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第五章 わたしを孕ませて

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◇三峯瞬/――

 そんなことがあっていいのか――それが正直な気持ちだった。
 久瀬倉さんの想いは、根底の部分から汚されていた。人々を守るために自分の身を捧げるという悲壮な決意の下に、幾度となく忌獣に食われ、忌獣を食らい、儀式のために力を高めようとしてきた久瀬倉さんの献身は、恨みを呑んで死んでいった過去の贄姫たちが、自らの溜飲を下げるための、いわば物笑いの種でしかなかったのだ。
 その上、忌霊を生んだ過去の贄姫たちはすでに滅んでいて、この海底湖に残されているのは忌門で具象化されたただの思念にすぎないとなれば、久瀬倉さんの――いや、この海底湖で恨みを呑んで死んでいった代々の贄姫たちの献身はいったい何のためのものだったのか。
 ぼくは唇を噛んだ。
 久瀬倉さんは祭壇の下にうつぶせに倒れていて、その様子はうかがえない。
「さて。もういいかな、姉さん」
 美奈恵さんの姿をした鬼がそう言った。
 そうだ、この鬼はさっきから真琴さんのことを「姉さん」と呼んでいる。
「真琴さん……彼は、まさか……」
 聞いていいことなのかわからなかったが、こんな状況で相手の正体が掴めないのは恐い。
「おや? 君は知らなかったのかい? そう、僕は天崎あまさき拓真たくま――真琴姉さんの実の弟だよ」
 鬼――拓真がぼくに向かって微笑んでみせた。
 美奈恵さんの笑みとは違う、もっと硬質で冷たい笑み。
「……ああ。あれはわたしの弟――いや、弟だったものだ」
 真琴さんはぼくに背を向けたままそう答えた。
「ひどいなあ、姉さん。僕はいまでも姉さんの忠実な弟なのに」
「黙れ! 美奈恵に危害を加えた時点で、おまえのことを弟だと思うのはやめた」
「くくっ。それはよかった。僕は姉さんと、姉弟以上の関係になりたかったんだから」
「だから美奈恵を殺そうとしたのか」
「そうだよ。そして、これから僕は姉さんを自分のものにする。永いこと待たせてしまったけど……ついに姉さんとひとつになれるんだね。ほら、僕のこれ、こんなになっちゃってる」
「――っ」
 拓真が目で示したのは、自身の股間だった。
 美奈恵さんのピンク色のショーツから、紫色に変色した巨大な陽物がはみだし、固く屹立している。
「姉さんは僕を殺せない。いやまあ、今の姉さんなら、僕を殺すこと自体は不可能じゃないだろうね。僕が鬼になり、姉さんと美奈恵さんが忌能を獲得したあの日――僕を殺そうとしたときの姉さんは、まだ忌能を十分に使いこなせてはいなかったし、精神的にも動揺していた。だから、今の姉さんの前にあのときの僕が現れたら、姉さんはきっと僕のことを殺してくれるにちがいない。姉さんは血のつながりなんて吹き飛ぶほどに僕のことを憎んでくれているからね。でも、姉さんは僕を殺せない。なぜだかわかるかな――少年?」
 拓真はなぜかぼくに聞いてきた。
「……美奈恵さんか」
「その通り」
 ぼくの答えに拓真が満足げにうなずいた。
「僕が指摘しても、姉さんは認めないだろうね。でも、君も僕と同じ意見だというなら確実だ。姉さんは、美奈恵さんを殺せない。殺すための覚悟を決める時間は十分にあったのに、美奈恵さんのことが好きでたまらない姉さんは、覚悟を決めることから逃げ続けてきたんだ」
 真琴さんと拓真から見て第三者の立場にあるぼくの口を利用したのか。
 ぼくは動きを見せない真琴さんの背中に、言いしれない不安を感じた。
「姉さんは、もともと弱い人なんだよ。本当は誰かが守ってあげなきゃいけないヒトなんだ。一見すると、美奈恵さんより姉さんの方が気が強くておっかない感じがするけど、本当は逆なんだね。美奈恵さんは、どんな苦難に遭っても持ち前のしなやかさと他人を惹きつける才能でのらりくらりと乗り切ってしまう。でも姉さんは、たしかに強いし気高いけれど、自分の限界を超える苦難が襲いかかってきたときには脆いんだ。心の根がぼっきり折れてしまって、立ち直るのにはずいぶんと時間がかかる」
「――やめろ」
「実際、僕のことは――ええっと、美奈恵さんの記憶によれば七年前になるのかな? 七年前の事件の後、姉さんよりよほど酷い目に遭ったはずの美奈恵さんは、あっけらかんと、まるでなにごともなかったようにしていたのに、姉さんときたら――」
