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第十四話 揚羽蝶
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漣の師匠である御用絵師、柳露の家は武家屋敷が連なる通りの外れにある。
板塀と生け垣に囲まれており、座敷が四つと、こじんまりした玄関、そこそこ立派な台所がある家で、通いの使用人が一人いた。
住み込みの弟子は二人。元・飯盛女の牡丹と漣だけだ。
周りの人々から昼行灯と呼ばれている柳露は、うだつの上がらない風采の五十男だが、大奥に屏風を納めたり、大老の家で襖絵を描いたこともあるほどの、非常に腕の良い絵師である。
ただし、仕事の依頼は少ない。納期を守らないからだ。のらりくらりと一年先、二年先まで先延ばしするのは当たり前で、下手すると十年くらい後に納品する。
ならばカネに困りそうなものだが、辛うじて糊口を凌ぐだけの稼ぎはあった。なぜなら柳露は幕府の隠密も兼ねていたからだ。
襖絵を描きに行くついでや、屏風絵の題材を探しに行くという口実でうろついて、世間話のついでに情報収集したり、風評を流したりと、人に警戒心を抱かせない柳露は、間諜としてなかなか優れていた。
ただし、生活能力は無きに等しい上、弟子に自身の技を教えることもない。たまに弟子入りした者がいても「好きなように描きなよ」としか言わないものだから、野心ある者はすぐに辞めた。牡丹と漣は「訳ありだから預かれ」と、幕府から押し付けられたので厳密には弟子とはいえないが、柳露は割と気に入っていた。
「探し物は見つかったかい」
自室に戻り、手慰みに絵を描いていた漣の背後から、柳露の呑気な声がかけられた。
漣は筆を置いて振り返る。さっき牡丹が言っていた、長崎屋の件で話があるのだろうか。
「いいえ……生涯かけても見つからないでしょう」
「なら、そろそろ諦めても良い頃ではないんじゃないかな」
柳露は漣の隣にしゃがみこむと、手を伸ばして和紙を持ち上げた。片方の羽がいびつに捻れた揚羽蝶が、いまにも動き出しそうな緻密さで描かれている。
「諦めるとか、諦めないとか、そういう問題ではないのです」
漣は師匠と目を合わせないようにして答えた。
「なら、どうしたいんだい?」
表情を消した柳露は、揚羽蝶の絵を元の場所に戻した。
柳露はよくこんな風に禅問答を仕掛けてくる。そして漣は、どう答えればよいか分からず困惑する。何を問われているかは分かるが、自分でもうまく説明できないからだ。
「それが分かれば良いのですが……」
伏し目がちに漣は答えた。他に言いようがないからだ。
白羅を追っても意味は無いよ、と言われているのだとは気づいている。この先生のことだ、漣が玉藻で男たちに身体を売っているのもとっくの昔にバレているに違いない。それでも漣を見放さないのは、才能ある弟子だからとかいう単純な理由ではないだろう。
しばしの沈黙の後、柳露は軽い調子で、
「まあ、絵の世界で生きるからには、仕方ないか」
「あのっ……先生にご迷惑をかけることは……」
顔を上げて訴えた漣に向かい、柳露は笑いかけた。
「それもまた弟子を取る醍醐味だからねえ」
しゃがんでいたら腰が痛くなったとぼやきつつ、立ち上がった柳露は漣を優しい眼差しで見つめ、
「でもねえ、漣。失ったものは決して取り戻せないんだよ」
きっちり釘を刺していった。
部屋の片隅に置かれた行灯の明かりがゆらめいて、小さな蛾が飛びまわっている。
