【完結】涅槃の霧、因果の池

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第十五話 慎太郎

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 御用絵師・柳露りゅうろの弟子である牡丹ぼたんは、かつて岡場所の飯盛女めしもりおんなだった。

 美人でも不細工でもない容姿を持つ牡丹は、一見すると賢そうに見えないが、ほがらかで聞き上手な性質から、寝所で客から色々な話をされた。

 参勤交代で藩へ戻る足軽の愚痴や、行商中の商人が語る大奥の噂話、実入りの良い仕事があると言われて江戸に来たら汚れ仕事だったと嘆く町民……皆、一夜限りの寝物語として、溜まった精と共に心の澱を牡丹へ吐き出していく。自分が何を語ったかすら覚えていない者がほとんどだ。

 ところが牡丹は異様に記憶力が良く、人の顔や話した内容を完全に覚えていた。

 そのことに公儀こうぎの者が気付いたのは偶然である。捕物とりものの一環で、あまり当てにならないと思いながら牡丹を尋問した時だ。

 当時二十歳を過ぎたばかりの牡丹は少し斜め上を向いて考え込んだ後、いつどこで誰が何を話したかをすらすら語った。取り調べた者は、その時はデタラメだろうと思って受け流したが、念のために裏を取ったら事実だと判明した。

 それから色々な経緯の末に、牡丹は間者としてあちこちの宿場町や大名屋敷へ潜り込まされた。

 相応に役に立つ女だと評価されたものの、最終的には白羅はくらたちの組織や三界外法さんがいげほうの情報を知りすぎてしまい、公儀にとって殺すには惜しいが生かしておくのも厄介な存在と化した。そこで、柳露の元へ弟子兼下女として送られたのである。



「すみません、こちらは柳露先生のお宅でしょうか」

 品の良い若侍に声をかけられ、玄関先で掃除をしていた牡丹は箒を動かす手を止めた。なんとなく誰かに似ているような気がしたが、微妙に違う。この顔は見たことが無い。

「どなたでしょうか?」

 ツンと取り澄ました声で応対する。

 これでも牡丹は柳露を守る役割を担っている。公儀の間諜としての重要性で言えば柳露の方が上なのだ。暗殺者を送られたらたまったもんじゃない。

「あ、私は鏑木かぶらぎ慎太郎しんたろうと申します。実は、人を探しておりまして……」

 慎太郎は柔和な笑みを浮かべて言葉を続けようとしたものの、牡丹の眼差しが鋭くなったのに気付いて口籠った。

「どのようなご用件でこちらに?」

 牡丹は目の前の男を睨みつけた。探し人というのは自分ではないだろう。すると、柳露先生か漣だ。こんな若造が絵の依頼をするわけがない。先生が裏でやってる仕事は公儀を通して依頼が来るし……漣だとすると、三界外法の関係者?!

 胡散臭く見られていることに気付いたのか、慎太郎は慌てたように、

「ええと、その……先日私が気を失って倒れたところを介抱して下さった方が、こちらにお住まいだと伺ったものですから」
「倒れた? お武家様が?」

 思わず牡丹は目をむいて声を荒らげてしまった。気を失った? こんなに立派な体格をしているのに?

 ところが慎太郎はしょんぼりと眉を下げて俯き、

「はあ、実は、私は血が苦手でして……。腕を斬りつけられて少し袖が切れたのですが、その時にうっすらと血が滲んで……その、あの……驚いてしまって……」

 もじもじと指を動かしながら、情けなさそうに説明する姿を前に、牡丹はその話が嘘ではないと直感した。

「ぷっ……はははっ。お武家様、女じゃなくて良かったねえ」
「え?」
「女だったら、毎月お股を見るたびに倒れてしまうでしょ?」
「……はい? ええと……あっ!」
「あはははっ!」

 牡丹は目の前の男が無害だと判断した。こういう時、自分の直感は正しい。

「それで? 誰からこの家のことを聞いたんですか?」

 態度を軟化させた牡丹に安堵したのか、慎太郎は説明した。倒れた後、出合茶屋の二階で介抱された。店の主に尋ねると、部屋を借りている絵師が連れてきたと説明し、店内に飾られている絵を見せてくれた。

「部屋を借りる際に、絵師であることを証明しろと店主が言ったら、その場で描いたものだそうです……まるで生きているかのような蜻蛉とんぼの絵でした」

 牡丹は話を聞きながら、漣が出合茶屋を借りていることを初めて知った。まったく、あの子ってば! たまにふらっと外出して帰ってこないと思ったら……あとできっちり話を聞かせてもらわなきゃいけないねえ!

