分が何をしにここに来たかなど百も承知であろうに白々とした顔をしている橋田に腹をたてながら、ずんずんと内に進んでいく。
こちらへ来れば、ひょっとしたら佳穂が
(まあ、殿。どうされましたの)
などと言いながら出てくるかもしれない。
もし、そうならもう有無をいわせず連れて帰ってしまおうと思っていたのだが。
邸内はやけに人少なだった。
佳穂どころか、出迎えにくる侍女の姿のひとりもない。
父の居室になっている母屋へ行き
「失礼します」
と、一声あけて妻戸を開けると。
やはり人気のない室内で、父の通清がのんびりと横になっていた。
肘枕をついて、部屋の前庭の前栽などを眺めている。
物心ついた頃から、大殿の側に常に控え、お側去らずで忙しく忠勤に励んでいるのが当り前だった父のそんな姿は、正清の目には見慣れないものだった。
「おお。なんだ。そなたがこちらへ顔を見せるなど珍しいな。元気にしておったか」
正清が入ってきたのを見ても、起き上がる風でもなく通清はのんびりと言った。
正清はそんな父の前に居住まいを正して座った。
「珍しいといえば父上こそ。今日はどうなされたのです。そのように昼間から横になられておるなど常にないこと。お体の様子でも優れませぬか」
「いや、体の方は何ともない。ただ少し休んでおっただけだ」
と、朗らかに言った。
「お体の方が悪くないのなら今日はどうなされたのです。堀河のお邸へは参上しなくとも良いのですか」
つい尖った声で訊ねると、通清はにっと笑った。
「実は今日は北の方さま主催の歌会が催されておっての。殿や義賢さまは、これも昨今では武士の嗜みの一つだ、などと申されて近頃、とみにそんなものを奨励しておられるが……。なんの。わしなどはどこまで言っても無骨な坂東武者に過ぎぬ。和歌だの管弦の宴などというのはむずがゆくて、どうにも性に合わぬでな。失礼させていただいたのじゃ」
父の気持ちは正清にもよく分かった。
確かに、あるじの義朝が藤原家の姫君を正室に娶り、北面の武士として院の御所に出入りするようになってからは、武芸だけでなく、詩歌管弦の教養をも身につけておるのが武士としての嗜み、といった風潮はあちらの邸でもあった。
義朝はともかく、その嫡男の鬼武者などは、生母の由良御前の手引きのもと、漢詩や和歌、宮廷での有職故実、笛や舞など、一通りの教育を受けさせられている。
義朝も、そんな長男を他の妾室腹の子息たちとは明らかに区別して、自慢の嫡男として誇らしく思っているようだ。
そういう風潮は風潮として、自分にはどうにも性に合わないと思っていたのも事実で。
もし、十人の敵を相手に組討をせよと言われても少しも怯むものではないが、歌の一首も詠めなどといわれたらとても叶わない、と常々思っていたので、父が歌会への参加を渋る気持ちはよく分かる。
…が、それはともかく。
先ほどから自分が何故、ひさしぶりにここへ足を運んだのか。
とうに分かっているくせに、そ知らぬふりをして優雅に寝転んだまま話を続けている父に、だんだん腹がたってくる。
この期に及んでも、正清は自分の口から「佳穂はどこにいるのです?」と訊ねるのが気が進まなかった。
大の男ともあろう者が、妻が数日帰ってこないくらいで、わざわざ迎えに出向いてきたと思われるのが嫌だったのだ。
勝手に連れていったのは父の方なのだから、そちらの方から
「長いこと佳穂を借りていて悪かったな。今、呼んで来させよう」
とでも言うのが筋というものだろうに、通清はそんなことなど思いもよらないといったようにくつろいだ様子を見せている。
(だいたい佳穂も佳穂だ。そう広くもない邸内のこと。俺が来ていることくらい気配で察して、自分から出てきてもよさそうなものを。相変わらずぼうっとしておるというか、気が利かぬというか……)
しかし、いつまでも苛々していても仕方がない。
今日だとて、別に暇だったわけではなく、あるじの義朝には、
「父の体調がこのところ思わしくないようで見舞いにいって参ります」
と言って半日だけの暇を貰ってきているのだ。
そうぐずぐずしてばかりはいられない。
正清は仕方なく口を開いた。
「あれは……」
「ん?」
「あれは、どこにいます。姿が見えぬようですが」
「菊里か?そうだな。あれも久しぶりにそなたに会いたいであろう。呼んで来させよう」
分かっていながらとぼけているとしか思えないその口調に苛立ちが募る。
「いえ。菊里ではなく、うちの妻です。こちらにお邪魔しておるのでしょう」
「妻?佳穂のことか?」
「他におりますまい!」」
「そうだったな」
通清は苦笑して、ゆっくりと肘枕を解き、身を起した。
「それが問題だ」
そのまま、ゆるりと胡坐をかいて座る。
その顔にはもう笑みが消えていた。
正清は眉を寄せた。
「問題?」
「ああ」
「なにが問題だというのです」
それには応えず、通清はすっと居住まいを正した。
「正清」
「はい」
正清も背筋を伸ばして、父に向き直った。
「のう。正清」
「はい」
「そなたはあれで満足しておるのか?」
「は?」
「あれは…もう良いのではないか」
「………」
「義朝御曹司の乳母子であり一の郎党として名高いそなたのことだ。他にいくらでも相応しい女子がおろう。 現に、今でも我が家との縁組を望む声は家中に少なくない」
「……何を、仰っているのか、意味がよく分かりませんが……」
通清は静かに笑った。
「言うたままの意味よ。あんないつまでたっても子の一人も生まぬ。
そのくせ嫉妬深くて、武家の妻としての覚悟の足りぬ女子など、我が鎌田家の嫁としては相応しくないということだ」
今まで、正清が見たこともないような、冷たい、酷薄な顔だった。
正清はしばし、茫然とし。
それから、いつのまにか乾ききった喉からやっとのことで声を絞り出した。
「……それは、佳穂のことを申されておるのですか」
「他に妻はおらぬ、と言うたのはそなたではないか」
「父上は、あれを気に入っておられたのではないのですか。随分と、可愛がっておられるようにお見受けしておりましたが」
「可愛いとは思うておった。が、武家の妻というものは可愛くて気立てがよければそれでよいというものではない。……あれは石女ではないか」
正清は膝の上においた手をぐっと握り締めた。
「……佳穂はまだ若い。子が出来ぬと決まったわけではありませぬ」
「出来ると決まったわけでもない。
結婚して四年以上も子が出来ぬ、というのは石女であるといわれても仕方なかろう」
脳裏に佳穂の顔が浮んだ。
(殿。おかえりなさいませ)
屈託なく微笑むその面影が頼りなげに揺れる。
「仮に……」
「ん?」
「仮にそうだと致しましても、子が出来ぬのがあれの所為とは限りませぬ。それがしの方に原因があって、それで恵まれぬのやもしれませぬし」
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