柳露が去った後、漣は呆けた様子で蛾の動きを追っていた。パタパタと羽を動かして、鱗粉を飛ばしながら飛び回る蛾は、やがて行灯の内側へ入り、炎の中へ飛び込んで焼け死んだ。
(なんで火に向かって飛んでいくんだろう……)
ふとひらめいて、漣は新しい和紙を取り出した。行灯の炎に飛び込んだ蛾をすらすらと描く。蛾の羽に炎がまとわりつき、今にも燃え上がらんがばかりの構図だ。
(……蝶よりは描き易いな)
出来上がった絵の横に転がり、漣は目を閉じた。
(さっきまで描いてたのは、後で燃やそう)
今日は色々なことがありすぎて、少し疲れてしまった。
目を閉じて深く息を吐く。片羽が捻れた揚羽蝶は特別なものだ。だから誰にも見せたくないし、渡したくない。
「白羅……」
ポロリと名前がこぼれる。涙がじわりと滲んできて、忘れたくない光景が脳裏に浮かぶ。
しとしと降りしきる雨。玄関の外に広がる緑色の木々。
灰色の頭、藍鼠色の長着、足元には羽の捻れた揚羽蝶。
柳露先生。探し物なんて決まってる。
二度と戻らないことも分かってる。
屋敷が燃えた直後に白羅と逃げ込んだ小さな家には、蜜柑の木があった。そして玄関の内側や外側のあちらこちらに、小さな蛹が作られていた。
絹糸のような雨が降る朝のことだ。
脱ぎ捨てられた草履の上で、羽化したばかりの揚羽蝶が羽を広げていた。
漣は羽を乾かしているのだと気づいたが、白羅には伝えなかった。
その後、頭が痛いとぼやきながら白羅が現れ、無造作に草履を履こうとした。揚羽蝶はぱたりと地面に落ち、まだ乾ききっていない羽のうち、片方が捻れてしまった。
すると白羅は草履を履くのをやめ、その場に座りこんだ。
隣の土間で粥を作っていた漣は、黙ってその様子を眺めていた。
てっきり蝶を潰してしまうかと思いきや、白羅はパタパタと必死に羽を動かす蝶をずっと眺めていた。
遠くを見つめているような、近くを見ているような、感情があるような無いような白羅の顔に漣は魅入ってしまった。
この男はこんな表情もできるんだ、と意外だった。そして、少しだけ可哀想に思えた。なぜそう思ったのかは分からない。
白羅の髪は、わずかに残る黒毛と白髪が混ざって灰色に見えた。
玄関の外に広がる静かな緑と、灰色の影のような白羅、そして足元でグルグル動き回る揚羽蝶の黒と黄色と小さな青が、とても美しく儚い幻の世界のように思えた。
結局、一日も経たずに蝶は死んだ。
翌朝、蝶の死骸を見た白羅は「そろそろ行くぞ」と言って小さな家を出た。
漣はそれ以降、白羅が頭痛を訴える時にはそっと抱きしめ、灰色の頭や背中を撫でた。苦しそうに呻く姿が辛そうで、可哀想に思えたからだ。
漣が触れると、少しだけ苦悶の表情が和らぎ、寝息が落ち着いた。それが嬉しかった。
嬉しい気持ちを忘れないように、漣は至るところで絵を描いた。竈から溢れた灰の上や、雨で濡れた地面、時には埃にまみれた板間や土壁……。
片羽が捻れた揚羽蝶の絵を描いた。いびつで壊れた自分たちが居た証として。
でも、いつも、満足する出来にはならなかった。
白羅と漣が所属していた名も無き組織は、焔禅率いる三界外法という破戒僧の集団によって壊滅した。
江戸中に点在していた拠点が一斉に襲撃されたのだ。三界外法は事前に内通者を使って夕餉に眠り薬を盛り、夜更けに侵入して住人全員を刺殺した。
そして世間には、あれらの家々は邪教を信じていた、だから三界外法による天罰が下ったのだと伝えられた。面白おかしく書かれた瓦版が飛ぶように売れたらしい。
漣の知る限り、燃やされた屋敷は自分たちがいた所だけだった。そして、それ以降は白羅へ人斬りの依頼が来ることも無くなった。
