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第三章 悪人たちの狂騒曲
54.逃亡者たち
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「ちょっと、なんであんたまで来るのよ! ついて来ないでよ!!」
スカートの裾をたくし上げて森の中を走りながらマリエッタは後ろからついてくるセオドールを怒鳴りつけた。
「なんでって、おまえ俺だけ置いて逃げるだろ。そうはいくかよ」
セオドールも負けじと言い返した。
アマーリアがドアを破って出て来たのを見て自分の計画が駄目になったのを見たマリエッタは即座にその場からの逃亡を決意した。
もともと自分は今、王都でアドリアンの帰りを待っていることになっている。
今のうちに屋敷に舞い戻り、何事もなかったかのように過ごしていれば何とか誤魔化せるはずだ。
アドリアンは何者かが寄越した偽のアマーリアからの手紙を真に受けてあの別荘を訪れ、そこでアマーリアともども賊に襲われたのだ。
その賊たちが何故かマリエッタの名を出してあれこれ言うかもしれないが、知らないものは知らない、王子との結婚を妬んだ何者かの仕業だと言い抜ければいい。
あのお人好しのアドリアンを言いくるめるのには自信があったし、彼さえうまく丸め込むことが出来ればあとは彼が必死にマリエッタを守ってくれるだろう。
あの時のアドリアンは、必死にアマーリアを守ろうとしていた。
うまくいけば、あのまま本当によりが戻るかもしれない。
そうなったら当初の計画通り、自分は捨てられた哀れな令嬢を装って他の貴族の子息を引っかけてもいいし、本当にアドリアンの側室におさまってもいい。
アマーリアは色々と変わってはいるが、意地悪ではなさそうだ。
適当にうまくやっていけるだろう。
「王都に戻るなら俺も一緒に行った方がいいだろう。道中何があるか分からないんだし」
恩着せがましく言うセオドールをマリエッタは冷ややかな目で見た。
(ふん。何か危険な目に遭ったところで私を庇うくらいの甲斐性も殊勝さも持ってないくせに)
「今、一緒に逃げ帰ったところであのごろつきどもが私やあんたの名前を出したらおしまいでしょう。だからあんたは残ってあいつらをうまいこと言いくるめておいてって言ったのに」
「どうやってだよ。今頃きっとおまえがあいつらについた適当な嘘がバレて激怒してるところだぜ。今、戻っていったら言いくるめるどころか逆に八つ裂きにされちまうよ!」
セオドールは喚きながらついてくる。
マリエッタは出来ることならどこかでセオドールを始末してしまいたかった。
エリザベートとの連絡を仲立ちしていたのはセオドールで、エリザベートから貰った軍資金をつかってあのごろつきたちを集めてきたのもセオドールだ。
セオドールさえいなくなれば、もしエリザベートのルートから今回のことが発覚しても自分は無関係だったと言い訳出来る。
セオドールなどという男は知らない。
クルーガー伯爵夫人とは会ったこともない。
夫人が何を言われたとて、何かの間違いか、何者かがマリエッタの名を騙ったのではないかと言い張れば良い。
けれど、もしセオドールが捕らえられたら……。
根性なしのこの男は、少し拷問を匂わされただけでもすべてを喋ってしまうだろう。
もし計画が成功すれば、あのダリルとかいう首領をうまく唆してセオドールを始末させるつもりだった。
が、計画は何もかも狂ってしまった。
こうなったら自分の命だけは守らなければ。
いよいよとなったら、アドリアンに捨てられ、拉致事件の犯人という汚名まで着せられた悲しみに耐えられない、という遺書でも残して姿をくらませればいい。
そうして、ほとぼりが冷めるまではどこか地方の町で裕福な商人の妾にでもなって楽しく暮らせばいいのだ。
二人で森の中を進むうちに湖のほとりに出た。
王都の北にあるサフィア湖だ。
