こうもりのねがいごと

宇井

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 崖からほんの十分ほどで家に到着した。

 おかしい。できるだけ真っ直ぐ直線を狙って進んでいたのに、僕はどこをどう歩いていたのだろう。

 木々に弄ばれ同じ場所をぐるぐる周り、同じ場所を何度も通っていたのだとしたら虚しい。
 コウが迷わされているのにこっそりと付き合っていたアスランも相当根性があると言えるだろう。

 そして、目の前にある家は家というより小屋だった。
 地面に直接打ち付けた木板。屋根は片流れで玄関側から奥へと向かって高くなっており、やはりただ板を渡して固定しただけに見える。
 手作り感が満載で、見目よく作ろうとは思わなかった気配がうかがえる。
 ただその小屋の周りには大きな黄色の花びらをつけた植物が群生していて煉瓦で囲われている。質素な家にわずかな華を添えている感じだ。

 コウはアスランの胸の中できょろきょろと目を動かしていた。
 コウがここに到着してもまだ腕の中にいたのは、アスランが離さないから。
 ここに到着するまでの間に、コウはアスランに何かをつぶやかれる度に縮みあがっていた。舐められ味見さえることも、齧られることもなかったけれど、ちょっとだけ、まだ怖い。

 食べたい発言の合間に、アスランは少しこの土地のことを教えてくれたことは、コウにとってはとても信じられない事実だった。
 ここはやはり常に青天の場所であり、雨も降らず雷も鳴らず風も吹かない。虫などの小さな生き物さえも生息しない特殊な場所のだと。
 そんなの嘘だというより、やっぱりそうなんだとコウは素直に頷ける。

「コウ、この家の周囲だけは願いが通じぬ治外法権だ」
「ちがうほうけん……」
「治外法権というのは、こちらの領域を侵せないと言うこと。だからここで私が何を言おうが地上で過ごしているのと同じ。そして、この家は何代もの祖先が引き継ぎながら建てたもの。風も雨もなく風化せず、中はまだ木の匂いがする。中にある食卓やいすも手作りなのは、木工の得意な先祖もいたと言うことだろう。家はともかく家具はなかなかの出来だ。その花も誰かが種を持ち込み植えたのだろう。森では見かけない種だ。住んでいるうちに、色々とわかってくる」

 そう説明されると小屋の外観にも納得いく。
 家には風化が見られない。たった今建てられたようにも見えるかと思えば、そうではない使い込んだ様子が扉からは見られ、どこかちぐはぐしている。
 本来あるべき経年による劣化はないのに、人が使った形跡はうかがえるのだ。

「これは、アスラン様のご先祖様がこつこつと作られて、住んできた場所なんですね。歴史のある大切な場所なのですね」
「そんな大層なものではない。自分のやりたいように、時間が有り余っていたからやったのだろう。何しろここには人がいない、まったく娯楽がない」
「それでも、ここにいると僕でもほっとします。目には見えない何かに温かい目で見守れている安心感があります。その存在を感じます」
「そうか。コウがそう言うのであれば、そうなのだろう」
「アスラン様は、いつからここへお住まいなのですか?」
「二週間前だ。地上でやるべきことはやった。今はただひとりになり、何にも囚われない時間を過ごすために来た。上にいると何かとうるさい奴が次から次へとやって惑わされるだけだ。我々が本当に安息を得られるのは、この地だけなのかもしれないと思ってな」
「でしたら、ここに、僕がいてもいいのですか? 本当にいいのですか?」

 わずらわしさから逃げてきたと言うのに、突然やってきた存在を易々と受けいれられるのだろうか。
 声の主様が説得に時間が掛かるかもと言ったことも、アスランが人はいらぬと言ったのも、理由を知れば理解できる。
 この人にはきっと一人きりになる時間が必要だったのだ。
 アスランが何を生業としてきた人かは不明だが、とても大変な役割を負ってきたのだろう。
 そんな人を慰める場所に、僕がいてもいいのだろうか。休暇になるのだろうか。コウは不安になる。

「コウ、お前はきっと私の役に立つ。慰めになる」

 アスランがコウを抱いて離さないまま、扉を器用にあける。アスランの体は大きくコウを抱えて別の動作をしても安定感がある。
 鍵はそもそも取り付けられておらず、ノブだけがある扉。
 立て付けが悪いのか、内側に押す時にギギッと木が鳴ったが、その後は滑るように開いた。これなら力は必要ないから非力なコウでも不自由なく開閉できるだろう。
 中に入ったコウが室内を見渡す。

「天井が高くて思ったより広く感じます。ちょっとすごいけれど、大丈夫です」
「改めて見るとなかなかのものだ。しかし、よくここまでで抑えたと自分を褒めてやりたい。驚いたか?」
「いえ、かえってやる気が出てきます。ちらかしてくれたことに感謝したいほどです。本当にそう思うのです」