最初に逃げ込んだ郊外の小さな家を出た後、白羅は漣を連れて江戸のあちこちを転々とした。妙に立派だが人気のない屋敷が多かった。
やがて白羅は夜中に外出するようになった。漣が眠ったのを確認してから、そっと寝所を抜け出すのだ。
漣はすぐに気づくものの、知らんぷりして二度寝していた。数刻後には白羅が戻ってきて起こされた挙句、激しく交わるからだ。
「んっ……」
氷のように冷たい手で寝間着をはだけられ、胸元をちゅうちゅう吸われて目が覚める。
「白羅?」
帰ってきた白羅からは、いつも血の臭いがしていた。だから何をやってきたのか気づいた。
こういう時、白羅の身体で温かいのは口の中と魔羅だけで、それ以外は氷のように冷たかった。だから漣は凍えた人を温めるように寄り添った。
いきり勃つ男根に手を寄せる。鈴口に指を触れ、ドピュッと出る飛沫を指に絡めて竿を握る。先走りが溢れ出て、ぬるぬると手指を濡らす。
「ウッ……」
低く嗄れた吐息が漏れると、漣は布団の中に潜り込み、ぐるりと身体を反転させた。白羅の冷たい背中や腹を温めるように触れながら、そっと股間に頭を埋める。口の中いっぱいに昂ぶる肉棒を咥えていると、濡れた冷たい指が尻孔をほぐし始めた。ほどなく漣の若茎を白羅が咥える。
「あふんっ……」
いくら尻でしか達しない漣でも、己のモノが熱い粘膜で包まれる快感には抗えず、甘い喘ぎが溢れてしまう。
温かい布団の中で、白羅と漣は陰陽の太極図のようにお互いのモノを咥え合い、唇と皮膚で熱を分かち合った。
ようやく白羅の体温が温もりを取り戻したころ、二人同時に掛け布団の両端から頭を出す。
ぷはあ、と息をつくなり視線が絡み、そこから先はいつもの通り。
血の臭いが、雄同士の愛液の匂いに紛れていく。
そのうち漣は気付いた。
組織のしがらみが無くなったというのに、なぜか白羅は焔禅を追っている。
依頼では無さそうだった。それに、夜鷹の女の存在すら覚えていない白羅の性格を鑑みれば、仲間の仇討ちでは無いだろう。
ただ、なぜ白羅が焔禅を探しているのかは、漣にとってどうでも良かった。
白羅と抱き合い、猛々しい肉と熱を胎内で感じることだけが漣のすべてだった。
だから漣は何も聞かず何も言わず、白羅についていった。
今にして思えば、幸せな日々だった。
転々と逃げ回るうちに、漣は三界外法という集団の噂をたくさん耳にした。救い主だと言って涙ぐむ者もいれば、開き直った破戒僧の集団でタチが悪いと吐き捨てた人もいた。
白羅との最後の記憶は曖昧だ。
たしか冬だったと思う。雪の中、白羅と焔禅が斬り合うのを見た気がする。
目が覚めたら柳露先生の家にいた。
そして、白羅が死んだと告げられた。
霧がいっそう濃くなった。池の水は静まり返っており、何も映し出さない。
それでも白羅は池のほとりでうつ伏せに寝転がっていた。時折チャプチャプと指を水に入れて無聊を託ちながら。
蒼谷が池のほとりに座り続けていた理由が分かる気がする。
また水鏡に漣が映るのではないかと、闇鏡で懐かしい景色が見えるのではないかと期待してしまうのだ。
だから、この場所から動けなくなる。手が届かない生者の世と、二度と戻らない美しい過去は、麻薬のように白羅を苛む。
「……なんの絵を描いてんだよ、漣……」
水面に向かって声をかける。当たり前だが返事はない。
いつの頃からか、漣が蝶の絵をよく描くようになった。
上手いなと思ったが、言葉には出さなかった。自分は何かを壊すことしかできないから、漣が絵を描くのを止めてしまうような気がしたからだ
蝶の絵を描いている時の漣は、特に綺麗だった。
見ているうちに勃ってくることもあった。そういうときは問答無用で押し倒した。
