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最終章 神殺し
四話 死にやがれっ、ですッッッ!!!
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ティーガンと分断されたウィオリナは、懐にあるものを仕舞った後、目の前の存在、ベルフェゴールを強く睨む。まるで何かを覚えるように。
「はぁ、面倒だ……」
覇気のない声。気怠げに溜息を吐き、瞼は今にも眠ってしまいそうなほど細められている。
全くもって緊張感がないベルフェゴールはウィオリナをチラリと見やった後、あくびを噛み殺しながら、呟く。
「さっさと終わらそ」
その瞬間、
「ッ!!??」
ベルフェゴールはどこかへと消え、酷く哀しい水色の光が迸ったかと思うと、隔離されたその空間に書き換えられた。
そこはどこまでも落ちて堕ちる空間。
下は深淵に繋がっているかのように深い闇。深く深くウィオリナは重力に従ってその深い闇の下へ落ちていく。
しかし、空は常に白く輝いている。
すでに百メートル以上落ちているのに、ウィオリナが落ちた先からその深い闇が白く輝きだすのだ。
故にウィオリナは自分は堕ちていないのではないかと錯覚しそうになる。
けれど落下時特有の浮遊感がウィオリナを包んでいるし、何よりもウィオリナの感覚が叫ぶ。
この空間は危ないと。
その証拠に、
「ぁ……ッッ!!!」
ウィオリナの気力が一瞬で失われその意識が闇の底へ消えそうになった。絶大な眠気がウィオリナを襲っているのだ。
ウィオリナは自身の舌を強く噛むと同時に、血法により痛覚をわざと増大させて眠気を打ち消した。
けれどそれだけでは終わらない。
「体がッ!?」
体力や筋力、覇気。体を動かすのに必要なそれらが徐々に失われていくのが感じられる。
しかも、手足の先端が冷たくなったかと思うと、そこがパキパキと石化しているのだ。
また、血力や祈力といった力や、戦うための才能や経験すらもが失われていく。身も心も何もかもが空虚へとなっていく。
どうにか全身に血力を高速に巡らせ、それらのデバフとナーフに抵抗するが、状況を打開する糸口すら見えない状態。
「グッ、今度は重くッ!!」
次にウィオリナの落下速度が変わった。速く、速く。それこそ通常の重力加速度では考えられないほどの加速する。
すでに落下速度は音速を優に超えており、それによる衝撃波がウィオリナを襲う。心なしか、身体の表面が熱い。
摩擦が大きすぎるのか。
そして、
『もう良いだろ。諦めようぜ。苦しいだけだろ』
「ぅ」
堕落へ誘う声音が魂魄に囁かれる。
その声には魔性が宿っており、聞いているだけで心の嫌な部分を想起させ、そこから逃避するように追い立てられる。
(ああ、もう良いです……。もう何もかもが嫌です……。辛い。なんで、わたしがこんな悩まなければならないんです……。なんでわたしだけが……。いっそ、こんな心のなんて。皆、どうでもよくなれば――)
何もかもがどうでも良くなってくる。ウィオリナが無気力に包まれていく。
だが、
(ッ、何をッ! 何を考えているんですッッ!!)