もともと、このあたりは王都の貴族たちの避暑地として人気があり、湖畔にはいくつもの別荘が建っている。
エリザベートの母の実家が所有していた古い別荘が、湖畔から少し離れた森のなかにあると聞いて今回の計画に利用したのだ。
秋の終わりということもあって、あたりの別荘はほとんど無人なのも都合が良かった。
「なあ、どうする? さっき踏み込んできたやつ、王宮の騎士だろう? 下手をしたらもうそのあたりに騎士団が押し寄せてきてるんじゃ……街道沿いに王都へ戻るのは危険じゃないか? この辺の空き別荘にでも隠れて、様子を見てようぜ」
息を切らせながら言うセオドールをマリエッタは冷ややかに見やった。
「そうしたければどうぞご勝手に。私は一人でも王都に戻るから」
アドリアンが戻る前に、何がなんでも王都に戻っていなくてはならない。
そうして、館の使用人たちに、色仕掛けでも買収でも何でもして、自分はずっと館にいたと証言させるのだ。
そうすれば、あのダリルが何を言おうと言い逃れることが出来る。
スカートの裾を翻してさっさと歩きだしたマリエッタに、セオドールが追いすがった。
「おい、待てよ。行かないとは言ってないだろ」
「あら、王都に戻るにしたって、別に一緒でなくなったいいでしょう。バラバラの方がかえって目立たないわよ。ここでいったん、別れてまた後日、王都でおち合いましょう」
「なんだよ。そんなこと言っておまえ、罪を俺やあのごろつきたちに全部押しつけて逃げるつもりだろう!」
セオドールが、突然声を荒げてマリエッタにつかみかかった。
「な、何言ってるのよ。そんなはずないでしょう」
「いいや。俺はおまえがどんな女かよーく知ってるんだ。あの甘ちゃん殿下みたいには簡単に騙せねえぞ!」
「痛っ。ちょっと、離してよ!」
「うるせえ! あいつらがアドリアン殿下を痛めつけたせいで、もし捕まったら俺たちは全員間違いなく死罪だぞ! もとはと言えばおまえが言い出したことじゃないか。一人だけ逃げようったってそうはいかねえぞ」
「何言ってるのよ! もともと、あのごろつきどもを集めてきたのはあんたでしょう!? あいつらがアマーリアを襲わせろとか意地汚いこと言いだしたから、計画が全部崩れたんじゃないの! あの時だって、あんたはあいつらを押さえることも出来ないで、へらへら突っ立ってるだけだったくせに、今になって私のせいにしないでよ! 全部あんたが情けない、役立たずだからいけないんでしょう!?」
マリエッタがまくし立てるとセオドールの顔色が変わった。
「なんだと、このくそアマ……!」
マリエッタの二の腕をつかんだまま、もう片手を振り上げる。
(ぶたれる……っ!)
これまで、両手の数では足りないほどの男を手玉に取りながら、こんな風に相手を怒らせて手をあげさせるようなドジを踏んだことはなかったのに。
自分の持っている最大の武器はこの愛らしい容姿だ。
それに傷をつけるような危険は絶対におかさないようにしてきたのに。
自分の迂闊さに歯噛みする思いで、マリエッタが手で顔を庇おうとしたその時。
「やめないか!!」
鋭い声が響き、セオドールが
「ぐああっ!」
と悲鳴をあげた。
「痛えっ! なんだてめえは!」
「貴様こそ、か弱い婦女子に向かって暴力をふるうとは何事だ!!」
低く響く声がセオドールを怒鳴りつける。
(しめた。誰か人が通りかかったんだわ)
マリエッタは、蹲ったままほくそ笑んだ。
声と口調から察するに相手は、それなりに身分のある者のようだ。
このあたりの別荘を訪れた貴族の誰かかもしれない。
(うまくやれば、ここでセオドールとはおさらば出来るわ)
道に迷った旅の娘が、ならず者の男に森のなかに連れ込まれ、襲われそうになっていたという筋書きで訴えてやれば、自分から揉め事に首を突っ込んでくるような正義漢気取りの男ならばあっさりと信じてくれるだろう。
「痛え! 離せよ、おっさん! おまえには関係ねえだろう」