 室内は広かった。
 入ってすぐに目が吸い寄せられるのは、部屋の真ん中にある二つ並んだカマド。
 腰の高さにまで台座があり、横から薪をくべる蓋付きの鉄扉がある。丸く開いた穴にはすっぽりはまるサイズの鍋が置かれている。
 カマドの上には丸い黒色のダクトがあり天井を抜け屋根に出ている。
 玄関扉を入ってすぐ左横は水場。水栓がありタイルの貼られたシンクがあり、その横には取ってのついた食糧庫がある。食糧庫の幅は両手を広げて足りないくらい、二メートルほどだ。
 しかし、その食糧庫の扉があき、そこからデロンと出ているのは長いブーツだった。

 食糧庫に靴……

 視線を戻してカマドを見る。
 見る限り使われた形跡はない。
 カマドの向こうには器用な先祖が作ったというどっしりとした食卓セット。その上には乱雑に服が積まれている。
 奥の壁に沿って設置された胸の高さの抽斗のあるチェストの上も、袋のような物が適当に乗せられ、その端が今にも落ちそうにだらしなくしている。
 玄関の右がリビングスペースで、三人掛けのソファが一つ窓に向かって設置され、その前には低い丸机が置かれている。
 リビングスペースもあちこち、物だらけだ。
 救いなのは通り道が確保されていることだろうか。まさに無精な一人暮らしの独身男性の部屋そのものと言っていい。

 部屋の整理なら僕にもできる。

 自分が役に立つというのは本当らしい。ここを片付ければ役に立ったとアスランに思ってもらえるだろう。
 自分にもできることを早々に見つけコウはほっとする。
 普通ならここまで散らかした人に呆れる所だろうが、コウはそうではなかった。

 慣れない暮らしに戸惑うのは、誰にもあることだから……

 誰の世話にならずにやれるとアスランがいっていた通り、しばらくすればアスランは片づけの方法を学んで、声の主様にも心配かけない生活を送るようになるだろう。
 これまではきっと周りにいる人達が、アスランが心地よく暮らせるように動いてきた。そんな生活をしてきた人なのだ。
 それに雑事に追われては休暇にならない。ここへ来た意味がない。
 目の前にある惨状を見ても、片付けの意欲がわいてくるだけでなく嬉しくなってしまう。
 
「ずっと身の回りのことは人に任せてきた。ここに来てわかったことだが、私は家事や整理整頓が苦手のようだ。手をだしてみたもののこの状態だ」
「きっとアスラン様は他のことに才があるんです。だったら家事を極めなくてもいいのです。家のことは僕がやります。アスラン様はゆっくりなさってください。その為に僕もアスラン様もここへ来たのですから」
「そうだな。家のことは全面的にコウに頼む」
「はい、頼まれました。頑張ります。よろしくお願いします」

 どーんと任せてくださいと笑ってみせる。
 
 ここでようやくアスランから解放されたコウは、自らの足で部屋を散策する。
 玄関を入ってすぐ右側にリビング。左にダイニングキッチン。
 ダイニングキッチンの奥には個室が二つあり、片方がアスランの寝室、もう片方は色んな荷物が押し込められている納戸。
 抱えてきた木の実は捨てるのには惜しく、外の花壇の脇に置いておいた。
 アスランに勧められ台所の水道で軽く手と体を洗うと、驚くほどさっぱりした。
 石鹸も使っても取れない指の黒ずみがみるみる薄くなってしまって、もう何年も目にすることがなかった、自分の肌色の手をかかげてしばらく呆然としてしまう。
 それでもアスランに呼ばれて急いで寝室へ向かうと、問題が発生した。

 ベッドが一つしかないから、一緒に寝ようとアスランが誘ってきたのだ。
 コウは元々同じ部屋で眠るつもりなどなかった。自分達は主従の関係なのでそれは当たり前であり、別の部屋の片隅で眠ると遠慮したのだが、アスランの剛腕に囲われてしまったのでベッドで一緒に眠ることになった。
 ベッドはダブルのサイズだから問題ない。主人が良いと言うのなら、命令ならばいいのだろう。コウは大人しく横になる。
 実はベッドを使うのは初めてで、かなり緊張していた。
 柔らかな心地は疲れた体に優しい。
 借りて着替えたばかりのアスランのシャツも肌にしっとりとして、柔らかな乳白の繭にでも包まれているかのようだ。ただ、大きなシャツの中で体が泳いでいる。

「あの……アスラン様?」

 横になると肩幅が合わず右の肩の丸みが出てしまう。その部分を食い入るように見つめるアスランの視線が痛い。
 耳から肩にかけての部分が一番齧りやすいのだろう。狙われているのを感じる。
 それも仕方がないことだ。自分はアスランの食欲をそそる匂いがするらしいのだ。だけどそれは、自分を蔑み馬鹿にするような目より全然ましだ。

 どうか無事に、朝を迎えられますように……

 コウは温かなアスランの胸の中ですぐに眠りに入っていた。
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