ウィオリナは必死に抵抗する。
歯を食いしばり、、その声がから耳を塞ぐ。聞かなければ問題ない。こんな精神攻撃、無視しろ。
そう心を叱咤しウィオリナは、耐え忍ぶ。
………………………………
……………………
…………
「見つけたですッッッ!!!」
そして耐え忍んだ。
カッと陽色に輝く瞳を輝かせたウィオリナは、<天血獣>を纏い、超強化された身体能力で空気を蹴る。
重力に逆らい空中を駆けたウィオリナは、血のシスターワンピースから無数の血糸を放出すると、自身を血の繭で包み込む。
その血の繭から淡い陽色の血力が立ち上り、陽炎の如く周囲が揺らめいた瞬間、
「そこですッ!」
「なっ!?」
血の繭が一瞬で解け、その中から血のヴァイオリンと血の弓を携えたウィオリナが飛び出す。そのままいつの間にか目の前にいたベルフェゴールへ向かって<血糸妖斬>を放った。
ベルフェゴールは驚愕に表情を歪めるが、軽く手を横に振って衝撃波を放ち、<血糸妖斬>を防いだ。後ろへと飛び、ウィオリナから距離をとる。
ウィオリナはベルフェゴールと対峙した瞬間に<天血識>で、ベルフェゴールの魂魄と生命の気配等々などを全て覚えたのだ。
どこに逃げようと隠れようと、絶対に見失わないために。
空間が書き換えられ、また精神攻撃などで<天血識>だけに意識を割けなかったが、それでもウィオリナはベルフェゴールを見つけたのだ。
そしてベルフェゴールがいたその場所は、ウィオリナがいた空間の対となる空間。いわば裏空間ともいうべきか。
隣り合わせにありながら、元からその空間を知らない限り、決して意識することのできない空間。
ウィオリナは直樹のように自由自在に空間移動はできないし、ティーガンのように特殊な異空間を保持しているわけでもない。
だが、自身の体を、血を変質させることはできる。改造できる。
裏空間は今いる空間ととても近い場所にある。天文学的な確率が重なれば、普通の人間だってその裏空間へ迷い込むこともある。
例えば、鏡によって裏空間を知覚し、それと同時にその人間の周囲の空間が不安定になれば、裏空間へと行ける。神隠しもそういうものだ。
つまるところ、裏空間を知覚し、空間的に不安定な存在になれば、裏空間へ移動することは可能なのだ。
吸血鬼が使用する血界もそれと似たような性質を持っているため、ウィオリナは以前ティーガンからその話を聞いていたのだ。
だから、ウィオリナは自身を包み込む血の繭を空間的に不安定な血の繭へと変質させ、裏空間に紛れ込んだのだ。
「……はぁ、面倒だ」
「……」
その裏空間はどこまでも広がる灰色の大地と鉛色の空に包まれていた。空気はとても重く、息をするのさえ苦しいと感じる。憂鬱で悲嘆な雰囲気が覆った空間だった。
割合としては憂鬱が強い。
その憂鬱がウィオリナを包み込む。
そんな灰色の空間は、先ほどのどこまでも堕ちる空間とは異なり、ウィオリナに対して超常的な干渉をしてくることはない。
けれど、ウィオリナはその憂鬱に絡めとられ、悪い事を考えてしまう。それにつられ嫌な事を思い出す。
それが辛く逃げ出そうとするが、また悪いことを考え、嫌なことを思い出す。
それを繰り返していくうちに精神的に疲労し、その影響により肉体的にも疲労を感じるようになる。
憂鬱になる。
(動け、動けです!!)
ベルフェゴールは無防備を晒している。眠たそうに溜息を吐いている。
今だ。今、戦意を燃やし、仕掛けるのだ!
そうウィオリナの魂が叫んでいるのに、身体は一切動かない。戦闘体勢を取るだけで、精一杯なのだ。
体が憂鬱に沈んでいるのだ。
と、
「動きたくねぇ」
「ッッ!!」
ベルフェゴールがそう呟き、ウィオリナに襲い掛かった瞬間、灰色の世界の空気が変わった。
憂鬱な雰囲気が少しばかり薄れ、逆に悲嘆な雰囲気が強く出てくる。
ウィオリナは悲嘆に包まれる。悲嘆に体と心が沈みそうになる。
だがしかし。
いや、だからこそ。
「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ァァァァッッッ!!!!!!」
悲嘆な雰囲気が逆にウィオリナの闘争心を強く再起させる。
父を失い、デジールに肉体を壊され、寝たきりの母がウィオリナの小さいころ。思い出。
あの時のウィオリナは周りからの悲嘆な空気に包み込まれていた。圧し潰されていた。
悪夢にウィオリナが絶叫し、そして。
「死にやがれっ、ですッッッ!!!」
「うおっ!」
憤怒し憎悪する。
かつてのウィオリナは、復讐鬼だ。デジールに対しての復讐心と怒りで、痛みも苦しみも……心を捨て、血が滲もうとも修練し続けた存在だった。
だから、過去の復讐心と怒りが心の中で爆発したウィオリナは、その感情に従ってベルフェゴールに殺意を燃やす。
張りつめたヴァイオリンの音色が響いたのと同時に、祈力を込めた四つの血糸が光にも迫る速さで迸り、ベルフェゴールの四肢を切断する。斬撃が数百メートル後ろまで走る。
ベルフェゴールが間抜な声を上げながらも反撃しようとして、しかしその次の瞬間にはベルフェゴールの眼前に血の弓の先端が迫っていた。
血力と祈力を脚に注ぎ込み、超音速よりも速く駆けたウィオリナが、その勢いのままベルフェゴールに血の弓の突きを放ったのだ。
「やべ――」
殺ったッ!
