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微妙な距離
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それ以来、理人と黒崎は仕事の後に会う事が増えた。
ほとんどが夕食を一緒に取る事で、黒崎が忙しい時には自販機の前でお茶だけをして別れる事もあった。
黒崎が贔屓の定食屋を教えてくれ、理人は一人でそこを利用するようにもなった。
以前は家に真っ直ぐに帰り夕食を作っていたのだが、黒崎と出かけ店を知るようになってからは疲れた日には無理して作らなくなった。
自分の作る味に飽きたというのは半分正解だったのだろう。そして、食事中にする黒崎との適度なお喋りが楽しい。
どうして黒崎と自分が待ち合わせているのか、向かい合っているのか、瓶ビールを注ぎ合っているのかと、始めは首をひねりたくなったのだが、今では慣れた物で疑問さえ抱かなくなっていた。
それよりも……
恐らく、友達になって友情を育んでいるこの状況が、たまに胸にくるのだ。
自分は黒崎の唇を知っている。もっと深い場所でこの人を覚えている。そのはずなのに、それは無かった事になっている。そして理人もそれを忘れたように振る舞わなければならないのだ。
なんか、僕って調子良すぎだよな。
つい最近蓮に振られ、あれだけ傷ついていたというのに、気持ちはもう黒崎に傾いている。
覚えておくんだ……忘れるな。
理人は自分に言い聞かせる。
誰も……僕を愛さない。親でさえそうなんだ。じゃないと、また同じように傷つく事になる。
誰もが理人が求める愛をくれる事はない。唯一にはしてくれない。
「理人、どうした? 決まらないのか?」
壁に貼られたお品書きを見ていたのだが、いつしかぼんやりしていた理人の視界に黒崎が入って来る。
ここはいつもの定食屋で、常連客も多い。入ってくる客のほとんどはまずビールを注文し、一分と経たずに料理の注文を決めてしまう。カウンターの一人客はのんびりする事もなく、食べたらすぐに出ていってしまい、扉は絶えず開閉しているように思える。
対照的なのはテーブル客で、新聞を広げてのんびり酒を飲む姿もあれば、真面目な顔で何かを語っている席もある。
ここへ来るのはもう十回を超えている。ちょうどメニューを一巡した所で、残るのは単品のうどん位だ。今晩は何を頼もうかと少しだけ悩んでいた所だった。
「いえ、決まりました。野菜炒めにしようかな」
「じゃあ、俺もそうする。お姉さん、野菜二つで」
黒崎は後ろを振り向き大きな声を上げる。それに応える声も威勢がいい。
飾り気のない店は居心地が良く、油で焼けたような厨房のガス周りや、季節によって手書きのメニューが増えるのも面白い。
まずは味噌汁が先にやってきて、熱いそれをお茶代わりにハフハフと啜っている間に野菜炒め定食がやってくる。
自分ではどうしても出せない味、もやしが口の中でシャキシャキと弾ける。
野菜美味しい……
途切れとぎれに聞こえるテレビのニュースにたまに目をやって食べて、たまにちらりと黒崎を見る。
「理人は、休みの日に何やってる?」
「ほとんどが家の事です。たまった洗濯を回して、掃除して、衣替えの時期はそればっかりになるし」
「そっか、西さんの言う通り、理人は出不精だし無趣味なんだな」
えっ……
黒崎の口から西の名が飛び出し、理人はゆっくりと箸を止める。
「黒崎さん、西さんと連絡取ってるんですか?」
「ああ、エントランスで会った時に交換したんだ。たまにメールしてるけど、会ってはない」
大きな口を開け、ご飯を放り込む黒崎。いつも食べ方は大胆で一口分が多い。
「でもあの時、ちょっと険悪な雰囲気でしたよね」
「だな。だけどやっぱり西さんって面白いな。お笑いのスタンプ一個だけ送って来られても意味わからないんだけど。俺にどうやって返せって言うのかね」
黒崎はくすくすと笑う。
「何か……」
さみしい。
自分の知らない所で二人が連絡を取っていた事も、それをずっと知らなかった事も。
このまま二人が仲良くなっていったらと思うと、その先を想像するのが怖い。
「黒崎さん、僕、すごく子供っぽい事言っていいですか?」
理人が神妙に言うと、黒崎は笑顔を引っ込めた。
「西さんと黒崎が仲良くなるの、ちょっとだけ嫌だって思いました。西さんを黒崎さんに取られるのも嫌だし、黒崎さんに西さんを取られるのも嫌だなって」
「理人は、そう思ったんだ」
「はい。なんか、こう言葉にして喋ってるだけでも辛くて。いい大人の言う事じゃないだろうけど、恋愛だけじゃなくて、別の違う関係にも、片思いってあるんだなって」
自分が何を言いたいのか伝えたいのか、どうしてこんな事を黒崎に言ってしまうのかと、伝えてしまった後に理人は迷いを見せる。
「言ってくれてありがと。理人が気持ちを隠さずに教えてくれて嬉しい。普段の理人ならそんな事を絶対に口にしないで、まずは自分を抑え込むだろう。それなのに俺には正直に言ってくれた。それが滅茶苦茶に嬉しい」
黒崎は感激したように、うんうんと頷いている。それはまるでダメな子供の成長を喜んでいる親の姿のようにも見えた。
「俺と西さんがメールで何を話しているか教えようか?」
「いえ、そこまで立ち入るのは、ちょっと」
「理人の事だよ」
僕の事? 俯きそうになっていた顔を上げる。
「西さん理人の趣味って何ですか? 理人は無趣味だよ私と一緒、ってこんな感じ? 後は何かあったかな」
黒崎はジャケットの内ポケットからスマホを取り出す。
「西さんからのスタンプに俺がウゼエって返して、売れない絨毯があるから買ってくれとか、単発で腹の探り合いしてる。見る?」
「見ないです」
理人は首を振る。一気に顔が赤くなった。
黒崎は下らない嘘を言う人間ではない。それに理人が見ると答えたら、本当に見せてきただろう。
何だか恥ずかしい。
自分が考えもせず思った事を口にしていたのも、黒崎を喜ばせてしまった事も。
そもそも人の趣味など知ってどうしたかったのだろう。黒崎にメールをしてからは随分と仲良くなったのだから、知りたい事があれば直接聞いてくれればいいのだ。
「西さんに聞かずに、僕に聞いて下さい……」
「じゃあ聞くけど、趣味は何?」
「えっと……」
やはやり聞かれても困る事はあると理人は悩む。
「ありません。あえて言うなら家事って事で。あんまりアピールできないけど、就活の時にも料理で通してたんです。じゃあ黒崎さんは、黒崎さんの趣味は何なんですか」
「俺は、そうだな」
案外そう聞かれると迷う、黒崎はそう言って目線を上に上げる。
「前はバイクに乗って通勤してたし、一人でツーリングも行ってたな。車載動画をネットにアップしたりしたけど、今は全然」
「へえ、何だか意外」
「どこが?」
理人の偏見だろうが、取締役である黒崎にはやはり高級車のイメージがある。黒崎が贔屓にするこの店にしても、いい店である事は確かだが庶民的すぎて、最初は違和感しか持てなかった。
とにかく黒崎は、蓮と並んでも劣らない、いい男である事には間違いないのだ。
「とにかく、意外」
理人は質問を小さく流し、食べる事に集中した。
ごちそうさまでしたと声を掛け店を出る。最初こそ黒崎に奢ってもらったのだが、それ以降はきっちり割り勘だ。カードを使えないのは難点だが、それがここに通わなくなる理由にはならない。
食べ歩きとか、店の開拓とかも面白いかもしれない。
西に食べさせてもらった炉端料理も美味しかった。世の中には自分の知らない味がまだ沢山ある。
「さぶっ」
扉一枚向こうの世界は表面の温度を一気に奪うほど凍えていた。
黒崎はマフラーを肩にかけ、一方の端を後ろに流す。首に一重に巻いただけなのに、妙に決まっている。丈の短いステンカラーのコートはスマートで大人の落ち着きがあった。
一方の理人はというと、変わらず黒のキルティング。寒がりに相応しくしっかり太腿は隠れている。男性にしては可愛いと後輩に言われたが、似合っているとも言われたので愛用している。
それなのに普段より寒気を感じるのは、今日は家にマフラーを忘れてきたからだ。
「理人が寒そうに見えるのは、やっぱりいつものマフラーがないからだな」
「忘れると悲惨なんで、これからは会社にも予備を置いておきます」
首を縮めて駅へと歩き出す。
大通りから外れた店前は人通りが少なく、細い道に二人並んだ。
「理人」
「えっ……」
後で黒崎が立ち止まり、理人は振り向く。
すると、黒崎は巻いていたマフラーを取り、理人に掛けてきた。
「俺は理人みたいなお洒落な巻き方知らないんだけどさ」
「えっ、黒崎さん、僕はいいですよ」
「いいのいいの」
ビジネスバックを足に挟み、長い布をどうにかしようと格闘している。
結局二重に巻き付け、フリンジのある裾を内側に隠す。
「こんなもんだろ」
仕上がりに満足したらしく、最後に布を上に引っ張り、理人の顎まで隠れるように調節する。
「やっぱり、理人にはこれだよな。俺はいらないから、よかったらもらってくれ」
「そんな、だめです」
「理人の真似してあの店で買ったけど、結局俺には似合わないし、首回りが邪魔なんだ」
「もしかしてルームウェア買った時に一緒に買ったんですか?」
「そう。だからこれはその礼にやる。あの部屋着なかなかいいよ、もう一着欲しいくらい」
「これ、本当に、いいの?」
素直にもらってしまっていいのだろうか。それに断った所で黒崎には言いくるめられてしまいそうだ。
理人は巻いてもらったそれに手をやる。端に色違いのラインが複数入っていて、巻いた角度によって表情を変えとても黒崎に似合っていたのに。
「買うならやっぱり無難なブラックかグレーでよかったな。俺にはあれだが理人には似合ってる。そのつもりはなかったけど、理人に似合うのを探してたのかもな」
理人の手をぽんぽんと軽く叩く。
その瞳は優しすぎて、だから目を逸らしてしまう。
黒崎さんの意図がわからない。僕に似合う物を探していたかもって、それじゃまるで……
どう答えていいものか理人が戸惑っていると、顔に黒崎の影が差す。
「えっ……」
薄く唇が開いた所で、黒崎のそれが重なった。
時間にすれば一秒にも満たない。それなのに、自分とは違う僅かな熱がそこからじわじわと広がる。
目を見開く理人を息がかかるほど近くで黒崎が見下ろす。
「そんなにじっと見つめられると、照れるな。ちょっとマフラーが邪魔」
それを匂わせる素振りなどない、けど、黒崎の息は心なしか上がっている。
「ここ、ここっ、路上ですっ」
「誰もいないから」
ようやく出た声は妙に上ずっていたが、黒崎は一度口角を上げた後、次はゆっくりと、理人がそれを覚悟できる速度で近付きキスをした。
これは、恥ずかしい……
避けようと思えばできた。それなのに、理人は自然に瞼を閉じていたのだ。
さっきよりは幾分長く、二人の温度差を感じられる時間。
同じようにゆっくりと離れていく黒崎の唇から目が離せない。
「やっぱり、理人の唇はは気持ちいいな」
「何で、そういう事を平気でいえるのっ」
「でも本当だから」
理人はマフラーをたくし上げ、口許を隠す。すると思いもせずに黒崎の香りが胸いっぱいに広がる。
すごく、いい匂い。
首だけでなく全身が包まれている気を起こさせる、そんな錯覚に陥る。
トクトクと煩かった鼓動が更に早くなる。時に内側からドクンと大きく突き上げるのだ。
「こうでもしないと、理人は俺を意識してくれないみたいだから」
「そんな事……」
……ない。本当はずっとずっと、意識しすぎて不自然になっている。
「もしかしたら勘違いしてるかもしれないから言うけど、俺はお前の友達、楓が嫌いだよ」
「楓……どうして。黒崎さんは楓の事、楓ちゃんなんて呼んでたのに」
「嫌いだからだよ。でも蓮の相手を傷つける訳にはいかないから、わざとそうして自分を偽ってるんだ。楓ちゃんに対してオラオラ系にならないように」
「なんか、複雑すぎて理解できないけど」
「俺は楓が嫌い、それだけを知ってくれてればいい」
「う、ん」
黒崎は理人の肩をぽんと叩き、先に歩き出し、またすぐに立ち止まり振りむく。
「なあ、理人。今度時間が空いた時は、じっくり向き合って話をしないか?」
その真剣な眼差しに頷くと、黒崎はくるっと表情を柔らかくする。その落差の激しさに胸が衝撃を受けるのは、もう何度目かわからない。
ほとんどが夕食を一緒に取る事で、黒崎が忙しい時には自販機の前でお茶だけをして別れる事もあった。
黒崎が贔屓の定食屋を教えてくれ、理人は一人でそこを利用するようにもなった。
以前は家に真っ直ぐに帰り夕食を作っていたのだが、黒崎と出かけ店を知るようになってからは疲れた日には無理して作らなくなった。
自分の作る味に飽きたというのは半分正解だったのだろう。そして、食事中にする黒崎との適度なお喋りが楽しい。
どうして黒崎と自分が待ち合わせているのか、向かい合っているのか、瓶ビールを注ぎ合っているのかと、始めは首をひねりたくなったのだが、今では慣れた物で疑問さえ抱かなくなっていた。
それよりも……
恐らく、友達になって友情を育んでいるこの状況が、たまに胸にくるのだ。
自分は黒崎の唇を知っている。もっと深い場所でこの人を覚えている。そのはずなのに、それは無かった事になっている。そして理人もそれを忘れたように振る舞わなければならないのだ。
なんか、僕って調子良すぎだよな。
つい最近蓮に振られ、あれだけ傷ついていたというのに、気持ちはもう黒崎に傾いている。
覚えておくんだ……忘れるな。
理人は自分に言い聞かせる。
誰も……僕を愛さない。親でさえそうなんだ。じゃないと、また同じように傷つく事になる。
誰もが理人が求める愛をくれる事はない。唯一にはしてくれない。
「理人、どうした? 決まらないのか?」
壁に貼られたお品書きを見ていたのだが、いつしかぼんやりしていた理人の視界に黒崎が入って来る。
ここはいつもの定食屋で、常連客も多い。入ってくる客のほとんどはまずビールを注文し、一分と経たずに料理の注文を決めてしまう。カウンターの一人客はのんびりする事もなく、食べたらすぐに出ていってしまい、扉は絶えず開閉しているように思える。
対照的なのはテーブル客で、新聞を広げてのんびり酒を飲む姿もあれば、真面目な顔で何かを語っている席もある。
ここへ来るのはもう十回を超えている。ちょうどメニューを一巡した所で、残るのは単品のうどん位だ。今晩は何を頼もうかと少しだけ悩んでいた所だった。
「いえ、決まりました。野菜炒めにしようかな」
「じゃあ、俺もそうする。お姉さん、野菜二つで」
黒崎は後ろを振り向き大きな声を上げる。それに応える声も威勢がいい。
飾り気のない店は居心地が良く、油で焼けたような厨房のガス周りや、季節によって手書きのメニューが増えるのも面白い。
まずは味噌汁が先にやってきて、熱いそれをお茶代わりにハフハフと啜っている間に野菜炒め定食がやってくる。
自分ではどうしても出せない味、もやしが口の中でシャキシャキと弾ける。
野菜美味しい……
途切れとぎれに聞こえるテレビのニュースにたまに目をやって食べて、たまにちらりと黒崎を見る。
「理人は、休みの日に何やってる?」
「ほとんどが家の事です。たまった洗濯を回して、掃除して、衣替えの時期はそればっかりになるし」
「そっか、西さんの言う通り、理人は出不精だし無趣味なんだな」
えっ……
黒崎の口から西の名が飛び出し、理人はゆっくりと箸を止める。
「黒崎さん、西さんと連絡取ってるんですか?」
「ああ、エントランスで会った時に交換したんだ。たまにメールしてるけど、会ってはない」
大きな口を開け、ご飯を放り込む黒崎。いつも食べ方は大胆で一口分が多い。
「でもあの時、ちょっと険悪な雰囲気でしたよね」
「だな。だけどやっぱり西さんって面白いな。お笑いのスタンプ一個だけ送って来られても意味わからないんだけど。俺にどうやって返せって言うのかね」
黒崎はくすくすと笑う。
「何か……」
さみしい。
自分の知らない所で二人が連絡を取っていた事も、それをずっと知らなかった事も。
このまま二人が仲良くなっていったらと思うと、その先を想像するのが怖い。
「黒崎さん、僕、すごく子供っぽい事言っていいですか?」
理人が神妙に言うと、黒崎は笑顔を引っ込めた。
「西さんと黒崎が仲良くなるの、ちょっとだけ嫌だって思いました。西さんを黒崎さんに取られるのも嫌だし、黒崎さんに西さんを取られるのも嫌だなって」
「理人は、そう思ったんだ」
「はい。なんか、こう言葉にして喋ってるだけでも辛くて。いい大人の言う事じゃないだろうけど、恋愛だけじゃなくて、別の違う関係にも、片思いってあるんだなって」
自分が何を言いたいのか伝えたいのか、どうしてこんな事を黒崎に言ってしまうのかと、伝えてしまった後に理人は迷いを見せる。
「言ってくれてありがと。理人が気持ちを隠さずに教えてくれて嬉しい。普段の理人ならそんな事を絶対に口にしないで、まずは自分を抑え込むだろう。それなのに俺には正直に言ってくれた。それが滅茶苦茶に嬉しい」
黒崎は感激したように、うんうんと頷いている。それはまるでダメな子供の成長を喜んでいる親の姿のようにも見えた。
「俺と西さんがメールで何を話しているか教えようか?」
「いえ、そこまで立ち入るのは、ちょっと」
「理人の事だよ」
僕の事? 俯きそうになっていた顔を上げる。
「西さん理人の趣味って何ですか? 理人は無趣味だよ私と一緒、ってこんな感じ? 後は何かあったかな」
黒崎はジャケットの内ポケットからスマホを取り出す。
「西さんからのスタンプに俺がウゼエって返して、売れない絨毯があるから買ってくれとか、単発で腹の探り合いしてる。見る?」
「見ないです」
理人は首を振る。一気に顔が赤くなった。
黒崎は下らない嘘を言う人間ではない。それに理人が見ると答えたら、本当に見せてきただろう。
何だか恥ずかしい。
自分が考えもせず思った事を口にしていたのも、黒崎を喜ばせてしまった事も。
そもそも人の趣味など知ってどうしたかったのだろう。黒崎にメールをしてからは随分と仲良くなったのだから、知りたい事があれば直接聞いてくれればいいのだ。
「西さんに聞かずに、僕に聞いて下さい……」
「じゃあ聞くけど、趣味は何?」
「えっと……」
やはやり聞かれても困る事はあると理人は悩む。
「ありません。あえて言うなら家事って事で。あんまりアピールできないけど、就活の時にも料理で通してたんです。じゃあ黒崎さんは、黒崎さんの趣味は何なんですか」
「俺は、そうだな」
案外そう聞かれると迷う、黒崎はそう言って目線を上に上げる。
「前はバイクに乗って通勤してたし、一人でツーリングも行ってたな。車載動画をネットにアップしたりしたけど、今は全然」
「へえ、何だか意外」
「どこが?」
理人の偏見だろうが、取締役である黒崎にはやはり高級車のイメージがある。黒崎が贔屓にするこの店にしても、いい店である事は確かだが庶民的すぎて、最初は違和感しか持てなかった。
とにかく黒崎は、蓮と並んでも劣らない、いい男である事には間違いないのだ。
「とにかく、意外」
理人は質問を小さく流し、食べる事に集中した。
ごちそうさまでしたと声を掛け店を出る。最初こそ黒崎に奢ってもらったのだが、それ以降はきっちり割り勘だ。カードを使えないのは難点だが、それがここに通わなくなる理由にはならない。
食べ歩きとか、店の開拓とかも面白いかもしれない。
西に食べさせてもらった炉端料理も美味しかった。世の中には自分の知らない味がまだ沢山ある。
「さぶっ」
扉一枚向こうの世界は表面の温度を一気に奪うほど凍えていた。
黒崎はマフラーを肩にかけ、一方の端を後ろに流す。首に一重に巻いただけなのに、妙に決まっている。丈の短いステンカラーのコートはスマートで大人の落ち着きがあった。
一方の理人はというと、変わらず黒のキルティング。寒がりに相応しくしっかり太腿は隠れている。男性にしては可愛いと後輩に言われたが、似合っているとも言われたので愛用している。
それなのに普段より寒気を感じるのは、今日は家にマフラーを忘れてきたからだ。
「理人が寒そうに見えるのは、やっぱりいつものマフラーがないからだな」
「忘れると悲惨なんで、これからは会社にも予備を置いておきます」
首を縮めて駅へと歩き出す。
大通りから外れた店前は人通りが少なく、細い道に二人並んだ。
「理人」
「えっ……」
後で黒崎が立ち止まり、理人は振り向く。
すると、黒崎は巻いていたマフラーを取り、理人に掛けてきた。
「俺は理人みたいなお洒落な巻き方知らないんだけどさ」
「えっ、黒崎さん、僕はいいですよ」
「いいのいいの」
ビジネスバックを足に挟み、長い布をどうにかしようと格闘している。
結局二重に巻き付け、フリンジのある裾を内側に隠す。
「こんなもんだろ」
仕上がりに満足したらしく、最後に布を上に引っ張り、理人の顎まで隠れるように調節する。
「やっぱり、理人にはこれだよな。俺はいらないから、よかったらもらってくれ」
「そんな、だめです」
「理人の真似してあの店で買ったけど、結局俺には似合わないし、首回りが邪魔なんだ」
「もしかしてルームウェア買った時に一緒に買ったんですか?」
「そう。だからこれはその礼にやる。あの部屋着なかなかいいよ、もう一着欲しいくらい」
「これ、本当に、いいの?」
素直にもらってしまっていいのだろうか。それに断った所で黒崎には言いくるめられてしまいそうだ。
理人は巻いてもらったそれに手をやる。端に色違いのラインが複数入っていて、巻いた角度によって表情を変えとても黒崎に似合っていたのに。
「買うならやっぱり無難なブラックかグレーでよかったな。俺にはあれだが理人には似合ってる。そのつもりはなかったけど、理人に似合うのを探してたのかもな」
理人の手をぽんぽんと軽く叩く。
その瞳は優しすぎて、だから目を逸らしてしまう。
黒崎さんの意図がわからない。僕に似合う物を探していたかもって、それじゃまるで……
どう答えていいものか理人が戸惑っていると、顔に黒崎の影が差す。
「えっ……」
薄く唇が開いた所で、黒崎のそれが重なった。
時間にすれば一秒にも満たない。それなのに、自分とは違う僅かな熱がそこからじわじわと広がる。
目を見開く理人を息がかかるほど近くで黒崎が見下ろす。
「そんなにじっと見つめられると、照れるな。ちょっとマフラーが邪魔」
それを匂わせる素振りなどない、けど、黒崎の息は心なしか上がっている。
「ここ、ここっ、路上ですっ」
「誰もいないから」
ようやく出た声は妙に上ずっていたが、黒崎は一度口角を上げた後、次はゆっくりと、理人がそれを覚悟できる速度で近付きキスをした。
これは、恥ずかしい……
避けようと思えばできた。それなのに、理人は自然に瞼を閉じていたのだ。
さっきよりは幾分長く、二人の温度差を感じられる時間。
同じようにゆっくりと離れていく黒崎の唇から目が離せない。
「やっぱり、理人の唇はは気持ちいいな」
「何で、そういう事を平気でいえるのっ」
「でも本当だから」
理人はマフラーをたくし上げ、口許を隠す。すると思いもせずに黒崎の香りが胸いっぱいに広がる。
すごく、いい匂い。
首だけでなく全身が包まれている気を起こさせる、そんな錯覚に陥る。
トクトクと煩かった鼓動が更に早くなる。時に内側からドクンと大きく突き上げるのだ。
「こうでもしないと、理人は俺を意識してくれないみたいだから」
「そんな事……」
……ない。本当はずっとずっと、意識しすぎて不自然になっている。
「もしかしたら勘違いしてるかもしれないから言うけど、俺はお前の友達、楓が嫌いだよ」
「楓……どうして。黒崎さんは楓の事、楓ちゃんなんて呼んでたのに」
「嫌いだからだよ。でも蓮の相手を傷つける訳にはいかないから、わざとそうして自分を偽ってるんだ。楓ちゃんに対してオラオラ系にならないように」
「なんか、複雑すぎて理解できないけど」
「俺は楓が嫌い、それだけを知ってくれてればいい」
「う、ん」
黒崎は理人の肩をぽんと叩き、先に歩き出し、またすぐに立ち止まり振りむく。
「なあ、理人。今度時間が空いた時は、じっくり向き合って話をしないか?」
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