漣の白い肌を沢山吸い上げて鬱血させて、自分も絵を描こうと思ったが、うまくいかなかった。
オレなりの絵は出来なかったが、漣は気持ち良さそうに喘いでいた。
それから漣の身体を舐め回して吸い跡をつけるようになった。
屋敷から出て、漣と二人でうろうろしていた頃だ。
白い肌に浮かぶ尖った乳首の先端が、何かに似てると思った。
ペロペロと舐めるうちに、自分の足元でグルグル回り、なんとか羽を動かそうともがいて死んだ蝶の眼に似てるのだと気づいた。
淡紅色や蘇芳色のまだらになった乳輪が、蝶の羽になるような気がした。だから、舐めたり噛んだりしゃぶったりして赤黒い痣ができた時、これがオレの描いた蝶だと思った。
漣の身体にたくさん噛み跡や吸い跡を残して、オレなりに蝶の絵を描いた。
頭が痛くなる。
『壊セ。捧ゲロ』
また、あの声が聞こえる。
昔もしょっちゅう痛くなった。頭が痛い時の人斬りは特に残虐だと言われた。
漣と一緒にいるようになってから、いつの頃からだろう。
頭痛が酷くて動けない時、背中を触ってくれるようになった。
漣の手のぬくもりを感じて、なんともいえない気分になった。
どうすれば良いか分からなかったので、眠ったふりでごまかした。
雨の日によく頭が痛んだ。
あまりの痛みに目を閉じると、闇の中から声が響く。
『喰ワセロ。捧ゲロ。寄越セ。モット、モットダ……』
誰の声かは分からない。
オレの声のような気もするし、別なヤツの声にも思える。
「白羅……大丈夫?」
漣の声が耳に入る。
背中に漣の温もりを感じる。
適当な小屋で雨宿りしながら、漣を抱えて眠ることもあった。そういう時の漣はおとなしくしてた。
漣を抱きしめて眠ると、声が消え、痛みが止んだ。
霧が暗くなった。まるで闇夜の中にいるようだ。
ふかふかの霧の地面に寝転がった白羅は、虚ろな目つきで池を眺める。
「………………れん……」
頭が痛い。
漣に触れたい。
板塀と生け垣に囲まれており、座敷が四つと、こじんまりした玄関、そこそこ立派な台所がある家で、通いの使用人が一人いた。
住み込みの弟子は二人。元・飯盛女の牡丹と漣だけだ。
周りの人々から昼行灯と呼ばれている柳露は、うだつの上がらない風采の五十男だが、大奥に屏風を納めたり、大老の家で襖絵を描いたこともあるほどの、非常に腕の良い絵師である。
ただし、仕事の依頼は少ない。納期を守らないからだ。のらりくらりと一年先、二年先まで先延ばしするのは当たり前で、下手すると十年くらい後に納品する。
ならばカネに困りそうなものだが、辛うじて糊口を凌ぐだけの稼ぎはあった。なぜなら柳露は幕府の隠密も兼ねていたからだ。
襖絵を描きに行くついでや、屏風絵の題材を探しに行くという口実でうろついて、世間話のついでに情報収集したり、風評を流したりと、人に警戒心を抱かせない柳露は、間諜としてなかなか優れていた。
ただし、生活能力は無きに等しい上、弟子に自身の技を教えることもない。たまに弟子入りした者がいても「好きなように描きなよ」としか言わないものだから、野心ある者はすぐに辞めた。牡丹と漣は「訳ありだから預かれ」と、幕府から押し付けられたので厳密には弟子とはいえないが、柳露は割と気に入っていた。
「探し物は見つかったかい」
自室に戻り、手慰みに絵を描いていた漣の背後から、柳露の呑気な声がかけられた。
漣は筆を置いて振り返る。さっき牡丹が言っていた、長崎屋の件で話があるのだろうか。
「いいえ……生涯かけても見つからないでしょう」
「なら、そろそろ諦めても良い頃ではないんじゃないかな」