血の弓がベルフェゴールの眉間を貫き、後頭部から突き出る。同時に血の弓が変化して、ベルフェゴールの体に侵入。
血法の基本である血の増幅によって、ベルフェゴールの体をウィオリナの血で満たしし、侵す。
死之怨巨鬼神と戦った際に得た『死』に関する知識を用いて、ベルフェゴールの体を満たす血を変質させていく。
触れた瞬間に、肉体を壊死させ、魂魄を崩壊させる毒へ変わる。
そして、
「こんなッ――」
朽ち果てたベルフェゴールの体が爆散した。斃した。
「……ふぅ」
その崩壊し残りかすとなった血肉の雨を浴びながら、ウィオリナは一息つく。憤怒と憎悪に染まっていた心を冷ましていく。
冷静になり<天血識>で確認すれば、もう既にベルフェゴールはこの世にいないことがわかった。ベルフェゴールの生命の気配も魂魄も感じない。
死んだのだ。
「……本当に終わったです?」
ただ、ベルフェゴールは天獄界の七王だとティーガンの知識にはあった。なのにあっけなく死んだため、ウィオリナは少しだけ懐疑的になる。
だが、どんなに<天血識>でベルフェゴールの気配や魂魄を探っても、見つからないし、そもそも爆散した瞬間に死んだと確信した。
だから、ウィオリナは死んだんだろうと納得することにした。
血のヴァイオリンと地の弓を宙に解かし、灰色の空間でウィオリナは鉛色の空を見上げる。
「……はぁ」
たしかにベルフェゴールはあっけなく死んだが、けれどウィオリナはとてつもない疲労感、特に精神的疲労に襲われている。
どこまでも堕ちる空間での精神攻撃もだが、今先ほど悲嘆な空気によって思い出した過去が辛かった。
あの復讐心と怒りは、とても心に負担を強いる。
少しばかり憂鬱になりながら、ウィオリナは思い出す。
「ティーガン様の血界に行ったのは、あれから一年後でしたっけ?」
デジールの出現により、朝焼けの灰は半壊し、ティーガンとクロノアは血界に隠れ潜む事を余儀なくされた。
それと同時に、デジールがティーガンの力を一瞬だけ奪い、始祖以外の吸血鬼全員に掛けられていた血界でしか生きられない呪いを解いたため、二百年間屈辱に耐えてきた吸血鬼が次々に現世に現れ、暴れていた。
それによる人間の吸血鬼化――眷属化もあった。
それから一年後。
デジールに襲われて弱体化していたティーガンの力が回復し、血界から出られないものの血闘封術師の補助ができるようになったため、それなりの吸血鬼を血界に押し込めることに成功。
その後、高い緊張が支配する睨み合いへと移行した。
その時には、ウィオリナは既に復讐心と怒り、そして持ち前の才能で血闘封術師として活動しており、いくつかの吸血鬼を狩っていた。斃していた。
そう。ウィオリナは吸血鬼を封印するのではなく、殺していたのだ。
産業革命前に誕生した吸血鬼を殺せるほどの実力はなかったものの、その一年間で眷属化された吸血鬼を殺すせるほどの実力があったののだ。
そして元人間だった吸血鬼を殺すことにためらいがないほどに、その復讐心と怒りは強かった。
そんな折、ウィオリナはティーガンと会わされた。仲間の血闘封術師がそんなウィオリナの精神性を危惧したのだ。
それを感じ取り苛立っていたウィオリナは、開口一番にティーガンに怒鳴った。また、いくら吸血鬼を狩っても見つからないデジールへの苛立ちもティーガンにぶつけた。
「……我ながら酷い事をしたです。ティーガン様だって母様を傷つけられて、苦しかったはずなのに。仲間を失って哀しかったはずなのに。怒りを抱いていないわけがなかったはずなのに」
ウィオリナは頬を引きつらせるように苦笑する。
怒りを発散することすらできなず狂いかけていたウィオリナをティーガンは優しく抱きしめた。せめてもの慰めに。
その時は、ウィオリナは更に怒鳴った。怒った。何がッ! 何が慰めだとッ!
