16 / 57
16 忙しいジェイク、暇な俺
しおりを挟む
「ねえ、ジェイク、外に出ていい?」
書斎をノックして扉を薄く開ける。返事を待たなくても開けていいと言われているからそうするけど、すぐに室内には入らないようにしている。
椅子に座ったまま腰からこちらを向くジェイクに疲労は見えない。けれどたまに、のど渇かない? とかトイレ行かないの? なんて声を掛けないと時間を忘れて没頭してしまう困った大人だ。
「遠くはダメだからな」
「わかった。ねえ……俺と結婚してくれない?」
「……トモエが大きくなったらまた求婚してくれるか」
何度かプロポーズしてきたが、つれない返事しかもらえていない。
子供相手なんだからそこは、いいよって言ってくれればいいものを、ジェイクはきっちり断ってくるから辛い。
あれから数日して、部屋には荷物の荷物が三つ届いていた。それは国境から自分で送った生活用品みたいで、一階のファルの店に届いていた。それからまた数日たって届いた書類封筒は三センチもある分厚い物が二つ。
それからのジェイクはちょっと忙しいみたいで、書斎に置いたデスクにむかったまま書類をさばくことに専念している。前に言っていた通り、休暇中であるのに仕事をするようになってしまった。
書類の文字を丹念に読んで、それから何やら書きつける。不自然なほど濃い緑に染められた羽根ペンの羽根が、何かを思案する度にぴたりと止まる。読み飛ばしなんて絶対にしない感じ。それは時間のかかる作業だ。
国境で集中して仕事をする期間、モランでの休暇中はしっかり休みを取る。そんなスタンスでメリハリを持つというふうにはいかないみたいだ。
しかも書斎にこもりきりの書類仕事。薬師でありながら組織に属しているのだろうか。どうも一匹狼、自営業とは違うようだ。
だから俺は暇だった。
出掛けるのはジェイクに頼まれた郵便を出しにいくのと、食事の買い出し。どっちも少し歩いただけの近所で済ませている。
この世界にテレビはない、もちろんパソコンも。そうなると娯楽なんて本を読む事くらいしかない。あとは飲食店や広場にやってくる演奏家たちの、バイオリンやギターの演奏を聞く事くらいだ。
この世界にはまだ録音技術がない。だから音楽はすべて生演奏で聞く。弦楽器はそれほど格式高いイメージはなく、流しの演奏家もいるし庶民でもたまに弾ける人がいる。
演劇も一般的だけど、それはホールでの興行となるから、お金も必要だし大人同伴でなければ観る事ができない。すごく興味はあってもジェイクが忙しすぎてねだろうとは思わなかった。
だったら一人で外へ出てあちこち探検と行きたい所だけど、子供一人で遠くへ行くのは危ないと、ジェイクは限られた場所に行く事しか許してくれないのだ。
つまらない。
ジェイクは俺の側にやってきて、ぶーたれる俺の丸ほっぺを軽くつねる。
「じゃあ、ファルさんの店に行ってくる」
「ああ、店で買い物してきてもいいからな」
「ふぁーい」
このやり取りは何度かしているけれど、ジェイクは絶対に折れない。俺が誘拐されたりイタズラされちゃうような、か弱き少年にでも見えるのだろう。
俺の顔は初日は泣き過ぎで顔全体が腫れぼったかった。今はむくみが取れているけれど、少しましになった程度だ。
一度冷静になって俺の顔を見ろよと言いたいけど、もうジェイクの脳の中には特殊フィルターがかかっている。
だから手足の短い腹ぽて出べそでも、庇護すべき少年に映ってしまう。恋愛フィルターみたいなもので、平凡がアイドルに見えてしまうようなものだろう。
「じゃあ、行ってきます」
床にしゃがみブーツを履き、玄関脇に置いてある紐付きの鍵を首にかけ、しっかり施錠する。
外階段をタタンタタンとリズムを付けて降り、最後の二段をひょいっと飛び着地した時、俺は見た。
おおっ……
「豚……!」
お前はあの時温もりを与えてくれた豚じゃないかっ。
二メートル先で遠くを見ていた野豚が俺の声にこちらを見る。
……!