柳露は漣の隣にしゃがみこむと、手を伸ばして和紙を持ち上げた。片方の羽がいびつに捻れた揚羽蝶が、いまにも動き出しそうな緻密さで描かれている。
「諦めるとか、諦めないとか、そういう問題ではないのです」
漣は師匠と目を合わせないようにして答えた。
「なら、どうしたいんだい?」
表情を消した柳露は、揚羽蝶の絵を元の場所に戻した。
柳露はよくこんな風に禅問答を仕掛けてくる。そして漣は、どう答えればよいか分からず困惑する。何を問われているかは分かるが、自分でもうまく説明できないからだ。
「それが分かれば良いのですが……」
伏し目がちに漣は答えた。他に言いようがないからだ。
白羅を追っても意味は無いよ、と言われているのだとは気づいている。この先生のことだ、漣が玉藻で男たちに身体を売っているのもとっくの昔にバレているに違いない。それでも漣を見放さないのは、才能ある弟子だからとかいう単純な理由ではないだろう。
しばしの沈黙の後、柳露は軽い調子で、
「まあ、絵の世界で生きるからには、仕方ないか」
「あのっ……先生にご迷惑をかけることは……」
顔を上げて訴えた漣に向かい、柳露は笑いかけた。
「それもまた弟子を取る醍醐味だからねえ」
しゃがんでいたら腰が痛くなったとぼやきつつ、立ち上がった柳露は漣を優しい眼差しで見つめ、
「でもねえ、漣。失ったものは決して取り戻せないんだよ」
きっちり釘を刺していった。
部屋の片隅に置かれた行灯の明かりがゆらめいて、小さな蛾が飛びまわっている。
柳露が去った後、漣は呆けた様子で蛾の動きを追っていた。パタパタと羽を動かして、鱗粉を飛ばしながら飛び回る蛾は、やがて行灯の内側へ入り、炎の中へ飛び込んで焼け死んだ。
(なんで火に向かって飛んでいくんだろう……)
ふとひらめいて、漣は新しい和紙を取り出した。行灯の炎に飛び込んだ蛾をすらすらと描く。蛾の羽に炎がまとわりつき、今にも燃え上がらんがばかりの構図だ。
(……蝶よりは描き易いな)
出来上がった絵の横に転がり、漣は目を閉じた。
(さっきまで描いてたのは、後で燃やそう)
今日は色々なことがありすぎて、少し疲れてしまった。
目を閉じて深く息を吐く。片羽が捻れた揚羽蝶は特別なものだ。だから誰にも見せたくないし、渡したくない。
「白羅……」
ポロリと名前がこぼれる。涙がじわりと滲んできて、忘れたくない光景が脳裏に浮かぶ。
しとしと降りしきる雨。玄関の外に広がる緑色の木々。
灰色の頭、藍鼠色の長着、足元には羽の捻れた揚羽蝶。
柳露先生。探し物なんて決まってる。
二度と戻らないことも分かってる。
屋敷が燃えた直後に白羅と逃げ込んだ小さな家には、蜜柑の木があった。そして玄関の内側や外側のあちらこちらに、小さな蛹が作られていた。
絹糸のような雨が降る朝のことだ。
脱ぎ捨てられた草履の上で、羽化したばかりの揚羽蝶が羽を広げていた。
漣は羽を乾かしているのだと気づいたが、白羅には伝えなかった。
その後、頭が痛いとぼやきながら白羅が現れ、無造作に草履を履こうとした。揚羽蝶はぱたりと地面に落ち、まだ乾ききっていない羽のうち、片方が捻れてしまった。
すると白羅は草履を履くのをやめ、その場に座りこんだ。
隣の土間で粥を作っていた漣は、黙ってその様子を眺めていた。
てっきり蝶を潰してしまうかと思いきや、白羅はパタパタと必死に羽を動かす蝶をずっと眺めていた。
遠くを見つめているような、近くを見ているような、感情があるような無いような白羅の顔に漣は魅入ってしまった。
この男はこんな表情もできるんだ、と意外だった。そして、少しだけ可哀想に思えた。なぜそう思ったのかは分からない。