けれど、その日から毎週のようにティーガンに会わされ、血闘封術師としての歴史や戦いを教えられた。
そうやって月日が流れるうちに、血闘封術師として吸血鬼を狩るウィオリナは吸血鬼に襲われた人たちから感謝されるようになった。
もちろん、吸血鬼の存在が世に知れ渡ると困るため、吸血鬼に関する記憶を消す血術を行使するのだが、その前に感謝されるのだ。
それが積み重なって、ウィオリナの小さな誇りとなった。復讐心と怒りとは違う心の原動力となった。
それが数年という年月をかけて信念となり、復讐心と怒りは信念と同居するようになり。
吸血鬼を斃すのではなく、封印という手段を選ぶことを決断して。
ようやくデジールの居場所を突き止めたその日。
異世界転移による巨大な時空間波動を感じてクロノアが血界の外に飛び出て、デジールにその身柄と力を奪われて、ティーガンが追い込まれて。
ティーガンの心の弱みとなっている杏の母親である芽衣を保護しに行こうとして。
そして大輔に出会った。
そこまで思い出して、同時に杏の表情が頭に浮かんだ。心がぎゅっと締め付けられ、苦しくなって、哀しくなって……
そして、
『なら、全て忘れようぜ。何もかもがどうでもよくなれば、苦しくなくなるぜ』
「ッッッッ!!!???」
灰色の空間全体からベルフェゴールの声が響いた。
「はぁ、面倒だ……」
覇気のない声。気怠げに溜息を吐き、瞼は今にも眠ってしまいそうなほど細められている。
全くもって緊張感がないベルフェゴールはウィオリナをチラリと見やった後、あくびを噛み殺しながら、呟く。
「さっさと終わらそ」
その瞬間、
「ッ!!??」
ベルフェゴールはどこかへと消え、酷く哀しい水色の光が迸ったかと思うと、隔離されたその空間に書き換えられた。
そこはどこまでも落ちて堕ちる空間。
下は深淵に繋がっているかのように深い闇。深く深くウィオリナは重力に従ってその深い闇の下へ落ちていく。
しかし、空は常に白く輝いている。
すでに百メートル以上落ちているのに、ウィオリナが落ちた先からその深い闇が白く輝きだすのだ。
故にウィオリナは自分は堕ちていないのではないかと錯覚しそうになる。
けれど落下時特有の浮遊感がウィオリナを包んでいるし、何よりもウィオリナの感覚が叫ぶ。
この空間は危ないと。
その証拠に、
「ぁ……ッッ!!!」
ウィオリナの気力が一瞬で失われその意識が闇の底へ消えそうになった。絶大な眠気がウィオリナを襲っているのだ。
ウィオリナは自身の舌を強く噛むと同時に、血法により痛覚をわざと増大させて眠気を打ち消した。
けれどそれだけでは終わらない。
「体がッ!?」
体力や筋力、覇気。体を動かすのに必要なそれらが徐々に失われていくのが感じられる。
しかも、手足の先端が冷たくなったかと思うと、そこがパキパキと石化しているのだ。
また、血力や祈力といった力や、戦うための才能や経験すらもが失われていく。身も心も何もかもが空虚へとなっていく。
どうにか全身に血力を高速に巡らせ、それらのデバフとナーフに抵抗するが、状況を打開する糸口すら見えない状態。
「グッ、今度は重くッ!!」
次にウィオリナの落下速度が変わった。速く、速く。それこそ通常の重力加速度では考えられないほどの加速する。
すでに落下速度は音速を優に超えており、それによる衝撃波がウィオリナを襲う。心なしか、身体の表面が熱い。
摩擦が大きすぎるのか。
そして、
『もう良いだろ。諦めようぜ。苦しいだけだろ』
「ぅ」
堕落へ誘う声音が魂魄に囁かれる。
その声には魔性が宿っており、聞いているだけで心の嫌な部分を想起させ、そこから逃避するように追い立てられる。
(ああ、もう良いです……。もう何もかもが嫌です……。辛い。なんで、わたしがこんな悩まなければならないんです……。なんでわたしだけが……。いっそ、こんな心のなんて。皆、どうでもよくなれば――)
何もかもがどうでも良くなってくる。ウィオリナが無気力に包まれていく。
だが、
(ッ、何をッ! 何を考えているんですッッ!!)