「女性がおまえのような男に絡まれているのを見過ごすわけにはいかん。お嬢さん、お怪我はないかな?」
相手はそこそこ年配の男のようだ。
だったら、色気を全面に出すよりも、頼りなげで守ってやりたくなるようなあどけなさを強調した方がいいだろう。
瞬時に計算したマリエッタは、手を祈るような形に組み合わせて顔を上げ、うるうると潤んだ瞳で助けに入ってくれた男を見上げた。
「ありがとうございま……って、きゃああああっ!!」
その瞬間、マリエッタはそれまでの演技プランをほっぽり出して悲鳴をあげた。
セオドールの腕を捻りあげているその男は、頭の先から足元まで真っ赤に染まった血まみれだったのだ。
その悲鳴に、何とか顔を捻って男を見上げたセオドールも絶句する。
「な、な、な……っ」
「おお。お嬢さん。もう心配はないぞ。そのように怯えることはない」
男は言ってマリエッタに微笑みかけた。
しかし顔中が真っ赤な血に染まっているので、まるで全身に返り血を浴びた殺人鬼のような陰惨な笑みに見える。
「い、いやあああ! 来ないで!!」
マリエッタは思わず、後ずさった。
その時、
「父上! どうなさったのです!?」
声とともに、落ち葉を踏みしめてこちらへ駆け寄ってくる足音が聞こえた。
そちらを振り向いたマリエッタは、今度は「ひいっ」と息を呑んだ。
駆け寄ってきた若い男は、こちらは全身緑色だったのだ。
もとは金髪らしい頭の先から、上物だと思われる革のブーツの爪先まで緑色に染まっている。
マリエッタとセオドールは、いがみ合っていたことも忘れて、ひしっと手を取り合った。
「な、な、何なんだよ、こいつらは……」
「知らないわよっ」
(こんな季節外れにこんな場所にいる貴族なんて、よく考えたら普通じゃない。奇妙な風習のある異教徒の集まりかも……)
じりじりと後ずさる二人の前で赤と緑の奇妙な父子は、会話を始めた。
「おお。ヴィクトール。いや、女性の悲鳴が聞こえた気がしてきてみれば、そこの不埒な男が女性に手をあげようとしていて……」
「うん? こんな時期に旅人ですか」
こちらを見た緑の男を見てマリエッタは、危うく声をあげそうになった。
(ヴィ、ヴィクトール・クレヴィング!!)
あまりの姿につかなかったが、名前を呼ばれているのを聞いて分かった。
この男は、アマーリアの兄、クレヴィング家の嫡男のヴィクトールだ。
アドリアンに伴われて見に行った国王御前の武術大会で姿を見たことがあるから間違いない。
淡くけぶるような金髪はいまは見るも無残な緑色になっているが、空の色をうつしたような明るい青の瞳は間違いない。
アドリアンのことさえなければ、ぜひ一度言い寄ってみたいと思うくらい好みのタイプだったからよく覚えている。
ということは、こっちの真っ赤の男は……。
「クレヴィング公爵閣下! ヴィクトール!!」
別の声がして、三人目の男がこちらに歩いてきた。
見れば林の木立のむこうに何頭もの馬が止まっていて、その向こうに十数人の武装した男たちが騎乗のままこちらを見ているのが見える。
「まったく、二人とも少し落ち着いて下さい。リアが連れて行かれたと思われる別荘はもっと奥です。何度言ったら分かるんですか」
二人のあとを追ってやってきたのは、バランド公爵子息のクレイグだった。
王都を飛び出したギルベルトとヴィクトール父子を、放っておいては何をしでかすか分からないと思って慌てて追いかけてきたクレイグだったが、自分のその判断は正しかったとつくづく思っていた。
湖畔の別荘地に着くなり、クレヴィング家の父子は目についた建物に片っ端から突入し、そのうちの一軒の、老朽化した床を踏み抜いて、地下に置かれていた染料を入れた樽に揃って落ちたのだ。
ギルベルトは赤、ヴィクトールは緑の染料を入れた樽に落ちた。
そのため、今、二人は世界一、色鮮やかな公爵とその子息になっている。
いったん洗えと言っても、