あいつも声も出ないって感じで俺を見つめ、息をとめて動かなくなった。気がした。
お前、俺を探してさまよってたのか。しかもちょっと痩せてない? 豚のくせに。
俺は地べたに片膝をつき、そっと両手を広げて飛び込んでこいと意思表示した。だってこいつ気が弱いし、俺から行ったら気絶じゃなくて逃げるかもしれない。
『おいで』
『いい、の?』
野豚のうるんだ黒目が揺れる。
『いいから、こうしてるんじゃないか』
『やっと、やっと会えました……ぷぎゃ』
的な会話を視線で交わすと、やつはピュヒュっと情けない鼻声を上げて、俺のところにやってきた。
とことこ、とこここっ。
そんな控えめな足音で。
足元までやってきた豚を抱えて、頭を撫でてやる。やっぱりあいつだ。だってやっぱり抱かれるのに慣れてなくて、ひゅんって一瞬頭が落ちて、その後ブルッと頭を動かして持ち直したってことだ。
やったね、野豚ゲット。これは俺のペットだ。
前はペットなんて飼う余裕はなかったけど、犬を散歩させてる人を見ると羨ましかった。俺もリードつけて一緒に散歩したいなって。フリスビーとかボールで遊んでもらいたいなって。
まあ、こいつは豚だけど、こっちに来てから出会った第一生命体ってのは、何より尊い。
もっと慣れたら一緒に遊べるように躾けてやる。
俺は野豚を抱えてご機嫌でファルの店に入った。
ファルの店は日本で言う所の総合食品スーパーだ。
食品からちょっとした日用品まで揃えているが、売れ行きの悪い品物は埃を被っているからその辺はいい加減だ。
扉と開けるとおなじみの低いベルが鳴る。
「いらっしゃい」
新聞から顔を上げたファルさんは、俺の顔を見ると、挨拶して損したとばかりの顔をした。
「ファルさん、もうちょっと声張って挨拶した方が絶対にいいよ」
「それはわしの自由だ」
「だけど明るい挨拶って防犯効果もあるし」
ニコニコ明るい店員がしっかり顔を合わせて挨拶したら、強盗しようとしてた奴の気も削がれるって聞いた事がある。
俺はカウンターを回り込み、内側に入った。最初は嫌がられたけれど、俺が案外役に立つとわかってからは何も言われない。
「ねえ、ファルさん見て」
俺は腕に抱えた小さな野豚を見せるけど、ファルさんは顔面の片方だけしかめるという器用なことをする。
「育てて食うのか?」
「まさか」
豚=食う
やっぱり世間の認識はそうなのかと、俺は野豚を守るように抱きしめ直した。
「そいつは品種改良されてない野豚だから、脂も乗らないし食っても肉は硬いだろうな。育てても割に合わん。いらん」
「いらんって言われてもあげなってば。こいつはペットだもん。大人しい子だから首輪をしなくても逃げないとは思うけど、こいつを入れる箱ってない? ジェイクも前に飼っていいって言ってたんだ」
だいぶ前にだけど。
「うーん」
ちょうどいいのがあったかと、ファルさんは裏へと消える。
箱などないと断ることも、店に生き物を持ち込むなともいえるのに、何だかんだ面倒見がいいおじさんなのだ。
野豚との再会をジェイクに教えたかったけど今は大事な仕事中だ。それに店の方が近かったし、早く自慢したくてここっちに来ちゃってた。
豚。
俺だけの豚。
初めてのペット。
いつ宿無しになるかわからないから、恋人がいてもペットなんて到底飼う気になれなかったけど、やっと夢が叶う。
それに飼うならでっかい犬より小さくてキャンキャン吼える威勢のいいのがいいって思ってた。サイズ的にも文句なし。犬じゃなくて豚だけど。生気も薄めだけど。
ぐふぐふと笑っているちと、豚がピギッと声を震わせた。俺の低音ボイスが気持ち悪かったのかね。何か耳をペタンとして聞く事を拒否してる感じ。
「これでいいだろ」