 慎太郎は鈍い性質なのか、牡丹の顔つきが変わったのも気づかず語り続ける。

「その時、前に茶会で拝見した掛け軸と同じ方の作品だと気づいたのです。茶の湯の先生にお伺いしたところ、柳露先生の弟子だと教えて頂きまして……」

 ひとこと御礼を申し上げたく参った次第です、と固い口調で話を終えた。

 その時。

「牡丹さん。緑青ろくしょうが切れているから買ってきてって先生が……」

 玄関で立ち話をする二人の前に、漣が現れた。

「あっ!」
「?」

 漣の顔を見た慎太郎はすぐに気付いて頬を染めたが、漣は誰だコレ? という表情をしている。

 牡丹はすかさず声を上げた。

「漣、このお武家様と一緒に買いに行ってきてよ」

 こういう時は、間に誰も入らない方が良い。それもまた牡丹の直感だった。





 気まずい……。

 慎太郎は後悔した。先に御礼状でも出しておけば良かったのだ。茶の湯の先生から居場所を聞いて、嬉しさのあまりそのまま来てしまったのは失敗だった。

 隣を歩く漣が冷たい。

 さすがに拒絶されている訳ではないが、ピリピリとした空気が漂い、二人の間に高い壁がそびえ立っているような気がする。

「……こっち」
「あ、はい」

 さっきからずっとこんな状況が続いていた。無愛想に道を示す漣の後を、ただついていくだけ。まあ、確かにそれは当然だろう。

 己の藩であれば、ふだんから城下町の領民と交流していることもあり、気軽に話ができるのだが、ここは江戸である。面識が無いも同然の武家がいきなり町人の家に押しかけたら、誰だって警戒する。

 慎太郎は、せめて自分が不審な人間ではないことを証明しようと考えた。

「あ、あの、そうだ、漣さん! 先日のお礼に食事でも……」
「……いらない」
「いや、でも、助けて頂いたのに何もしないというのは心苦しく……」
「……さっき礼を言われた」
「それでは私の面目が立ちません。せめて帰りに茶屋で甘酒など……」
「……急いでるから」

 漣の塩対応が続いている。

 さすがに、身分が下の町人にここまで剣呑な対応をされれば、いくら領民に“ご家老様の呑気な坊っちゃん”と呼ばれている慎太郎でも、いったんは身を引く。

 だが、しかし。

「……顔が赤いけど、熱でもある?」
「え、あ、いや、平気です!」

 訝しげに眉をひそめる漣から目が離せない。なんともいえない色気に圧倒されて立ち去れないのだ。自分はいままで衆道しゅどうに興味を持ったことなど無かったというのに!



「おや、漣じゃないか。ひさしぶりだね……誰だい、そちらのお武家様は?」

 老舗の絵具屋えのぐやの主が、店の前で所在なさげに佇む若侍に視線を送ったものの。

「……さあ? それより、緑青を下さい」

 そっけない漣の答えが返ってきた。その後ろでは若侍が「ええっ!」と悲しそうな顔をしている。

 絵具屋の主は心の内で溜息をつきつつも、顔には出さず棚から緑青を取り出した。

「漣、あまり冷たい態度を取ってはいけないよ」

 いくら江戸が平和だとしても、士農工商の身分制度はあるのだからね……。絵具を渡す際に耳打ちしたところ、漣は露骨に顔をしかめた。

「……別に、冷たくしている訳ではありません」
「そうかい? なら良いんだけどね」
「……じゃあ、失礼します」

 絵具の包みを手にした漣が、流麗な身のこなしで立ち上がり、軽く一礼して店を出た。若侍が慌てた様子で漣の隣に歩みよる。何か言葉を交わしたようだが、つっけんどんな漣の対応に若侍が戸惑っているのがよく分かる。近くを通った人も不思議そうに眺めていた。

「珍しいこともあるもんだなあ」

 店を去る二人の後ろ姿を眺めつつ、絵具屋の店主は独りごちた。

 柳露先生の使いで漣が店に来るようになって随分経つが、今日のように感情を露わにしたのは初めてだ。あの若侍とどういう関係か知らないが、まだ若いのに世を儚み、何もかもすべてを倦んでしまった漣に何かしら良い影響があるなら、それに越したことはない。

