夢の雫~保元・平治異聞~

橘 ゆず

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第三章 確執

山吹

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 半ば予想はしていたことだったけれど。
 蕨野わらびのの方さま主催の歌会は途中からほとんど、ただの酒宴と化していた。

 はじめこそ、女房たちが読み上げるお題にそって、歌を詠みあってはおられたものの。
 もともとは無骨で朴訥な東国武士の方々である。
 気恥ずかしさを誤魔化すためにか、やたらと杯を重ねられる方が続出し……。

 はじまりから一刻ばかり

 主座にいらっしゃる為義さまも、それをご覧になって苦笑されながらも、蕨野さまのお酌で注がれるお酒で、誰よりもお顔を赤くなさっておられる。

(これじゃ、午後の騎射の儀どころじゃないんじゃないかしら)
 空いた器や徳利を乗せて重ねた御膳を運びながら、私は小さく溜息をついた。

 もともと、こちらのお邸の女房ではないということもあり、今日は裏方に徹しようと決めている。
 義朝さまの一乳母子の妻の私がいることでご気分を害される方がいらっしゃらないとも限らないし。

 義父上は、今日は朝から体の節々が痛むという理由をつけてお休みを決め込んでいらっしゃる。

(歌会などと肩が凝るものは、わしは御免こうむる)
とのことだった。

 本当は私もご遠慮したいところだったのだけれど、蕨野さまから直々にお手伝いを頼まれてしまったのではお断りするわけにもいかない。

 目立たない地味な色の衣装を着て、出来るだけ部屋の隅に控えて、足りなくなったお酒の補充や、空いた器を下げたりする役割を引き受けていたのだけれど。

 宴が盛り上がり、お酒がまわってくると、そんな私にも目を止めて、理由をつけては袖を引こうとするような方も出てきて、正直、少しうんざりしてきていた。

 酔っ払いの扱いなら慣れている。

 三条坊門のお邸でも由良の方さまからお声をかけていただいて、宴のお手伝いをさせていただいたこともあるし、四条の邸で正清さまの朋輩の方々をおもてなしした事も数知れずある。

 実家の父さまや兄さま方も決してお酒が弱いということはなかったけれど、義朝さま配下の坂東武者の方々といったら、それはもう底なしで、飲むとなったら一晩でも飲み続け、騒ぎ続ける勢いで、どんなに酔っても、潰れるということがほとんどない。

 潰れないまま、どんどん杯を重ねてゆくものだから、夜半も過ぎると宴席は「無礼講」といえば聞こえはいいものの、隣りの人の声すらも耳を近づけなければ聞こえないほどの喧しさになり、お酒の勢いで大声で歌を歌われる方や、些細なことで取っ組み合いの喧嘩を始められる方までいて、本当に

(ここは山賊砦ですかっ!?)

と、思わず言いたくなるほどの喧騒に包まれるのだ。

 とはいえ、あちらでは私が正清さまの妻だということは当然ながら知れ渡っている。
 変なちょっかいなど出す人などいるはずもないわけで。

 それなのに、こちらではさっきからお酒の追加を頼むふりをして手招いては、私が側によると、冗談めかして手を握ったり、肩を抱き寄せようとする方があとを絶たなくて、私はすっかり閉口していた。

 空いた御膳を台盤所に下げにいった私は、すぐに宴席に戻るのをやめて、寝殿の東側の渡殿へと足を向けた。
宴は寝殿の南から西面の間を開け放って行われている。

 姫君たちのお住まいである西の対屋は、女性たちのための控えの間のようになっていたので人の往来が多く、また、着飾った女房がた目当てに庭先をうろついている殿方も少なくない。
御曹司がたのお部屋のある東の対と、そちらへ続く渡殿は、宴席からも遠く、ひっそりと落ち着いていた。

(サボるわけじゃないけど、ちょっと休憩)
 私は自分に理由をつけて、渡殿の途中にある階に腰を下ろしてそのすぐ前を流れる遣水の流れに目をやった。

 清らかな流れに初夏の日差しが反射してきらきらと輝いている。
 その脇の山吹の一叢の、瑞々しい緑の葉と、鮮やかな黄色の花の対比が見事で。
 私はそっと目を細めた。

 四条の邸の庭にも山吹の木が植えてあった。
 私が京にあがってから、出入りの庭師さんに頼んで植えて貰ったものだ。

(あちらでももう咲いてる頃よね。私がこちらへ来る前は、ちょうど蕾が膨らんできていたもの)
 昨年は、花の季節に合わせて山吹襲の衣装を新調させていただいたのだった。
 正清さまは花にも女の衣装にも関心のない方だけれど。

 私が部屋にも山吹の花を活けて、その衣装を着てみせて
「どう?似合いますかしら?」
と、御前でくるりとまわってみせると

「そなたのことだ。似合うというまで、聞き続けるのだろう」
と苦笑しながらも
「馬子にも衣装だ。よう似合う」
と、髪を撫でて下さった。

 その時は、
(そんな仰り方しか出来ないのかしら)
と不満に思ったものだったけれど。

 こうして離れ離れになった場所でその時のことを思い出してみると、正清さま独特の、そのそっけない口調と、無骨な仕草が、切ないほどに懐かしくて涙ぐみそうになるほどだった。