白羅の髪は、わずかに残る黒毛と白髪が混ざって灰色に見えた。
玄関の外に広がる静かな緑と、灰色の影のような白羅、そして足元でグルグル動き回る揚羽蝶の黒と黄色と小さな青が、とても美しく儚い幻の世界のように思えた。
結局、一日も経たずに蝶は死んだ。
翌朝、蝶の死骸を見た白羅は「そろそろ行くぞ」と言って小さな家を出た。
漣はそれ以降、白羅が頭痛を訴える時にはそっと抱きしめ、灰色の頭や背中を撫でた。苦しそうに呻く姿が辛そうで、可哀想に思えたからだ。
漣が触れると、少しだけ苦悶の表情が和らぎ、寝息が落ち着いた。それが嬉しかった。
嬉しい気持ちを忘れないように、漣は至るところで絵を描いた。竈から溢れた灰の上や、雨で濡れた地面、時には埃にまみれた板間や土壁……。
片羽が捻れた揚羽蝶の絵を描いた。いびつで壊れた自分たちが居た証として。
でも、いつも、満足する出来にはならなかった。
白羅と漣が所属していた名も無き組織は、焔禅率いる三界外法という破戒僧の集団によって壊滅した。
江戸中に点在していた拠点が一斉に襲撃されたのだ。三界外法は事前に内通者を使って夕餉に眠り薬を盛り、夜更けに侵入して住人全員を刺殺した。
そして世間には、あれらの家々は邪教を信じていた、だから三界外法による天罰が下ったのだと伝えられた。面白おかしく書かれた瓦版が飛ぶように売れたらしい。
漣の知る限り、燃やされた屋敷は自分たちがいた所だけだった。そして、それ以降は白羅へ人斬りの依頼が来ることも無くなった。
最初に逃げ込んだ郊外の小さな家を出た後、白羅は漣を連れて江戸のあちこちを転々とした。妙に立派だが人気のない屋敷が多かった。
やがて白羅は夜中に外出するようになった。漣が眠ったのを確認してから、そっと寝所を抜け出すのだ。
漣はすぐに気づくものの、知らんぷりして二度寝していた。数刻後には白羅が戻ってきて起こされた挙句、激しく交わるからだ。
「んっ……」
氷のように冷たい手で寝間着をはだけられ、胸元をちゅうちゅう吸われて目が覚める。
「白羅?」
帰ってきた白羅からは、いつも血の臭いがしていた。だから何をやってきたのか気づいた。
こういう時、白羅の身体で温かいのは口の中と魔羅だけで、それ以外は氷のように冷たかった。だから漣は凍えた人を温めるように寄り添った。
いきり勃つ男根に手を寄せる。鈴口に指を触れ、ドピュッと出る飛沫を指に絡めて竿を握る。先走りが溢れ出て、ぬるぬると手指を濡らす。
「ウッ……」
低く嗄れた吐息が漏れると、漣は布団の中に潜り込み、ぐるりと身体を反転させた。白羅の冷たい背中や腹を温めるように触れながら、そっと股間に頭を埋める。口の中いっぱいに昂ぶる肉棒を咥えていると、濡れた冷たい指が尻孔をほぐし始めた。ほどなく漣の若茎を白羅が咥える。
「あふんっ……」
いくら尻でしか達しない漣でも、己のモノが熱い粘膜で包まれる快感には抗えず、甘い喘ぎが溢れてしまう。
温かい布団の中で、白羅と漣は陰陽の太極図のようにお互いのモノを咥え合い、唇と皮膚で熱を分かち合った。
ようやく白羅の体温が温もりを取り戻したころ、二人同時に掛け布団の両端から頭を出す。
ぷはあ、と息をつくなり視線が絡み、そこから先はいつもの通り。
血の臭いが、雄同士の愛液の匂いに紛れていく。
そのうち漣は気付いた。
組織のしがらみが無くなったというのに、なぜか白羅は焔禅を追っている。
依頼では無さそうだった。それに、夜鷹の女の存在すら覚えていない白羅の性格を鑑みれば、仲間の仇討ちでは無いだろう。
ただ、なぜ白羅が焔禅を探しているのかは、漣にとってどうでも良かった。