ウィオリナは必死に抵抗する。
歯を食いしばり、、その声がから耳を塞ぐ。聞かなければ問題ない。こんな精神攻撃、無視しろ。
そう心を叱咤しウィオリナは、耐え忍ぶ。
………………………………
……………………
…………
「見つけたですッッッ!!!」
そして耐え忍んだ。
カッと陽色に輝く瞳を輝かせたウィオリナは、<天血獣>を纏い、超強化された身体能力で空気を蹴る。
重力に逆らい空中を駆けたウィオリナは、血のシスターワンピースから無数の血糸を放出すると、自身を血の繭で包み込む。
その血の繭から淡い陽色の血力が立ち上り、陽炎の如く周囲が揺らめいた瞬間、
「そこですッ!」
「なっ!?」
血の繭が一瞬で解け、その中から血のヴァイオリンと血の弓を携えたウィオリナが飛び出す。そのままいつの間にか目の前にいたベルフェゴールへ向かって<血糸妖斬>を放った。
ベルフェゴールは驚愕に表情を歪めるが、軽く手を横に振って衝撃波を放ち、<血糸妖斬>を防いだ。後ろへと飛び、ウィオリナから距離をとる。
ウィオリナはベルフェゴールと対峙した瞬間に<天血識>で、ベルフェゴールの魂魄と生命の気配等々などを全て覚えたのだ。
どこに逃げようと隠れようと、絶対に見失わないために。
空間が書き換えられ、また精神攻撃などで<天血識>だけに意識を割けなかったが、それでもウィオリナはベルフェゴールを見つけたのだ。
そしてベルフェゴールがいたその場所は、ウィオリナがいた空間の対となる空間。いわば裏空間ともいうべきか。
隣り合わせにありながら、元からその空間を知らない限り、決して意識することのできない空間。
ウィオリナは直樹のように自由自在に空間移動はできないし、ティーガンのように特殊な異空間を保持しているわけでもない。
だが、自身の体を、血を変質させることはできる。改造できる。
裏空間は今いる空間ととても近い場所にある。天文学的な確率が重なれば、普通の人間だってその裏空間へ迷い込むこともある。
例えば、鏡によって裏空間を知覚し、それと同時にその人間の周囲の空間が不安定になれば、裏空間へと行ける。神隠しもそういうものだ。
つまるところ、裏空間を知覚し、空間的に不安定な存在になれば、裏空間へ移動することは可能なのだ。
吸血鬼が使用する血界もそれと似たような性質を持っているため、ウィオリナは以前ティーガンからその話を聞いていたのだ。
だから、ウィオリナは自身を包み込む血の繭を空間的に不安定な血の繭へと変質させ、裏空間に紛れ込んだのだ。
「……はぁ、面倒だ」
「……」
その裏空間はどこまでも広がる灰色の大地と鉛色の空に包まれていた。空気はとても重く、息をするのさえ苦しいと感じる。憂鬱で悲嘆な雰囲気が覆った空間だった。
割合としては憂鬱が強い。
その憂鬱がウィオリナを包み込む。
そんな灰色の空間は、先ほどのどこまでも堕ちる空間とは異なり、ウィオリナに対して超常的な干渉をしてくることはない。
けれど、ウィオリナはその憂鬱に絡めとられ、悪い事を考えてしまう。それにつられ嫌な事を思い出す。
それが辛く逃げ出そうとするが、また悪いことを考え、嫌なことを思い出す。
それを繰り返していくうちに精神的に疲労し、その影響により肉体的にも疲労を感じるようになる。
憂鬱になる。
(動け、動けです!!)