ファルさんが裏から持ってきたのは、大きな物が収納できる木の箱で、足を抱えれば子供の俺でも入れそうなサイズ。
「こんな立派なのもらっていいの? ありがとうファルさん」
「ああ、そうそう。箱はやるが部屋では飼うなよ。ずっと飼うとなると臭いが染み付くかもしれん」
「ええ、じゃあ豚はどこにいればいいの?」
「外でいい。店の裏もうちの敷地だ。朝は暗いが午後には西日が差す。そこへ置いておけばいいだろう」
「でもずっと箱の中にずっといるのは可哀想だよ」
野生だったんだぞ広い所で生きてきたんだぞコイツは。
「ふん、わかった。裏に専用の柵を作ってやる。でもその間の店番は頼むからな」
「わかった」
そんくらいはするよ。俺が納得するとわかるとファルは俺の胸から豚を取り上げ箱にいれる。
おおっ。年寄りには強いのが豚は気絶せず、持ちこたえていた。豚は箱の中で足をプルプルさせてるけど、ファルさんはそんなことが見えてないのか、どうでもいいのか気にしていない。
「こいつは雌だな」
「そうなの!?」
野豚の戸惑いなどよそに体をひっくり返し、腹をあちこち撫でる。可哀想に、野豚の四肢はピーンと伸びて固まった。
よーく、よーく見ると、小さな突起が六つ並んでいる。なるほどこれは俺の胸にもあるぞ、俺のは一対だし乳はでないけど。
「外に出しておこう」
「え、そいつ女の子だぞ。大切にしなきゃでしょ」
「女の子じゃなくてメスだ」
ファルさんはそうドライな事を言って店のドアの外に箱を置いてきてしまった。
え、俺の大事な豚! 外に放置?
「あんな豚、誰も欲しいと思わないさ」
まるで売り物みたいだし、欲しいって言ってくる人がどうしようって思ったら、ファルさんはそう答えた。
うちの子はそんなにブサイクかよ。
自分に似た野豚の扱いにちょっと心が痛む。だけど性別もわかったぞ。そうか女の子か。可愛い名前を考えやらなきゃ。
ファルさんにもらった皿に水を入れて箱に入れておく。それを豚が飲むのを見届けて店内に戻った。
店の混み合う時間は決まっているのか、俺のお邪魔する時間は静かだ。
五十坪ほどの店内には高い棚がなく、店全体を広く見渡すことができる。
レジ近くの台には昨日今日で仕入れた物が並び、その奥には穀物類は家庭用サイズに小さく梱包され並べられている。
この町には専門店があって、パンならパン屋、野菜なら八百屋、服は洋品店がある。
でも一度で便利に済ませたい人はやっぱりいるらしく、少々割高のこの店を贔屓にする顧客に支えられている感じだ。
ファルさんも大きく儲けようなんて思ってないのか、それとも面倒なのか、売れない物の処分や、店内の改装や配置には手を付けていない。
日々の掃除はしているようだけど、俺は気になり出すとあちこち気になって、ファルさんに許可をもらって、これまで店内を掃除したり、商品を行儀よく並べたりしてきた。
「ねえ、この店の経理はどうなってるの?」
俺の為に用意されているスツールに苦労して昇り、隣に座るファルさんを見上げる。
「金のことは、子供が口出す事じゃない」
今までは俺の言動を大目に見てきたようだが、ファルさんはここで渋い顔をした。
「もしかして、ちゃんと帳簿付けてない? 面倒で? だから言えないんだ」
「わしの店だ。自由にしてもいいだろう」
図星だったらしく、ちょっと慌てている。
「ちょっと見せて」
俺はカウンター内側の棚にある帳簿を手にしたが、ファルさんはそれを止めなかった。そこにファルさんが数字をちょこちょこ書きつけているのはもう知っている。
まさか俺みたいな子供が数字を見た所で何もわからないと思っているんだろう。
しかし帳簿を開けて俺が愕然とする。
こんな適当でいいのかよ……