「リアの身に危険が迫っているのにそんな悠長なことを言っていられるか!!」
と言ってきかないので、そのままの姿でいる。
「アマーリアの身を案じるのなら、まずは冷静に。ほら何のために額に平常心って書いて……ああ、染料で見えなくなってる」
近づいてきたのが、クレイグだと気づいたマリエッタはセオドールの手を強く引っ張った。
「な、何だよ」
セオドールはクレヴィング父子の異様な風体に気を呑まれて立ちすくんでいる。
「いいから。行くわよっ」
ヴィクトールたちがどうして全身、赤と緑に染まっているのかはしらないが、この際そんなことはどうでもいい。 一刻も早くこの場を離れなくては。
「お嬢さん、どうなされた。お困りならば我らで良ければお力になるが」
クレヴィング公爵が言う。
が、マリエッタはそちらにあやふやな笑みを浮かべ、
「い、いえ。大丈夫です。お騒がせ致しました。これで失礼いたします」
とその場を立ち去ろうとした。
その時。
「マリエッタ・イルス!」
クレイグがこちらをまっすぐに指して叫んだ。
「え、どこに」
ヴィクトールがあたりを見回して言う。
「馬鹿! その女だ! 俺は婚約披露パーティーの席ではっきりと顔を見ている。間違いない。逃すな!」
舌打ちしたマリエッタは、逃げ出そうとしたが、女の足で何人もの男を相手に逃げ切れるはずもない。
あっという間に、取り囲まれてしまった。
「さてと。お話を聞かせて貰いましょうか。イルス男爵令嬢……いや、リゼット・マークス」
クレイグが自分の本名を呼ぶのを聞いて、マリエッタはすべてが発覚したことを悟った。
スカートの裾をたくし上げて森の中を走りながらマリエッタは後ろからついてくるセオドールを怒鳴りつけた。
「なんでって、おまえ俺だけ置いて逃げるだろ。そうはいくかよ」
セオドールも負けじと言い返した。
アマーリアがドアを破って出て来たのを見て自分の計画が駄目になったのを見たマリエッタは即座にその場からの逃亡を決意した。
もともと自分は今、王都でアドリアンの帰りを待っていることになっている。
今のうちに屋敷に舞い戻り、何事もなかったかのように過ごしていれば何とか誤魔化せるはずだ。
アドリアンは何者かが寄越した偽のアマーリアからの手紙を真に受けてあの別荘を訪れ、そこでアマーリアともども賊に襲われたのだ。
その賊たちが何故かマリエッタの名を出してあれこれ言うかもしれないが、知らないものは知らない、王子との結婚を妬んだ何者かの仕業だと言い抜ければいい。
あのお人好しのアドリアンを言いくるめるのには自信があったし、彼さえうまく丸め込むことが出来ればあとは彼が必死にマリエッタを守ってくれるだろう。
あの時のアドリアンは、必死にアマーリアを守ろうとしていた。
うまくいけば、あのまま本当によりが戻るかもしれない。
そうなったら当初の計画通り、自分は捨てられた哀れな令嬢を装って他の貴族の子息を引っかけてもいいし、本当にアドリアンの側室におさまってもいい。
アマーリアは色々と変わってはいるが、意地悪ではなさそうだ。
適当にうまくやっていけるだろう。
「王都に戻るなら俺も一緒に行った方がいいだろう。道中何があるか分からないんだし」
恩着せがましく言うセオドールをマリエッタは冷ややかな目で見た。
(ふん。何か危険な目に遭ったところで私を庇うくらいの甲斐性も殊勝さも持ってないくせに)
「今、一緒に逃げ帰ったところであのごろつきどもが私やあんたの名前を出したらおしまいでしょう。だからあんたは残ってあいつらをうまいこと言いくるめておいてって言ったのに」
「どうやってだよ。今頃きっとおまえがあいつらについた適当な嘘がバレて激怒してるところだぜ。今、戻っていったら言いくるめるどころか逆に八つ裂きにされちまうよ!」
セオドールは喚きながらついてくる。
マリエッタは出来ることならどこかでセオドールを始末してしまいたかった。
