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第五章 保元の乱
帰還
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「伯父上がたが心配してるぞ。話はまだ途中だっただろう」
硬い声でそういう致高さまに私はつんと顔をそむけた。
「途中も何も。私の返事ならもう申し上げましたわ」
「帰らずにここに残るって本気か? おまえ一人残ってどうしようっていうんだ」
「私はここですることがたくさんあるの。お帰りになりたいのならお好きにどうぞ。ただ私のことはもう放っておいてちょうだい」
「まだあいつが帰ってくると思ってるのか!?」
致高さまのその言葉に私より先に血相を変えたのは七平太だった。
「何だと!!」
欄干の下から燃え上がるような目で致高さまを睨みつける。致高さまは怯まなかった。
「本当のことを言っているだけだろ。合戦の日から何日が経つ? その間なんの消息も知れないで、手掛かりすらも見つからない。おまえだって本当は分かってるんだろ? 『なんとしてでも無事にお連れする」だと? 出来もしないことを言って佳穂に半端な希望を持たせるのはやめてくれないか? その方がずっと残酷ってもんだろ」
「言わせておけば……!!」
七平太が階を駆けあがってきて致高さまの胸倉をつかんだ。日頃、万事に控えめでおだやかな七平太とも思えない勢いだった。
「御方さまの前で二度とそんな口をきいてみろ!! ただでは済まさんぞ」
「おまえこそ、なにが『俺が命にかえてもお守りいたします』だよ。適当なこというなよ。そんなこと言うくらいならどうして命にかえても佳穂の大事な旦那を守らなかったんだよ!」
七平太の顔がさっと青ざめた。
「やめて、致高さま!」
「おまえは黙ってろ!」
七平太を庇うように前に出た私を致高さまが押しのけた。
「御方さまに気安く触るな!!」
「何でおまえにそんなこと言われないとならないんだよ。たかが使用人のくせに」
致高さまが七平太の肩を突き飛ばし、即座に七平太もやり返した。このままでは喧嘩になってしまう。
そうなればたぶん、日頃、坂東武者の間で揉まれている七平太の圧勝だと思うけれど、それで怪我をさせたりしたら父さまたちだって黙っていないだろうし、七平太が罰せられることになってしまう。
(どうしよう。槇野を呼んでくる? 間に合わないわ。そうだわ、槇野といえば確か……)
私は裸足のままで庭に飛び降り、近くにあった防火用の天水桶から水を汲み上げた。
庭先で下男同士が喧嘩になって大騒ぎになったとき、誰も止められなくて困っていたら槇野が桶で水かけて止めたんだったわ。
あの時はなんて無茶苦茶な、と呆れたけど確かにあの方法なら誰も怪我せずに止められる。
天水桶の側においてあった桶いっぱいに水を汲み、急いで七平太たちの方へ戻る。二人は激しくなにか言い争いながら互いの胸倉をつかみあおうと揉み合っているところだった。
急がなくっちゃ……!
桶をよいしょと抱えて走り出そうとした途端、ふいに目の前に人が立ちはだかった。汚れ切った直垂をつけた小具足姿の大きな男だった。
避けようとした瞬間、その人ががばっと私に抱きついた。
「きゃっ」
私は悲鳴をあげて飛びのくと、とっさに桶を放り出した。
水を盛大に飛び散らせながら飛んだ桶はきれいな弧を描いて、がこんと男の頭に当たって転がっていった。
「何ですか、いきなり」
「……それはこっちの台詞だ」
男が水をまともに被った顔を拭いながら低い声で言った。
(え……?)