「いい加減にしろ! おまえにわたしの何がわかる!」
「わかるさ。僕はずっと姉さんを見てきたんだから」
「じゃあなぜ――なぜ、美奈恵にあんなことをした! わたしの気持ちを知っていながら、なぜ!」
「それはもちろん、邪魔だったからだよ」
「おまえはわたしのことが好きなのだろう!? ならばなぜ、わたしの好きな人を酷い目に遭わせるんだ!」
「なぜって……」
「邪魔だから、なんて理由になるか! わたしのことが好きなら、なぜわたしの気持ちを尊重してくれなかった! わたしの気持ちを砕くようなことをした! そんなのがおまえの『好き』なのか!」
「真琴さん……」
 真琴さんの背中が震えている。
 銃把を握りしめる右手が青白くなっている。
「ははっ。姉さんは純情だねえ。そこがまた、いいところなんだけどさ。でも、愛しているからこそ壊したいってこともあるだろう?」
「わたしは……美奈恵のことを壊したいと思ったことなど一度もない!」
「本当に? そりゃ、すごいね」
 拓真はすこし辟易した様子で肩をすくめた。
「でも、姉さんの大好きな美奈恵さんなら、きっと理解してくれるはずだよ。ま、そういう意味では僕と美奈恵さんの相性はいいのかもしれないね。少々、似たもの同士すぎてかえって反りが合わない感じもあるけど」
「美奈恵を侮辱するな!」
 真琴さんが銃口を拓真へと向ける。
「ふふっ。撃てもしない銃を向けられても、ちっとも怖くないよ。……ねえ、君はどう思う?」
 拓真は再びぼくへと話を振ってきた。
 赤く染まった白目に、黄色い猫の目のような虹彩を持つ鬼の眼がぼくをとらえる。
 後じさりそうになるのをぼくは必死で堪え、拓真を正面からにらみ返す。
「僕は今、美奈恵さんの記憶を漁ってるんだけどさ、比較的浅い記憶の中に、君と美奈恵さんの熱い一夜のことがあったよ」
「……っ!」
「よかったね。美奈恵さんは君のことをずいぶん気に入っているみたいだ。君が童貞を守れたのも、美奈恵さんが君のことを気に入ったからだね。この人はおいしいデザートは後でゆっくり楽しみたいタイプなんだ」
「それが、どうした」
「美奈恵さんも、僕みたいなタイプだろう?」
「それは……」
「愛しいものほど壊したくなる。美奈恵さんは壊されるのもイケるみたいだけど、僕はやっぱり壊す方が好きだな。でも、それって、愛の形としてそれほど異常なものかな? むしろ、ある程度は普遍的なものなんじゃないかな」
「だとしても……おまえのやったことは許されない」
「許されない? 何を言ってるんだい? 誰が、何を許すんだ? 僕は姉さんへの想いを捨てるくらいなら、世間から指弾されるくらいなんでもないよ。君だってそうじゃないか、ええ、三峯瞬君? 君はそこにいる久瀬倉家の巫女を助けたくて、〈万代〉が必要悪であることを十分理解しながら、自分の身体を美奈恵さんに売ってまで助けに来たんだろう? 君と僕と、一体何が違う?」
「く……っ。だけど、でも……」
「わかったのなら、黙って見ていてもらおうかな。僕が姉さんと結ばれるところを。本当は姉さんを独占したいところだけど、恥ずかしいところを君に見られてもだえる姉さんというのもなかなかよさそうだ。そうしてくれたら、特別に君とその巫女を見逃してあげてもいい」
「そんな……!」
「何を躊躇うことがあるの? 君の目的はその子なんだろう? 君の雇った衛視がどうなろうと、それはその衛視の実力不足のせいさ。君の責任じゃない」
「くっ……」
 僕は拓真を睨みつけた。
「姉さんからも言ってやったら? わたしのことは構わず、好きな女の子を連れて逃げなさいって」
「真琴さんっ! ぼくはそんな……!」
「姉さんが僕の言うことを聞いてくれるなら、美奈恵さんを解放してもいいよ」
「――っ」
「凄腕の忌累衛視二人に鬼一匹――僕ら三人が揃っていれば、怖いものなんて何もないだろ? 三人で一緒に暮らそうよ。僕は姉さんが好きだし、姉さんは美奈恵さんが好きだし、美奈恵さんは僕のことが好きなんだ。みんなが少しずつ妥協すれば、きっとみんなで幸せになれるはずだよ」
「そんなこと……」
「大義名分がほしいなら、こう言ってあげようか? 姉さんが僕の言うことを聞かなければ、そこにいる瞬君とこの巫女の女の子を殺す。可能な限り残虐なやり方でね。姉さんは二人の命を助けるために、仕方なく僕に従うんだ。姉さんは何も悪くない。そういう形でもいいよ」