エリザベートとの連絡を仲立ちしていたのはセオドールで、エリザベートから貰った軍資金をつかってあのごろつきたちを集めてきたのもセオドールだ。
セオドールさえいなくなれば、もしエリザベートのルートから今回のことが発覚しても自分は無関係だったと言い訳出来る。
セオドールなどという男は知らない。
クルーガー伯爵夫人とは会ったこともない。
夫人が何を言われたとて、何かの間違いか、何者かがマリエッタの名を騙ったのではないかと言い張れば良い。
けれど、もしセオドールが捕らえられたら……。
根性なしのこの男は、少し拷問を匂わされただけでもすべてを喋ってしまうだろう。
もし計画が成功すれば、あのダリルとかいう首領をうまく唆してセオドールを始末させるつもりだった。
が、計画は何もかも狂ってしまった。
こうなったら自分の命だけは守らなければ。
いよいよとなったら、アドリアンに捨てられ、拉致事件の犯人という汚名まで着せられた悲しみに耐えられない、という遺書でも残して姿をくらませればいい。
そうして、ほとぼりが冷めるまではどこか地方の町で裕福な商人の妾にでもなって楽しく暮らせばいいのだ。
二人で森の中を進むうちに湖のほとりに出た。
王都の北にあるサフィア湖だ。
もともと、このあたりは王都の貴族たちの避暑地として人気があり、湖畔にはいくつもの別荘が建っている。
エリザベートの母の実家が所有していた古い別荘が、湖畔から少し離れた森のなかにあると聞いて今回の計画に利用したのだ。
秋の終わりということもあって、あたりの別荘はほとんど無人なのも都合が良かった。
「なあ、どうする? さっき踏み込んできたやつ、王宮の騎士だろう? 下手をしたらもうそのあたりに騎士団が押し寄せてきてるんじゃ……街道沿いに王都へ戻るのは危険じゃないか? この辺の空き別荘にでも隠れて、様子を見てようぜ」
息を切らせながら言うセオドールをマリエッタは冷ややかに見やった。
「そうしたければどうぞご勝手に。私は一人でも王都に戻るから」
アドリアンが戻る前に、何がなんでも王都に戻っていなくてはならない。
そうして、館の使用人たちに、色仕掛けでも買収でも何でもして、自分はずっと館にいたと証言させるのだ。
そうすれば、あのダリルが何を言おうと言い逃れることが出来る。
スカートの裾を翻してさっさと歩きだしたマリエッタに、セオドールが追いすがった。
「おい、待てよ。行かないとは言ってないだろ」
「あら、王都に戻るにしたって、別に一緒でなくなったいいでしょう。バラバラの方がかえって目立たないわよ。ここでいったん、別れてまた後日、王都でおち合いましょう」
「なんだよ。そんなこと言っておまえ、罪を俺やあのごろつきたちに全部押しつけて逃げるつもりだろう!」
セオドールが、突然声を荒げてマリエッタにつかみかかった。
「な、何言ってるのよ。そんなはずないでしょう」
「いいや。俺はおまえがどんな女かよーく知ってるんだ。あの甘ちゃん殿下みたいには簡単に騙せねえぞ!」
「痛っ。ちょっと、離してよ!」
「うるせえ! あいつらがアドリアン殿下を痛めつけたせいで、もし捕まったら俺たちは全員間違いなく死罪だぞ! もとはと言えばおまえが言い出したことじゃないか。一人だけ逃げようったってそうはいかねえぞ」
「何言ってるのよ! もともと、あのごろつきどもを集めてきたのはあんたでしょう!? あいつらがアマーリアを襲わせろとか意地汚いこと言いだしたから、計画が全部崩れたんじゃないの! あの時だって、あんたはあいつらを押さえることも出来ないで、へらへら突っ立ってるだけだったくせに、今になって私のせいにしないでよ! 全部あんたが情けない、役立たずだからいけないんでしょう!?」
マリエッタがまくし立てるとセオドールの顔色が変わった。
「なんだと、このくそアマ……!」
マリエッタの二の腕をつかんだまま、もう片手を振り上げる。
(ぶたれる……っ!)