「せっかくの才能を、無駄にしてはいけないよ。漣」

 絵具屋の奥に飾られた色紙を眺めつつ、店主はぽつりと呟く。

 色紙には、屋号の由来となった蝸牛かたつむりの絵が描かれている。雨上がりの虹と、大きな葉の上で空を見上げる蝸牛がまるで生きているかのように見える絵だ。この色紙もまた、漣が柳露の使いとして来店した際に、店主が戯言を言ったらその場で描いてくれたものだった。



 気まずい…………。

 慎太郎は再び後悔していた。門外漢の自分を連れてきたせいで、絵具屋が微妙な顔をしていたからだ。もしかしたら、漣と店主との間で専門的な話をしたかったのかもしれない。

 隣を歩く漣の機嫌が悪い。やはり自分は邪魔をしてしまったのだろう。ああ、今日は厄日なのか。

「あの、漣さん」
「……何?」
「急に押しかけて、無理矢理ついてきてしまって……その、申し訳ありませんでした」

 まずは謝罪しておこう。慎太郎はそう思って口を開いた。

 ところが。

「……なに謝ってんの」

 漣の顔つきが怖い。いっそう機嫌が悪くなっている。

「いや、だって、私が一緒に来たせいで、あの店に長居できなかったのでは……」
「……元から長居はしない」
「え? そうなんですか?」
「……先生の用事を済ませたら帰るだけだし」

 プイッと顔をそむけた漣の頬が少し赤い気がする。

 これは、もしかしたら、それほど嫌われていないかもしれない!

 平和が続いた江戸時代の、そこそこ豊かな領地の家老を父に持つ慎太郎は、おおらかな性格と妙に前向きな考えを持つ若者だった。

「あの、実はですね。私はつい最近江戸へ来たものですから、まだ道が分からなくて……」

 命の恩人にお礼を言うのが目的だったはずなのに、気づけば慎太郎は身の上話を始めていた。この度の参勤交代に同行して江戸へ来たばかりで暇を持て余していること。領地では厳格で名の通った家老の息子なので、一緒に来た同僚からも少し距離を置かれていること……。

「私は血を見るのが怖くて、剣術も苦手なものですから、なおのこと何をしたら良いか分からなくて……」

 隣を歩く漣が黙って聞き続けてくれるせいか、江戸屋敷では決して口にできない悩みまで声に出してしまう。

「……ふふっ」

 可笑しそうに吹き出した漣の声に、慎太郎はガバッと隣を見た。口元に手をかざして、漣がクスクス笑っている。その愛らしさ、美しさに、慎太郎は目が離せなくなった。

「お武家様は、おれの知り合いとは正反対だね」

 慎太郎の視線に気づいた漣が、笑うのを止めて言葉を返す。

「どのような方ですか?」

 士分しぶんに知人がいるのだろうか? なんとなく気になって慎太郎は尋ねた。すると漣は少し俯いて、

「とっくの昔に死んだ」
 
 ぶっきらぼうに告げた後、くるりと振り向いて慎太郎の瞳を見つめる。

「あんたみたいな良い家の人は、おれに関わらない方がいいよ」

 じゃあここで、と告げた漣は、慎太郎が住まう江戸屋敷の前で踵を返した。

 どこか悲しげに微笑む姿に見惚れた慎太郎は、屋敷の門前でしばらくの間ぼうっとした顔で立ちすくみ、たまたま出てきた同僚に驚かれてしまった。





 夜床についたばかりの柳露は、襖の奥に人の気配を感じた。

「せんせえ、お話があります」

 牡丹である。

「そろそろ来る頃かと思ってたよ」

 入りなさいと許可を出す前に、牡丹はするすると襖を開け、膝立ちのまま柳露の元へずりずりと詰め寄った。

「もう、そっちじゃありません」

 ぷうっと頬を膨らませて、牡丹は可愛らしく文句を言う。

 柳露はごく自然な動きで牡丹の夜着を脱がせながら、小首を傾げた。

「しないの?」
「しますけど」

 むうっとした怒り顔の牡丹を宥めるように、柳露の細長い指がぷっくり膨らんだ乳首を摘む。

「……だからぁ、今日お武家様が来なければ、あたしは漣が出合茶屋を借りてるなんて知らなくてぇっ……んっ……」
「うん。それで?」

 柳露は唇を牡丹の項から鎖骨にかけて這わせつつ、両手でたわわな乳房を揉みしだいている。

「あんっ、もう、せんせえ……先生はぁっ、漣が出かけた後にぃ……なにしてぅかぁ……しっ……しんぱい、しないんですかぁっ?」

 敏感な乳首を弄られて感じてしまった牡丹は、喘ぎながらも柳露を問い詰める。確かにしたかったのは事実だけど、その前にちゃんと漣のことを相談したかったのに!