白羅と抱き合い、猛々しい肉と熱を胎内で感じることだけが漣のすべてだった。
だから漣は何も聞かず何も言わず、白羅についていった。
今にして思えば、幸せな日々だった。
転々と逃げ回るうちに、漣は三界外法という集団の噂をたくさん耳にした。救い主だと言って涙ぐむ者もいれば、開き直った破戒僧の集団でタチが悪いと吐き捨てた人もいた。
白羅との最後の記憶は曖昧だ。
たしか冬だったと思う。雪の中、白羅と焔禅が斬り合うのを見た気がする。
目が覚めたら柳露先生の家にいた。
そして、白羅が死んだと告げられた。
霧がいっそう濃くなった。池の水は静まり返っており、何も映し出さない。
それでも白羅は池のほとりでうつ伏せに寝転がっていた。時折チャプチャプと指を水に入れて無聊を託ちながら。
蒼谷が池のほとりに座り続けていた理由が分かる気がする。
また水鏡に漣が映るのではないかと、闇鏡で懐かしい景色が見えるのではないかと期待してしまうのだ。
だから、この場所から動けなくなる。手が届かない生者の世と、二度と戻らない美しい過去は、麻薬のように白羅を苛む。
「……なんの絵を描いてんだよ、漣……」
水面に向かって声をかける。当たり前だが返事はない。
いつの頃からか、漣が蝶の絵をよく描くようになった。
上手いなと思ったが、言葉には出さなかった。自分は何かを壊すことしかできないから、漣が絵を描くのを止めてしまうような気がしたからだ
蝶の絵を描いている時の漣は、特に綺麗だった。
見ているうちに勃ってくることもあった。そういうときは問答無用で押し倒した。
漣の白い肌を沢山吸い上げて鬱血させて、自分も絵を描こうと思ったが、うまくいかなかった。
オレなりの絵は出来なかったが、漣は気持ち良さそうに喘いでいた。
それから漣の身体を舐め回して吸い跡をつけるようになった。
屋敷から出て、漣と二人でうろうろしていた頃だ。
白い肌に浮かぶ尖った乳首の先端が、何かに似てると思った。
ペロペロと舐めるうちに、自分の足元でグルグル回り、なんとか羽を動かそうともがいて死んだ蝶の眼に似てるのだと気づいた。
淡紅色や蘇芳色のまだらになった乳輪が、蝶の羽になるような気がした。だから、舐めたり噛んだりしゃぶったりして赤黒い痣ができた時、これがオレの描いた蝶だと思った。
漣の身体にたくさん噛み跡や吸い跡を残して、オレなりに蝶の絵を描いた。
頭が痛くなる。
『壊セ。捧ゲロ』
また、あの声が聞こえる。
昔もしょっちゅう痛くなった。頭が痛い時の人斬りは特に残虐だと言われた。
漣と一緒にいるようになってから、いつの頃からだろう。
頭痛が酷くて動けない時、背中を触ってくれるようになった。
漣の手のぬくもりを感じて、なんともいえない気分になった。
どうすれば良いか分からなかったので、眠ったふりでごまかした。
雨の日によく頭が痛んだ。
あまりの痛みに目を閉じると、闇の中から声が響く。
『喰ワセロ。捧ゲロ。寄越セ。モット、モットダ……』
誰の声かは分からない。
オレの声のような気もするし、別なヤツの声にも思える。
「白羅……大丈夫?」
漣の声が耳に入る。
背中に漣の温もりを感じる。
適当な小屋で雨宿りしながら、漣を抱えて眠ることもあった。そういう時の漣はおとなしくしてた。
漣を抱きしめて眠ると、声が消え、痛みが止んだ。
霧が暗くなった。まるで闇夜の中にいるようだ。
ふかふかの霧の地面に寝転がった白羅は、虚ろな目つきで池を眺める。
「………………れん……」
頭が痛い。
漣に触れたい。
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