これまで、両手の数では足りないほどの男を手玉に取りながら、こんな風に相手を怒らせて手をあげさせるようなドジを踏んだことはなかったのに。
自分の持っている最大の武器はこの愛らしい容姿だ。
それに傷をつけるような危険は絶対におかさないようにしてきたのに。
自分の迂闊さに歯噛みする思いで、マリエッタが手で顔を庇おうとしたその時。
「やめないか!!」
鋭い声が響き、セオドールが
「ぐああっ!」
と悲鳴をあげた。
「痛えっ! なんだてめえは!」
「貴様こそ、か弱い婦女子に向かって暴力をふるうとは何事だ!!」
低く響く声がセオドールを怒鳴りつける。
(しめた。誰か人が通りかかったんだわ)
マリエッタは、蹲ったままほくそ笑んだ。
声と口調から察するに相手は、それなりに身分のある者のようだ。
このあたりの別荘を訪れた貴族の誰かかもしれない。
(うまくやれば、ここでセオドールとはおさらば出来るわ)
道に迷った旅の娘が、ならず者の男に森のなかに連れ込まれ、襲われそうになっていたという筋書きで訴えてやれば、自分から揉め事に首を突っ込んでくるような正義漢気取りの男ならばあっさりと信じてくれるだろう。
「痛え! 離せよ、おっさん! おまえには関係ねえだろう」
「女性がおまえのような男に絡まれているのを見過ごすわけにはいかん。お嬢さん、お怪我はないかな?」
相手はそこそこ年配の男のようだ。
だったら、色気を全面に出すよりも、頼りなげで守ってやりたくなるようなあどけなさを強調した方がいいだろう。
瞬時に計算したマリエッタは、手を祈るような形に組み合わせて顔を上げ、うるうると潤んだ瞳で助けに入ってくれた男を見上げた。
「ありがとうございま……って、きゃああああっ!!」
その瞬間、マリエッタはそれまでの演技プランをほっぽり出して悲鳴をあげた。
セオドールの腕を捻りあげているその男は、頭の先から足元まで真っ赤に染まった血まみれだったのだ。
その悲鳴に、何とか顔を捻って男を見上げたセオドールも絶句する。
「な、な、な……っ」
「おお。お嬢さん。もう心配はないぞ。そのように怯えることはない」
男は言ってマリエッタに微笑みかけた。
しかし顔中が真っ赤な血に染まっているので、まるで全身に返り血を浴びた殺人鬼のような陰惨な笑みに見える。
「い、いやあああ! 来ないで!!」
マリエッタは思わず、後ずさった。
その時、
「父上! どうなさったのです!?」
声とともに、落ち葉を踏みしめてこちらへ駆け寄ってくる足音が聞こえた。
そちらを振り向いたマリエッタは、今度は「ひいっ」と息を呑んだ。
駆け寄ってきた若い男は、こちらは全身緑色だったのだ。
もとは金髪らしい頭の先から、上物だと思われる革のブーツの爪先まで緑色に染まっている。
マリエッタとセオドールは、いがみ合っていたことも忘れて、ひしっと手を取り合った。
「な、な、何なんだよ、こいつらは……」
「知らないわよっ」
(こんな季節外れにこんな場所にいる貴族なんて、よく考えたら普通じゃない。奇妙な風習のある異教徒の集まりかも……)
じりじりと後ずさる二人の前で赤と緑の奇妙な父子は、会話を始めた。
「おお。ヴィクトール。いや、女性の悲鳴が聞こえた気がしてきてみれば、そこの不埒な男が女性に手をあげようとしていて……」
「うん? こんな時期に旅人ですか」
こちらを見た緑の男を見てマリエッタは、危うく声をあげそうになった。
(ヴィ、ヴィクトール・クレヴィング!!)