「久しぶりに帰って来た夫にその仕打ちか。まったくおまえという女はいつもいつも……」
「……っ!」
その言葉が終わる前に私はその人に飛びついた。
何か言いたいのに、言葉をすべて忘れてしまったように声が出て来ない。
そのかわりに首にしがみつくようにして強く、強く抱きついた。
汗と泥、埃にまみれたお体からは垢じみた汗の匂いに混じって、かすかに夏の日の草むらのような、青々とした草と土のあたたかな匂いがする。
懐かしい殿の──正清さまの匂い。
「……抱きつかれると桶を投げつけるくせに自分から抱きつくのはいいのか」
正清さまのお声が耳元でする。お声も、困ったような、呆れたようなその物言いも紛れもなく正清さまのものだった。
「よいから一度離れよ」
私は抱きついたまま激しく首を振った。そこではじめて声が出た。
「いやです」
「嫌って……」
「離したら殿がこのまま消えてしまいそうな気がして……だって、たくさんそんな夢を見たから。お顔を見たら消えてしまいそうで怖くて……だから嫌……」
そう。ここ数日。何度も何度も同じ夢を見た。
正清さまがご無事で帰ってくる夢。私が喜んで駆け寄ると、正清さまは両手を広げて私を抱き止めてくれて。でも次の瞬間、顔をあげるともうどこにもいないの。
しゃくり上げながらしがみつく私の背を正清さまが、ぽんぽんとあやすように優しく叩いた。
「夢ではない。今、帰った」
そうしてギュッと私を抱きしめる。強く、強く。息が止まりそうになるほど強く。
「どこへも消えたりはせぬ。心配をかけたな、佳穂」
そう言って私の腰に手をかけてぐいっと抱き上げた。強い力で持ち上げられてしがみついていた私の腕がほどけた。
正清さまは軽々と私を片腕に抱き上げて、もう片方の手で涙でくしゃくしゃになった私の頬を指で拭って下さった。
「やっと顔が見えた」
ふうっと息をついて、切れ長な目元を細められる。
日に灼けた頬には痛ましい大きな傷があった。夢のなかの正清さまの頬にはなかった傷。ではこの正清さまは本物なのだ。本当に、本当に、ご無事で帰って……。
私はまた正清さまにしがみついて今度は声を放って泣き出した。
「いったい幾つだ、おまえは。まったくいつまでも子どものような……」
そう言いながら、正清さまは私が泣き止むまで背中を撫でてくれていた。
硬い声でそういう致高さまに私はつんと顔をそむけた。
「途中も何も。私の返事ならもう申し上げましたわ」
「帰らずにここに残るって本気か? おまえ一人残ってどうしようっていうんだ」
「私はここですることがたくさんあるの。お帰りになりたいのならお好きにどうぞ。ただ私のことはもう放っておいてちょうだい」
「まだあいつが帰ってくると思ってるのか!?」
致高さまのその言葉に私より先に血相を変えたのは七平太だった。
「何だと!!」
欄干の下から燃え上がるような目で致高さまを睨みつける。致高さまは怯まなかった。
「本当のことを言っているだけだろ。合戦の日から何日が経つ? その間なんの消息も知れないで、手掛かりすらも見つからない。おまえだって本当は分かってるんだろ? 『なんとしてでも無事にお連れする」だと? 出来もしないことを言って佳穂に半端な希望を持たせるのはやめてくれないか? その方がずっと残酷ってもんだろ」
「言わせておけば……!!」
七平太が階を駆けあがってきて致高さまの胸倉をつかんだ。日頃、万事に控えめでおだやかな七平太とも思えない勢いだった。
「御方さまの前で二度とそんな口をきいてみろ!! ただでは済まさんぞ」
「おまえこそ、なにが『俺が命にかえてもお守りいたします』だよ。適当なこというなよ。そんなこと言うくらいならどうして命にかえても佳穂の大事な旦那を守らなかったんだよ!」
七平太の顔がさっと青ざめた。
「やめて、致高さま!」
「おまえは黙ってろ!」
七平太を庇うように前に出た私を致高さまが押しのけた。
「御方さまに気安く触るな!!」
「何でおまえにそんなこと言われないとならないんだよ。たかが使用人のくせに」
致高さまが七平太の肩を突き飛ばし、即座に七平太もやり返した。このままでは喧嘩になってしまう。
そうなればたぶん、日頃、坂東武者の間で揉まれている七平太の圧勝だと思うけれど、それで怪我をさせたりしたら父さまたちだって黙っていないだろうし、七平太が罰せられることになってしまう。
(どうしよう。槇野を呼んでくる? 間に合わないわ。そうだわ、槇野といえば確か……)
私は裸足のままで庭に飛び降り、近くにあった防火用の天水桶から水を汲み上げた。
庭先で下男同士が喧嘩になって大騒ぎになったとき、誰も止められなくて困っていたら槇野が桶で水かけて止めたんだったわ。
あの時はなんて無茶苦茶な、と呆れたけど確かにあの方法なら誰も怪我せずに止められる。
天水桶の側においてあった桶いっぱいに水を汲み、急いで七平太たちの方へ戻る。二人は激しくなにか言い争いながら互いの胸倉をつかみあおうと揉み合っているところだった。
急がなくっちゃ……!