数字は端数まで出ておらず、あまりにもザックリと書きつけられている。
売掛けや買掛けはしてないみたいだけど、これは最終的にチェックする立場の人が可哀想だ。とういうか、そんな人がいるのかも謎だけど、税金だって納めてるんだよな……
こで主流の筆記具は羽根ペンだけど。この店のペン先はファルさんが自分で削り出しているせいか紙を引っかいたようにインクも滲んでいる。やっぱりファルさんは全体的に雑なのだ。
「こんな帳簿で文句言われない訳?」
「難しい事は息子に任せているから、わしには関係ない。大体の出入りを把握して、適当に食っていければいいんだからな」
犠牲者は息子さんだったか。
ファルさんは二階に一人暮らし、息子は別の仕事を持ち家族で近所に住んでいる事をファルさんはこれまでに教えてくれていた。
この店にあるのはレジではなく、現金保管庫になる箱だけだ。他の店にもレジらしきものはあるけれど、計算機能のない箱でしかないのは同じだ。
ファルさんは一人で切り盛りしてるけど、もし売り上げを誤魔化すような従業員がいても気付かないのだろう。
何だか色々と心配だ。店もファルさんも。
「ねえ、週に一度言わず、毎日売れたものとか、売り上げくらいは位は書いておけば?」
そう言っても耳をほじって聞いてやしないし。
「そんな嫌がる事ないじゃん。ねえ、ファルさんって幾つ?」
「五十だ」
「は? 五十? まだ若いのにたまにワシとか言っちゃってるの?」
見た目は日本の五十より遥かに老けている。俺の感覚では六十オーバーだ。きっと肌の手入れもしてこなかったんだろう、目尻には皺が深く刻まれている。
「五十だからって油断しちゃだめだよ。今から頭と指先を動かさないとボケるばっかりだから」
生意気な事を続ける俺だが、ファルさんは怒らない。それどころか「そうか?」と気にし始めているのが可愛らしい所だ。
俺はこんな風にしてすっかりファルの店の臨時店員になり、ジェイクが相手してくれない間の暇つぶし場所を作っていた。
書斎をノックして扉を薄く開ける。返事を待たなくても開けていいと言われているからそうするけど、すぐに室内には入らないようにしている。
椅子に座ったまま腰からこちらを向くジェイクに疲労は見えない。けれどたまに、のど渇かない? とかトイレ行かないの? なんて声を掛けないと時間を忘れて没頭してしまう困った大人だ。
「遠くはダメだからな」
「わかった。ねえ……俺と結婚してくれない?」
「……トモエが大きくなったらまた求婚してくれるか」
何度かプロポーズしてきたが、つれない返事しかもらえていない。
子供相手なんだからそこは、いいよって言ってくれればいいものを、ジェイクはきっちり断ってくるから辛い。
あれから数日して、部屋には荷物の荷物が三つ届いていた。それは国境から自分で送った生活用品みたいで、一階のファルの店に届いていた。それからまた数日たって届いた書類封筒は三センチもある分厚い物が二つ。
それからのジェイクはちょっと忙しいみたいで、書斎に置いたデスクにむかったまま書類をさばくことに専念している。前に言っていた通り、休暇中であるのに仕事をするようになってしまった。
書類の文字を丹念に読んで、それから何やら書きつける。不自然なほど濃い緑に染められた羽根ペンの羽根が、何かを思案する度にぴたりと止まる。読み飛ばしなんて絶対にしない感じ。それは時間のかかる作業だ。
国境で集中して仕事をする期間、モランでの休暇中はしっかり休みを取る。そんなスタンスでメリハリを持つというふうにはいかないみたいだ。
しかも書斎にこもりきりの書類仕事。薬師でありながら組織に属しているのだろうか。どうも一匹狼、自営業とは違うようだ。