あまりの姿につかなかったが、名前を呼ばれているのを聞いて分かった。
この男は、アマーリアの兄、クレヴィング家の嫡男のヴィクトールだ。
アドリアンに伴われて見に行った国王御前の武術大会で姿を見たことがあるから間違いない。
淡くけぶるような金髪はいまは見るも無残な緑色になっているが、空の色をうつしたような明るい青の瞳は間違いない。
アドリアンのことさえなければ、ぜひ一度言い寄ってみたいと思うくらい好みのタイプだったからよく覚えている。
ということは、こっちの真っ赤の男は……。
「クレヴィング公爵閣下! ヴィクトール!!」
別の声がして、三人目の男がこちらに歩いてきた。
見れば林の木立のむこうに何頭もの馬が止まっていて、その向こうに十数人の武装した男たちが騎乗のままこちらを見ているのが見える。
「まったく、二人とも少し落ち着いて下さい。リアが連れて行かれたと思われる別荘はもっと奥です。何度言ったら分かるんですか」
二人のあとを追ってやってきたのは、バランド公爵子息のクレイグだった。
王都を飛び出したギルベルトとヴィクトール父子を、放っておいては何をしでかすか分からないと思って慌てて追いかけてきたクレイグだったが、自分のその判断は正しかったとつくづく思っていた。
湖畔の別荘地に着くなり、クレヴィング家の父子は目についた建物に片っ端から突入し、そのうちの一軒の、老朽化した床を踏み抜いて、地下に置かれていた染料を入れた樽に揃って落ちたのだ。
ギルベルトは赤、ヴィクトールは緑の染料を入れた樽に落ちた。
そのため、今、二人は世界一、色鮮やかな公爵とその子息になっている。
いったん洗えと言っても、
「リアの身に危険が迫っているのにそんな悠長なことを言っていられるか!!」
と言ってきかないので、そのままの姿でいる。
「アマーリアの身を案じるのなら、まずは冷静に。ほら何のために額に平常心って書いて……ああ、染料で見えなくなってる」
近づいてきたのが、クレイグだと気づいたマリエッタはセオドールの手を強く引っ張った。
「な、何だよ」
セオドールはクレヴィング父子の異様な風体に気を呑まれて立ちすくんでいる。
「いいから。行くわよっ」
ヴィクトールたちがどうして全身、赤と緑に染まっているのかはしらないが、この際そんなことはどうでもいい。 一刻も早くこの場を離れなくては。
「お嬢さん、どうなされた。お困りならば我らで良ければお力になるが」
クレヴィング公爵が言う。
が、マリエッタはそちらにあやふやな笑みを浮かべ、
「い、いえ。大丈夫です。お騒がせ致しました。これで失礼いたします」
とその場を立ち去ろうとした。
その時。
「マリエッタ・イルス!」
クレイグがこちらをまっすぐに指して叫んだ。
「え、どこに」
ヴィクトールがあたりを見回して言う。
「馬鹿! その女だ! 俺は婚約披露パーティーの席ではっきりと顔を見ている。間違いない。逃すな!」
舌打ちしたマリエッタは、逃げ出そうとしたが、女の足で何人もの男を相手に逃げ切れるはずもない。
あっという間に、取り囲まれてしまった。
「さてと。お話を聞かせて貰いましょうか。イルス男爵令嬢……いや、リゼット・マークス」
クレイグが自分の本名を呼ぶのを聞いて、マリエッタはすべてが発覚したことを悟った。
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