桶をよいしょと抱えて走り出そうとした途端、ふいに目の前に人が立ちはだかった。汚れ切った直垂をつけた小具足姿の大きな男だった。
避けようとした瞬間、その人ががばっと私に抱きついた。
「きゃっ」
私は悲鳴をあげて飛びのくと、とっさに桶を放り出した。
水を盛大に飛び散らせながら飛んだ桶はきれいな弧を描いて、がこんと男の頭に当たって転がっていった。
「何ですか、いきなり」
「……それはこっちの台詞だ」
男が水をまともに被った顔を拭いながら低い声で言った。
(え……?)
「久しぶりに帰って来た夫にその仕打ちか。まったくおまえという女はいつもいつも……」
「……っ!」
その言葉が終わる前に私はその人に飛びついた。
何か言いたいのに、言葉をすべて忘れてしまったように声が出て来ない。
そのかわりに首にしがみつくようにして強く、強く抱きついた。
汗と泥、埃にまみれたお体からは垢じみた汗の匂いに混じって、かすかに夏の日の草むらのような、青々とした草と土のあたたかな匂いがする。
懐かしい殿の──正清さまの匂い。
「……抱きつかれると桶を投げつけるくせに自分から抱きつくのはいいのか」
正清さまのお声が耳元でする。お声も、困ったような、呆れたようなその物言いも紛れもなく正清さまのものだった。
「よいから一度離れよ」
私は抱きついたまま激しく首を振った。そこではじめて声が出た。
「いやです」
「嫌って……」
「離したら殿がこのまま消えてしまいそうな気がして……だって、たくさんそんな夢を見たから。お顔を見たら消えてしまいそうで怖くて……だから嫌……」
そう。ここ数日。何度も何度も同じ夢を見た。
正清さまがご無事で帰ってくる夢。私が喜んで駆け寄ると、正清さまは両手を広げて私を抱き止めてくれて。でも次の瞬間、顔をあげるともうどこにもいないの。
しゃくり上げながらしがみつく私の背を正清さまが、ぽんぽんとあやすように優しく叩いた。
「夢ではない。今、帰った」
そうしてギュッと私を抱きしめる。強く、強く。息が止まりそうになるほど強く。
「どこへも消えたりはせぬ。心配をかけたな、佳穂」
そう言って私の腰に手をかけてぐいっと抱き上げた。強い力で持ち上げられてしがみついていた私の腕がほどけた。
正清さまは軽々と私を片腕に抱き上げて、もう片方の手で涙でくしゃくしゃになった私の頬を指で拭って下さった。
「やっと顔が見えた」
ふうっと息をついて、切れ長な目元を細められる。
日に灼けた頬には痛ましい大きな傷があった。夢のなかの正清さまの頬にはなかった傷。ではこの正清さまは本物なのだ。本当に、本当に、ご無事で帰って……。
私はまた正清さまにしがみついて今度は声を放って泣き出した。
「いったい幾つだ、おまえは。まったくいつまでも子どものような……」
そう言いながら、正清さまは私が泣き止むまで背中を撫でてくれていた。
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