「まあ、芸術家ってのはそういうものだからねえ」

 柳露は呑気な声で、知っているよと言外に告げた後、両手で牡丹の乳房をグイッと押し寄せ、ぴんと張った二つの乳首をじっと観察してから両方いっぺんに吸い付いた。着痩せして見えるが牡丹は意外とふくよかだ。だからついつい柔らかさを堪能してしまうし、乳で遊んでしまう。

「んん……せんせえってば、知ってるんなら……教えてくれてもいいじゃ、ないですかっ……」

 牡丹の喘ぎに柳露は答えず、乳房をねぶっていた右手を下に伸ばした。

「牡丹は芸術家じゃなくてよかったねえ」
「もう、先生はそうやっていつでものらりくらりと躱すんだから……ああんっ……」

 すっかり濡れた秘部に指を入れられ抜き差しされたせいで、牡丹の身体も火照ってきた。こうなってくるともう我慢できない。もっと欲しいとばかりに腰が動いてしまう。

「寝所ではそうでもないつもりだけどね」

 そう呟いた柳露が、引き抜いた指をぺろりと舐めたところ、額に汗を浮かべた牡丹は、早くしてと言わんがばかりに股を開いて脚を絡めた。



 衣擦れの音、欲の灯った喘ぎ声。

 厠へ行った帰り、男女の交わりの気配が廊下まで漏れているので漣は苦笑した。

(おれと白羅を覗きに来た連中も、こんな感じだったのかな)

 控えめな嬌声は牡丹らしいと思う。誰かに聞かれたら困ると思いつつも、溢れる喘ぎを止められないという風情だ。なるほど、こんな風に恥じらいを見せられたら、行きずりの飯盛女との一夜でも、妻へ話すようについうっかり色々と語る男が多かったろう。

 そっと自室に戻った漣は、薄い布団に潜り込んだ。

 身体の奥で淫欲が疼く。

 柳露と牡丹の睦み合いが理由ではない。そんなのは割としょっちゅうなので、漣にとっては日常でしかない。

(鏑木……慎太郎……って名だったよな……)

 どこか白羅に似ている若侍。

 いや、どこか似てるなんてものじゃなかった。
 面立ちも、声も、身体つきまでそっくりだった。
 違うのは、顔の傷と性格くらい。

(あれは別人だ、白羅じゃない)

 そう自分に言い聞かせても、我慢できない。漣はもそもそと動いて布団から出ると、部屋の片隅に置かれた柳行李やなぎごうりから小さなこけしを取り出した。

 枕元に置いてある有明行灯ありあけあんどんの覆いを開ける。

 右手の指先で火皿から菜種油をすくって、そのまま手を後ろに回す。後孔を油で濡らしながら、襞をほぐすように動かしかけたところで、漣は手を止めた。

 駄目だ、こんなことしちゃいけない。
 ここは茶屋じゃない。

 それでも、でも……。

 牡丹さんと先生だってやってるんだし……。
 今なら声が漏れても誰も気にしないし……。

 襞をほぐした尻穴に人差し指と中指を入れ、いいところを探してグリグリと動かす。

「…………んっ……」

 ヌルヌルと滑る指の動きが止まらない。

「……ああっ」

 いいところに、熱くて固い刺激が欲しい。

(ここで、こんなことしたら駄目なのに……)

 左手に持っていた小さなこけしの頭を秘孔へ押し当て、じわじわと襞を開きながらナカへ入れる。

「んはあっ……」

 グリッと動かし、刺激を得る。

(駄目、駄目だってば……)

 ぎゅっと瞑った瞼の裏に映るのは、出会ったばかりの慎太郎の顔。

「ぁうんっ……」

 声を出さないようにして、漣は自慰を続ける。

 達した後、涙が止まらなかった。
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