ベルフェゴールは無防備を晒している。眠たそうに溜息を吐いている。
今だ。今、戦意を燃やし、仕掛けるのだ!
そうウィオリナの魂が叫んでいるのに、身体は一切動かない。戦闘体勢を取るだけで、精一杯なのだ。
体が憂鬱に沈んでいるのだ。
と、
「動きたくねぇ」
「ッッ!!」
ベルフェゴールがそう呟き、ウィオリナに襲い掛かった瞬間、灰色の世界の空気が変わった。
憂鬱な雰囲気が少しばかり薄れ、逆に悲嘆な雰囲気が強く出てくる。
ウィオリナは悲嘆に包まれる。悲嘆に体と心が沈みそうになる。
だがしかし。
いや、だからこそ。
「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ァァァァッッッ!!!!!!」
悲嘆な雰囲気が逆にウィオリナの闘争心を強く再起させる。
父を失い、デジールに肉体を壊され、寝たきりの母がウィオリナの小さいころ。思い出。
あの時のウィオリナは周りからの悲嘆な空気に包み込まれていた。圧し潰されていた。
悪夢にウィオリナが絶叫し、そして。
「死にやがれっ、ですッッッ!!!」
「うおっ!」
憤怒し憎悪する。
かつてのウィオリナは、復讐鬼だ。デジールに対しての復讐心と怒りで、痛みも苦しみも……心を捨て、血が滲もうとも修練し続けた存在だった。
だから、過去の復讐心と怒りが心の中で爆発したウィオリナは、その感情に従ってベルフェゴールに殺意を燃やす。
張りつめたヴァイオリンの音色が響いたのと同時に、祈力を込めた四つの血糸が光にも迫る速さで迸り、ベルフェゴールの四肢を切断する。斬撃が数百メートル後ろまで走る。
ベルフェゴールが間抜な声を上げながらも反撃しようとして、しかしその次の瞬間にはベルフェゴールの眼前に血の弓の先端が迫っていた。
血力と祈力を脚に注ぎ込み、超音速よりも速く駆けたウィオリナが、その勢いのままベルフェゴールに血の弓の突きを放ったのだ。
「やべ――」
殺ったッ!
血の弓がベルフェゴールの眉間を貫き、後頭部から突き出る。同時に血の弓が変化して、ベルフェゴールの体に侵入。
血法の基本である血の増幅によって、ベルフェゴールの体をウィオリナの血で満たしし、侵す。
死之怨巨鬼神と戦った際に得た『死』に関する知識を用いて、ベルフェゴールの体を満たす血を変質させていく。
触れた瞬間に、肉体を壊死させ、魂魄を崩壊させる毒へ変わる。
そして、
「こんなッ――」
朽ち果てたベルフェゴールの体が爆散した。斃した。
「……ふぅ」
その崩壊し残りかすとなった血肉の雨を浴びながら、ウィオリナは一息つく。憤怒と憎悪に染まっていた心を冷ましていく。
冷静になり<天血識>で確認すれば、もう既にベルフェゴールはこの世にいないことがわかった。ベルフェゴールの生命の気配も魂魄も感じない。
死んだのだ。
「……本当に終わったです?」
ただ、ベルフェゴールは天獄界の七王だとティーガンの知識にはあった。なのにあっけなく死んだため、ウィオリナは少しだけ懐疑的になる。
だが、どんなに<天血識>でベルフェゴールの気配や魂魄を探っても、見つからないし、そもそも爆散した瞬間に死んだと確信した。
だから、ウィオリナは死んだんだろうと納得することにした。
血のヴァイオリンと地の弓を宙に解かし、灰色の空間でウィオリナは鉛色の空を見上げる。
「……はぁ」
たしかにベルフェゴールはあっけなく死んだが、けれどウィオリナはとてつもない疲労感、特に精神的疲労に襲われている。
どこまでも堕ちる空間での精神攻撃もだが、今先ほど悲嘆な空気によって思い出した過去が辛かった。