(殿にお会いしたいな。もうどれほどお会いしていないのかしら。まだ十日ほど? なんだか一年もお会いしてないような気がしてしまう)

「武家としての妻のつとめを果たしていない」

 正清さまの口からそう言われて。
 申し開きも反論もしようのないほど、本当のことを言われて。

 当り前だ。最もな仰せだ、と思いつつもやっぱり悲しくて苦しくて。
 それより何より、そんな当然のことを言われて今更のように傷ついている自分が情けなくて。

 そんな自分を正清さまに見せたくなくて。
 傷ついているのを気づかれたくなくて、あの朝、逃げるように家を出てきてしまった。

 その時点ではもちろん、こんな風にそのまましばらく離れて暮らすことになるなんて思ってもみなかったのだけれど。
 こうして離れて暮らしているうちに分かったことがある。

 それはやっぱり私があの方をお慕いしているということ。

 最初は親同士が決めた許婚同士だというだけの始まりだった。

 まだ野間の実家にいた頃。
 たまさかに訪れられるあの方をお迎えしながら。

(お会い出来ない日が続いても、案外と平気だ)

(もし、このまま京からお迎えがなくって。正清さまとのご縁はこれきりですよ、と言われたとしても、結構私は平気なのではないかしら)

と思っていたことすらあった。

 実家を離れて上洛が決まった時も。
 正直な話、嬉しさよりも不安の方が大きかった。

 だけど。

「佳穂。今、帰ったぞ」
 門をくぐって入ってくる背の高い、大きなそのお姿。

「おかえりなさいませ。お疲れさまにございました」

 両手をついてお出迎えする私を見るなり
「ああ」
と、かすかに目元を緩めるように笑って下さる日に焼けた精悍なお顔。

 居間でお召し替えのお手伝いをする時に、こちらに背を向けたまま
「留守中変わりはなかったか?」
 と、お尋ねになるそのお声。

 お帰りになられた正清さまからは、いつも汗と埃と馬具の革と。
 それから夏の日の草原で嗅ぐ、青々とした草と土の香りのような。
 そんな匂いがしていた。

 私は、それがとても好きだった。

 ふいに、いつかの由良の方さまのお言葉が頭に甦った。

(自分にとって一番大切なもの。それだけは絶対に守りたいもの。それさえ、はっきりしていれば、物事はいつでもそんなに難しくはないものよ)

 私にとって一番大切なもの。
 それだけは絶対に守りたいもの。

 由良の方さまは……義朝さまや、鬼武者さまを守るためならば何にだって耐えられると仰った。
 子供のいない私にとって、由良の方さまのそれにあたるものは何だろう、とずっと思ってきた。
 その時は出せなかった答えが、今なら出せるような気がする。

 こうして殿のお側を離れて暮らしてみて痛いほど分かったこと。
 それは、私はやっぱりあの方の妻でいたい、側にいたいと思っているということだった。

 この先もずっと子に恵まれることがなかったとして。
 跡継ぎを儲けるために、殿のお側に紗枝どのや、他の女性がいることになって。
 ……そして、その女性のお腹に殿のお跡継ぎの男子が生まれることになったとしても。

 それをすぐ側で見ているのがどんなに辛くても。
 離れたくない。

 正清さまが、もうお前など要らぬと。どこへなりと出て行けと仰られるのでないのなら。
 お側にいたい。

 由良の方さまは仰られた。

(正室とは、夫となられた殿方をお支えし、そのお力となるもの。そのお志を支え、ご無事にご宿願を果たされるその日まで、お側にあって共に戦う覚悟がなければなりません)

 と。

 子のない私にその役割が務まらないと言われるのなら、それが私でなくても構わない。

 私が殿の為に出来ることが、実家の財力でお暮らし向きを支えることだけだというのなら、それでいい。

 私だけを見ててくれなくてもいい。
 ずっと側にいてくれなくてもいい。

 ただ、なんの関わりもない相手にはなりたくない。

 お帰りになられた時に、いつものあのお声で。

「佳穂。今帰ったぞ」

と私の名を呼んで下さるあの瞬間をこれからも守ることが出来るなら。

 失わずに済むのなら、それだけでいい。

 つまらない矜持や、嫉妬心など、まるでないもののように振る舞ってみせる。
 きっとそうする。

 視界の端に映った山吹の花が滲んで揺れた。
 いつのまにか目の淵いっぱいに溜まっていた涙が、零れて頬を伝う。

 私はそれを袖で拭った。
 涙は止まらずに零れてきたけれど。

 ずっと迷っていた道の行く先をようやくみつけたような。
 そんなどこかすっきりとした気分だった。

 そのまま、私はしばらく、ぼんやりと庭先の前栽に見入っていた。
 どれくらいの時が経ったのだろう。

「佳穂」

 ふいに背後から声がかけられた。

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