だから俺は暇だった。
出掛けるのはジェイクに頼まれた郵便を出しにいくのと、食事の買い出し。どっちも少し歩いただけの近所で済ませている。
この世界にテレビはない、もちろんパソコンも。そうなると娯楽なんて本を読む事くらいしかない。あとは飲食店や広場にやってくる演奏家たちの、バイオリンやギターの演奏を聞く事くらいだ。
この世界にはまだ録音技術がない。だから音楽はすべて生演奏で聞く。弦楽器はそれほど格式高いイメージはなく、流しの演奏家もいるし庶民でもたまに弾ける人がいる。
演劇も一般的だけど、それはホールでの興行となるから、お金も必要だし大人同伴でなければ観る事ができない。すごく興味はあってもジェイクが忙しすぎてねだろうとは思わなかった。
だったら一人で外へ出てあちこち探検と行きたい所だけど、子供一人で遠くへ行くのは危ないと、ジェイクは限られた場所に行く事しか許してくれないのだ。
つまらない。
ジェイクは俺の側にやってきて、ぶーたれる俺の丸ほっぺを軽くつねる。
「じゃあ、ファルさんの店に行ってくる」
「ああ、店で買い物してきてもいいからな」
「ふぁーい」
このやり取りは何度かしているけれど、ジェイクは絶対に折れない。俺が誘拐されたりイタズラされちゃうような、か弱き少年にでも見えるのだろう。
俺の顔は初日は泣き過ぎで顔全体が腫れぼったかった。今はむくみが取れているけれど、少しましになった程度だ。
一度冷静になって俺の顔を見ろよと言いたいけど、もうジェイクの脳の中には特殊フィルターがかかっている。
だから手足の短い腹ぽて出べそでも、庇護すべき少年に映ってしまう。恋愛フィルターみたいなもので、平凡がアイドルに見えてしまうようなものだろう。
「じゃあ、行ってきます」
床にしゃがみブーツを履き、玄関脇に置いてある紐付きの鍵を首にかけ、しっかり施錠する。
外階段をタタンタタンとリズムを付けて降り、最後の二段をひょいっと飛び着地した時、俺は見た。
おおっ……
「豚……!」
お前はあの時温もりを与えてくれた豚じゃないかっ。
二メートル先で遠くを見ていた野豚が俺の声にこちらを見る。
……!
あいつも声も出ないって感じで俺を見つめ、息をとめて動かなくなった。気がした。
お前、俺を探してさまよってたのか。しかもちょっと痩せてない? 豚のくせに。
俺は地べたに片膝をつき、そっと両手を広げて飛び込んでこいと意思表示した。だってこいつ気が弱いし、俺から行ったら気絶じゃなくて逃げるかもしれない。
『おいで』
『いい、の?』
野豚のうるんだ黒目が揺れる。
『いいから、こうしてるんじゃないか』
『やっと、やっと会えました……ぷぎゃ』
的な会話を視線で交わすと、やつはピュヒュっと情けない鼻声を上げて、俺のところにやってきた。
とことこ、とこここっ。
そんな控えめな足音で。
足元までやってきた豚を抱えて、頭を撫でてやる。やっぱりあいつだ。だってやっぱり抱かれるのに慣れてなくて、ひゅんって一瞬頭が落ちて、その後ブルッと頭を動かして持ち直したってことだ。
やったね、野豚ゲット。これは俺のペットだ。
前はペットなんて飼う余裕はなかったけど、犬を散歩させてる人を見ると羨ましかった。俺もリードつけて一緒に散歩したいなって。フリスビーとかボールで遊んでもらいたいなって。
まあ、こいつは豚だけど、こっちに来てから出会った第一生命体ってのは、何より尊い。
もっと慣れたら一緒に遊べるように躾けてやる。
俺は野豚を抱えてご機嫌でファルの店に入った。
ファルの店は日本で言う所の総合食品スーパーだ。
食品からちょっとした日用品まで揃えているが、売れ行きの悪い品物は埃を被っているからその辺はいい加減だ。