 真琴さんが沈黙する。
 その背中にぼくは不吉な予感を覚えた。
「真琴さん! 耳を貸しちゃダメです!」
 ぼくは叫んだが、自分の言葉の説得力のなさに絶望せざるをえなかった。
 今この場を支配しているのはまちがいなく目の前にいる鬼だった。
 拓真は美奈恵さん以上の化け物じみた――鬼そのものの力を振るうはずだ。その拓真を相手に、美奈恵さんを盾に取られ、素人のぼくや意識のない久瀬倉さんをかばいながら戦う――いくら真琴さんが優れた忌能者であっても、そんなことは到底不可能にちがいない。
 ぼくは奥歯をきつく噛みしめた。
「――瞬」
 真琴さんが――振り向いた。
 正面には拓真がいるというのに、銃の構えを解いて、警戒すらせず。
 そのことに頭を殴られたような衝撃を受けた。
 眉間から力の抜けた弱々しい表情で、真琴さんは小さく息を漏らした。その顔に自嘲するような笑みが浮かんだ。
「わたしはもうダメみたいだ。君は久瀬倉春姫を連れて逃げるといい。いや、その前に、わたしがあいつに陵辱されるところを見せつけられるんだったか。すまんな」
「真琴……さん……っ」
 信じられなかった。
 強くて、気高くて、誰よりも優しい真琴さんが、こんなに簡単に――諦めてしまうなんて。
 心が、折れてしまうなんて。
「ふっ、くくく、アッハハハッ! 最高だよ、姉さん。さ、もういいだろう? 自分からぼくの腕のなかにおいで? 存分にかわいがってあげるから」
 真琴さんが手にした銃を投げ捨てた。
 無骨なデザインの鉄の塊が地底湖の固い地面にぶつかり、存外に軽い音を立てた。
 真琴さんはふらふらと拓真の方へと歩き出す。
 ぼくは――
「おや……? なんのつもりだい? 三峯瞬君」
「うるさいッ。おまえの理屈なんて、知ったことじゃないんだよ!」
「――瞬?」
 ぼくは真琴さんの前に飛び出し、真琴さんの捨てた拳銃を両手で構えていた。
「こんなこと……こんなことを、久瀬倉さんが喜ぶわけがないだろ! 久瀬倉さんは、人々を守るためなら自分が死んでもいいって考えるような優しい女の子なんだよ!」
 引き金を引く。
 ボートで、真琴さんに銃の扱いを教えてもらったのが役に立った。
 真琴さんの愛銃の反動は強烈だったけど、狙いは確かだったはずだ。
 が――
「あのさ……おまえ、馬鹿なの?」
 鬼が、目の前にいた。
 拓真は片手でぼくの指ごと拳銃を握りしめ、ぎりぎりと力を込めてきた。
「ぐあああっ!」
 指が潰れる激痛に、ぼくは悲鳴を上げた。
 拓真はぼくの手から拳銃を奪いつつ、空いている方の手を自分の口へと近づけると、なにかをぺっと吐き出した。
 銃弾だった。
「姉さんなら――姉さんの忌能なら、確かに僕を殺せなくもないさ。でも、それには数時間がかりで僕に〈絶対遮断〉を撃ち込み続ける必要があるだろうね。それにそもそも、こんな金属の弾なんかには、僕を殺しうるいかなる力もないんだ」
 銃身を握り直した拓真が力を込めると、炒り豆の弾けるような音を立てて銃が暴発した。
 ぐしゃぐしゃに歪んだプラスチックと金属の塊が地面に投げ出された。
「そして君は――僕の好意を無にした。楽しい楽しいショーに水を差した。その報いは、受けてもらうよ」
「わっ!」
 拓真はぼくを突き飛ばすと、祭壇の下に横たわる久瀬倉さんに近づいた。
「やめろ! 何のつもりだ!」
 拓真は久瀬倉さんの頭に手をかけると驚くべき腕力で久瀬倉さんを宙に吊り上げた。
 拓真の指から伸びる爪が久瀬倉さんの髪にひっかかり、幾条か、久瀬倉さんの長い黒髪が宙を滑り落ちていく。
 辺りを照らす篝火に照らされて、久瀬倉さんの髪がきらきらと銀色に輝いた。
「久瀬倉さんッ!!」
「おっと動くな。……ま、動かれても困らないけどね」
「おまえ――!」
 無理な姿勢で宙に吊された久瀬倉さんだが、起きる気配はなかった。
「さっき、食いそびれた忌霊の一部が、この巫女に逃げ込んでね。後で食ってやろうと思ってたんだ」
「やめろ!」
「君は僕に逆らった。それがどういう結果を生むのか――よく見ておくといい」
 拓真が腕に力をこめる。
 みしり、と久瀬倉さんの頭蓋が軋む音がした。
 そして――
「やめろおおおおおおおおっ!!」
 ぼくの悲鳴が、地底湖にこだました。
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