あの復讐心と怒りは、とても心に負担を強いる。
少しばかり憂鬱になりながら、ウィオリナは思い出す。
「ティーガン様の血界に行ったのは、あれから一年後でしたっけ?」
デジールの出現により、朝焼けの灰は半壊し、ティーガンとクロノアは血界に隠れ潜む事を余儀なくされた。
それと同時に、デジールがティーガンの力を一瞬だけ奪い、始祖以外の吸血鬼全員に掛けられていた血界でしか生きられない呪いを解いたため、二百年間屈辱に耐えてきた吸血鬼が次々に現世に現れ、暴れていた。
それによる人間の吸血鬼化――眷属化もあった。
それから一年後。
デジールに襲われて弱体化していたティーガンの力が回復し、血界から出られないものの血闘封術師の補助ができるようになったため、それなりの吸血鬼を血界に押し込めることに成功。
その後、高い緊張が支配する睨み合いへと移行した。
その時には、ウィオリナは既に復讐心と怒り、そして持ち前の才能で血闘封術師として活動しており、いくつかの吸血鬼を狩っていた。斃していた。
そう。ウィオリナは吸血鬼を封印するのではなく、殺していたのだ。
産業革命前に誕生した吸血鬼を殺せるほどの実力はなかったものの、その一年間で眷属化された吸血鬼を殺すせるほどの実力があったののだ。
そして元人間だった吸血鬼を殺すことにためらいがないほどに、その復讐心と怒りは強かった。
そんな折、ウィオリナはティーガンと会わされた。仲間の血闘封術師がそんなウィオリナの精神性を危惧したのだ。
それを感じ取り苛立っていたウィオリナは、開口一番にティーガンに怒鳴った。また、いくら吸血鬼を狩っても見つからないデジールへの苛立ちもティーガンにぶつけた。
「……我ながら酷い事をしたです。ティーガン様だって母様を傷つけられて、苦しかったはずなのに。仲間を失って哀しかったはずなのに。怒りを抱いていないわけがなかったはずなのに」
ウィオリナは頬を引きつらせるように苦笑する。
怒りを発散することすらできなず狂いかけていたウィオリナをティーガンは優しく抱きしめた。せめてもの慰めに。
その時は、ウィオリナは更に怒鳴った。怒った。何がッ! 何が慰めだとッ!
けれど、その日から毎週のようにティーガンに会わされ、血闘封術師としての歴史や戦いを教えられた。
そうやって月日が流れるうちに、血闘封術師として吸血鬼を狩るウィオリナは吸血鬼に襲われた人たちから感謝されるようになった。
もちろん、吸血鬼の存在が世に知れ渡ると困るため、吸血鬼に関する記憶を消す血術を行使するのだが、その前に感謝されるのだ。
それが積み重なって、ウィオリナの小さな誇りとなった。復讐心と怒りとは違う心の原動力となった。
それが数年という年月をかけて信念となり、復讐心と怒りは信念と同居するようになり。
吸血鬼を斃すのではなく、封印という手段を選ぶことを決断して。
ようやくデジールの居場所を突き止めたその日。
異世界転移による巨大な時空間波動を感じてクロノアが血界の外に飛び出て、デジールにその身柄と力を奪われて、ティーガンが追い込まれて。
ティーガンの心の弱みとなっている杏の母親である芽衣を保護しに行こうとして。
そして大輔に出会った。
そこまで思い出して、同時に杏の表情が頭に浮かんだ。心がぎゅっと締め付けられ、苦しくなって、哀しくなって……
そして、
『なら、全て忘れようぜ。何もかもがどうでもよくなれば、苦しくなくなるぜ』
「ッッッッ!!!???」
灰色の空間全体からベルフェゴールの声が響いた。
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