扉と開けるとおなじみの低いベルが鳴る。
「いらっしゃい」
新聞から顔を上げたファルさんは、俺の顔を見ると、挨拶して損したとばかりの顔をした。
「ファルさん、もうちょっと声張って挨拶した方が絶対にいいよ」
「それはわしの自由だ」
「だけど明るい挨拶って防犯効果もあるし」
ニコニコ明るい店員がしっかり顔を合わせて挨拶したら、強盗しようとしてた奴の気も削がれるって聞いた事がある。
俺はカウンターを回り込み、内側に入った。最初は嫌がられたけれど、俺が案外役に立つとわかってからは何も言われない。
「ねえ、ファルさん見て」
俺は腕に抱えた小さな野豚を見せるけど、ファルさんは顔面の片方だけしかめるという器用なことをする。
「育てて食うのか?」
「まさか」
豚=食う
やっぱり世間の認識はそうなのかと、俺は野豚を守るように抱きしめ直した。
「そいつは品種改良されてない野豚だから、脂も乗らないし食っても肉は硬いだろうな。育てても割に合わん。いらん」
「いらんって言われてもあげなってば。こいつはペットだもん。大人しい子だから首輪をしなくても逃げないとは思うけど、こいつを入れる箱ってない? ジェイクも前に飼っていいって言ってたんだ」
だいぶ前にだけど。
「うーん」
ちょうどいいのがあったかと、ファルさんは裏へと消える。
箱などないと断ることも、店に生き物を持ち込むなともいえるのに、何だかんだ面倒見がいいおじさんなのだ。
野豚との再会をジェイクに教えたかったけど今は大事な仕事中だ。それに店の方が近かったし、早く自慢したくてここっちに来ちゃってた。
豚。
俺だけの豚。
初めてのペット。
いつ宿無しになるかわからないから、恋人がいてもペットなんて到底飼う気になれなかったけど、やっと夢が叶う。
それに飼うならでっかい犬より小さくてキャンキャン吼える威勢のいいのがいいって思ってた。サイズ的にも文句なし。犬じゃなくて豚だけど。生気も薄めだけど。
ぐふぐふと笑っているちと、豚がピギッと声を震わせた。俺の低音ボイスが気持ち悪かったのかね。何か耳をペタンとして聞く事を拒否してる感じ。
「これでいいだろ」
ファルさんが裏から持ってきたのは、大きな物が収納できる木の箱で、足を抱えれば子供の俺でも入れそうなサイズ。
「こんな立派なのもらっていいの? ありがとうファルさん」
「ああ、そうそう。箱はやるが部屋では飼うなよ。ずっと飼うとなると臭いが染み付くかもしれん」
「ええ、じゃあ豚はどこにいればいいの?」
「外でいい。店の裏もうちの敷地だ。朝は暗いが午後には西日が差す。そこへ置いておけばいいだろう」
「でもずっと箱の中にずっといるのは可哀想だよ」
野生だったんだぞ広い所で生きてきたんだぞコイツは。
「ふん、わかった。裏に専用の柵を作ってやる。でもその間の店番は頼むからな」
「わかった」
そんくらいはするよ。俺が納得するとわかるとファルは俺の胸から豚を取り上げ箱にいれる。
おおっ。年寄りには強いのが豚は気絶せず、持ちこたえていた。豚は箱の中で足をプルプルさせてるけど、ファルさんはそんなことが見えてないのか、どうでもいいのか気にしていない。
「こいつは雌だな」
「そうなの!?」
野豚の戸惑いなどよそに体をひっくり返し、腹をあちこち撫でる。可哀想に、野豚の四肢はピーンと伸びて固まった。
よーく、よーく見ると、小さな突起が六つ並んでいる。なるほどこれは俺の胸にもあるぞ、俺のは一対だし乳はでないけど。
「外に出しておこう」
「え、そいつ女の子だぞ。大切にしなきゃでしょ」
「女の子じゃなくてメスだ」
ファルさんはそうドライな事を言って店のドアの外に箱を置いてきてしまった。
え、俺の大事な豚! 外に放置?
「あんな豚、誰も欲しいと思わないさ」
まるで売り物みたいだし、欲しいって言ってくる人がどうしようって思ったら、ファルさんはそう答えた。
うちの子はそんなにブサイクかよ。
自分に似た野豚の扱いにちょっと心が痛む。だけど性別もわかったぞ。そうか女の子か。可愛い名前を考えやらなきゃ。
ファルさんにもらった皿に水を入れて箱に入れておく。それを豚が飲むのを見届けて店内に戻った。
店の混み合う時間は決まっているのか、俺のお邪魔する時間は静かだ。
五十坪ほどの店内には高い棚がなく、店全体を広く見渡すことができる。
レジ近くの台には昨日今日で仕入れた物が並び、その奥には穀物類は家庭用サイズに小さく梱包され並べられている。
この町には専門店があって、パンならパン屋、野菜なら八百屋、服は洋品店がある。
でも一度で便利に済ませたい人はやっぱりいるらしく、少々割高のこの店を贔屓にする顧客に支えられている感じだ。
ファルさんも大きく儲けようなんて思ってないのか、それとも面倒なのか、売れない物の処分や、店内の改装や配置には手を付けていない。
日々の掃除はしているようだけど、俺は気になり出すとあちこち気になって、ファルさんに許可をもらって、これまで店内を掃除したり、商品を行儀よく並べたりしてきた。
「ねえ、この店の経理はどうなってるの?」
俺の為に用意されているスツールに苦労して昇り、隣に座るファルさんを見上げる。
「金のことは、子供が口出す事じゃない」
今までは俺の言動を大目に見てきたようだが、ファルさんはここで渋い顔をした。
「もしかして、ちゃんと帳簿付けてない? 面倒で? だから言えないんだ」
「わしの店だ。自由にしてもいいだろう」
図星だったらしく、ちょっと慌てている。
「ちょっと見せて」
俺はカウンター内側の棚にある帳簿を手にしたが、ファルさんはそれを止めなかった。そこにファルさんが数字をちょこちょこ書きつけているのはもう知っている。
まさか俺みたいな子供が数字を見た所で何もわからないと思っているんだろう。
しかし帳簿を開けて俺が愕然とする。
こんな適当でいいのかよ……
数字は端数まで出ておらず、あまりにもザックリと書きつけられている。
売掛けや買掛けはしてないみたいだけど、これは最終的にチェックする立場の人が可哀想だ。とういうか、そんな人がいるのかも謎だけど、税金だって納めてるんだよな……
こで主流の筆記具は羽根ペンだけど。この店のペン先はファルさんが自分で削り出しているせいか紙を引っかいたようにインクも滲んでいる。やっぱりファルさんは全体的に雑なのだ。
「こんな帳簿で文句言われない訳?」
「難しい事は息子に任せているから、わしには関係ない。大体の出入りを把握して、適当に食っていければいいんだからな」
犠牲者は息子さんだったか。
ファルさんは二階に一人暮らし、息子は別の仕事を持ち家族で近所に住んでいる事をファルさんはこれまでに教えてくれていた。
この店にあるのはレジではなく、現金保管庫になる箱だけだ。他の店にもレジらしきものはあるけれど、計算機能のない箱でしかないのは同じだ。
ファルさんは一人で切り盛りしてるけど、もし売り上げを誤魔化すような従業員がいても気付かないのだろう。
何だか色々と心配だ。店もファルさんも。
「ねえ、週に一度言わず、毎日売れたものとか、売り上げくらいは位は書いておけば?」
そう言っても耳をほじって聞いてやしないし。
「そんな嫌がる事ないじゃん。ねえ、ファルさんって幾つ?」
「五十だ」
「は? 五十? まだ若いのにたまにワシとか言っちゃってるの?」
見た目は日本の五十より遥かに老けている。俺の感覚では六十オーバーだ。きっと肌の手入れもしてこなかったんだろう、目尻には皺が深く刻まれている。
「五十だからって油断しちゃだめだよ。今から頭と指先を動かさないとボケるばっかりだから」
生意気な事を続ける俺だが、ファルさんは怒らない。それどころか「そうか?」と気にし始めているのが可愛らしい所だ。
俺はこんな風にしてすっかりファルの店の臨時店員になり、ジェイクが相手してくれない間の暇つぶし場所を作っていた。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
541
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる