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第三章:クラスアート実行委員、始動!
【匂蕃茉莉(においばんまつり)②】
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十分ほど歩いたところで左右の木々が途切れ、開けた空間に出た。
砂丘のように緩やかに起伏した草地が広がっており、白や、紫色の花をつけた植物が群生している。丘の奥側は断崖になっているらしく、満月を中心に添えた紺碧の空と、一望できる街の夜景が背景となってまるで一枚絵のようだ。
吹いた一陣の風が、下草を揺らす。煌々と降り注ぐ月明りが、植物の輪郭線を鮮明に際立たせる。
水瀬が描いた絵と寸分違わぬ構図。彼女に確認を取るまでもなく、ここが目的の場所なのだと理解した。
それにしても、と息を呑んでしまう。確かに水瀬の絵は上手いが、こうして実際の光景を目の当たりにすると迫力がまるで段違いだ。
「凄い」
ごく自然にもれる呟き。ずっと手を繋いでいたままだったのに気がつくと、「ごめん」と言いながら手を解いた。
「どうして謝るの?」と不思議そうな顔で水瀬が首を傾げる。
「ねえ、早坂君」
「……ん?」
「綺麗でしょ」
「ああ、最高だ」
言いながら、もっと上手い返しはないのかと自分の語彙力のなさに辟易する。
ぐるりと視線を巡らして、景観の良い場所を探し彷徨い歩く。やがて足を止めると、各々、景色を切り取るための作業に入った。
肩にかけていた鞄の中から一眼レフのカメラを取りだすと、三脚の高さを調節しながらセットした。写真が趣味である父親から無理を言って借りてきたもので、僕がカメラにわりと精通しているというのも、そもそも父親の影響なのである。
夜間の撮影は、昼間と違ってレンズに入ってくる光の量が著しく少なくなるため、長い間露出 (長時間露光)する必要がある。その為手ぶれがあると、ぶれた分だけ光の筋が写ってしまい写真がぼやける結果をうむ。
これが、三脚が必須である理由。もちろん全て父親の教えである。
血の繋がっていない父親だが、普段から他人行儀な態度はおくびにも出さない。正直、家族仲はいい方だと思う。家の中で顔を合わせれば、本物の親子より少しだけ気を遣った口調で話しかけてくる。カメラの扱い方について尋ねたとき、熱を帯びたように語ってくれた姿を、まるで昨日のことのように覚えている。
なのに、ギクシャクしてしまう瞬間というのはやはりあって、そうなってしまうのは、多分、僕が過剰な遠慮をして壁を作ってしまうのが原因で。そんな事実を認識するたび、心がひりっとした痛みをうったえる。
暗い場所での撮影というのは想像通り難易度が高い。だが、絞り優先オートに設定してしまえば、そこまでカメラに精通していなくても難易度を下げられる。絞り優先オートとは、撮影者が絞り設定のみを決めると、周りの明るさに合わせてシャッター速度をカメラが自動で調節してくれるというもの。暗い場所だとオートフォーカスが上手く機能しない時があるので、ピントだけは自分で合わせるほかないが。
視界いっぱいに広がる丘陵地の姿に圧倒されつつも、無心でシャッターを切った。似かよった構図ばかりにならぬよう、場所と角度を変えながら撮影を繰り返していく。
スケッチブックの上にペンを走らせていた水瀬だが、やがて紫色の花の側にしゃがみ込んだ。おおよそ満足できる写真を撮り終えていた僕も、彼女に倣って隣にしゃがんでみる。
花を付けている植物の樹高はそんなに高くない。硬質な濃い緑色の葉っぱを枝いっぱいに付け、五枚の花びらを付けた白や紫色の花を幾つも咲かせていた。
「綺麗な花だね」
「そうでしょ? これはね、匂蕃茉莉という名前の花なの」
「においばんまつり? 聞いたことが無い名前だ」
「そうかもね」と屈託なく水瀬が笑う。「この花は、ブラジルやアルゼンチンなどの南アメリカが原産地だから」
その後も水瀬は熱を帯びたように話し続ける。艶やかな赤い唇がなめらかに旋律を紡ぎ、睫毛の長い瞳が何度か瞬いた。
花の色には白、淡い紫、濃い紫と様々あれど、全て匂蕃茉莉の花だということ。咲き始めは濃い紫色から始まり、次第に淡い紫に変化し最後は白色になること。花の魅力はむしろ芳香にあり、夜になると特に香りが強くなるということ。
匂蕃茉莉が夜に咲く花、と呼ばれてる所以について、そう説明を加えたあと、水瀬は一旦言葉を切った。細い鼻筋。整った彼女の横顔が、寂しげな表情をたたえ月明かりの中シルエットとなり浮かび上がる。
持病のせいもあり、僕は女の子の顔を注視した経験に乏しい。生まれて初めて見た気すらしてしまう儚げな表情に、胸の奥深いところで、小さな疼きが芽吹いたのを感じる。なぜ彼女はそんな顔をするのだろう、と暫し考え、結局、なにひとつ心当りがなかった。
「水瀬」
反射的に彼女の名前を呼ぶと、ハッと我に帰ったように、水瀬がこっちを向いた。
「ごめん」と照れくさそうに顔を伏せる。「あたし一人で喋りすぎたかな」
「いや、そんなことないよ。普段と違う君の姿が見られて、なかなかに興味深かった」
「アハハ……。やめて、なんだか恥ずかしいよ」
「でも、本当に綺麗な場所だと思う。夜景もだけど、何より花と香りかな。水瀬がこの場所を題材にしたいと言ったのも頷けるっていうか。よくこんな場所を知っていたね?」
頭に浮かんだ疑問を口にすると、水瀬がすっと目を細めた。半開きになっていた唇をきゅっと結び、それから視線を正面に戻した。
「ここはね、隣町から引っ越してきた最初の頃に、お母さんと二人で来た思い出の場所なの」
「お母さんと。……二人だけで?」
「そうだよ。あたしのお父さん。小さいときに亡くなっちゃったから」
「あっ、ごめん」
迂闊な発言を、即座に後悔した。話の流れから予見できることだったのに、なぜ、不用意に話題をふくらませたのか。
「ううん、平気。もう何年も前の話だしなんともないよ」
そう答えた水瀬の顔は、こちらに向かない。
「なんか、辛いことを思い出させちゃったね。お父さんは、その、どんな感じの人だったの?」
話題を変えようとするも、微妙に気の利かない台詞だなって思う。
「うーん、仕事熱心で優しい人かな。あたしはお父さんのこと、大好きだった」
それはどこか寂しげな声で。
「そっか。じゃあ、いいお父さんだったんだね」
僕の声も、自然と沈む。
「……お母さんとは、今でもこの場所によく来るの?」
「ううん。一回来たっきりだね。たぶん、もう来れないかも」そう言って、否定するように水瀬は首を横に振った。「だって、あの人は忙しい人だから」
──あの人。
いい間違いだろうか、と最初は思った。だが、なんど水瀬の発言を頭の中で再生しても間違いない。確かに彼女はそう言った。
母親の事をあの人と呼んだこと。
水瀬の表情に、うっすら影が差したこと。
違和感が二つ、頭の中でぐるぐると渦を巻く。
親子間の関係は、いったん拗れると修復が難しいのだという。父親がいなくなったことで、家庭環境に変化が生じたのだろうか。母親との間に、確執でもあるのだろうか。そこまで考えたところで、自分の余計な勘繰りを戒めた。
直接訊く勇気もなければ、そこまで親しくもない癖に。
返す言葉を失うと、気まずい沈黙がおとずれる。丘の上を抜けていく風が、少し肌寒くなっているのに気が付いた。
「この花、あたしに似てるかな?」
その時、静寂した空気を破るように、水瀬のひそやかな声が忍びこんだ。
「どうだろう? 淡い色合いといい、儚い感じはよく似ているかもね。それに、茉莉って字も同じ漢字を書くんでしょ? なんだか偶然とは思えないよね。こう言っちゃ大袈裟だろうけど、なにか運命的なものを感じない?」
どうにか会話を繋ぎたくて、努めて明るい声をだした。
水瀬が愛情を注いでいるあらゆる花の中で、最も好きなのがきっと匂蕃茉莉だろう。それと似ていると告げたのだから、絶対に彼女は喜んでくれるはず。そう──思っていた。
ところが水瀬が見せた反応は、予想と真逆のものだった。
「そう、なのかな」
そして。
「やっぱり、あたしとこの花、似てるんだ」
ふたつ呟きを落としたきり、浮かびかけていた笑顔が再び引っ込んだ。
「うん」
取り繕うだけの同意。感情のこもっていない軽薄な呟きが、まるで自分のものじゃないみたい。
この場所に着くまで殆ど無口だった水瀬が、いまさっきまで饒舌に語っていたのに。自分だけが知っている彼女の姿が、また一つ増えたと喜んでいたのに。完成間近の陶器を落として割ったときみたいな失望がやって来て、高揚感が瞬く間に失われていく。
なにかを間違えたのは明白だった。だが、間違えた内容の輪郭線はサッパリ見えず、結局僕も、口を噤んでしまう。
会話が途切れると、水瀬は再びスケッチブックを広げて、正面の風景を描き始める。
無言で、ただ作業を見守るほかなかった。彼女の存在を間近に感じることで、気に留めたことのなかった首の細さと、透き通るような肌の白さに目を奪われた。
水瀬の握ったペン先が踊るようにスケッチブックの上を滑ると、下絵の線がどんどん描き出されていく。稔が以前言っていた、「絵はめちゃめちゃ上手い」も、やはりお世辞じゃなさそうだ。
辺りはすっかり闇に閉ざされていた。暗くてはっきり目視できないだろうに、という僕の心配を他所に、水瀬のペン先は迷いなく輪郭線を再現していく。花びらや葉の形も、繊細なタッチで描いていく。素早く走り続けるペン先に、僕の視線は釘付けになっていた。
「クラスアートの実行委員に推薦したこと、怒ってない?」
一旦作業の手を休め、不安そうな声で水瀬が言う。こちらを向いた彼女の顔が思いのほか近かったことに、心臓が大きく飛び跳ねた。
「怒ってなんか、いるわけないじゃん。嫌だったらそもそも引き受けないし、こんな夜遅い時間に水瀬と……えと、その、こんな場所まで来たりなんてしないから」
文法ってなんだっけ、と思えるほど大袈裟にうろたえた。
すると水瀬は、「そっか、安心した」と安堵したように呟き、再びペン先を躍らせ始める。
肩が触れあいそうなほどの距離感。唐突に気恥ずかしさに襲われた僕は、脇に置いていたカメラと三脚を手に取り立ち上がろうとした。
「ねえ……」
そんな僕を繋ぎとめるように響いた水瀬の震えた声音。
「ん、どうしたの?」
浮きかけていた腰の位置を正し、隣の水瀬に問いかけた。
ところが水瀬は何も答えない。ペンの動きは完全に止まり、膝の上できつく握った一方の拳をじっと見つめている。まるで内なる混乱と戦っているかのよう。「どうしたの?」ともう一度問いかけるも、やはり彼女から返事はない。
ややあって、彼女は意を決したように顔を上げた。ふう、とひとつ息を吐いてから、弱々しい口調でこう告げた。
「お願いがあるの。あ……あたしの胸、軽くでいいから触ってみて」
今、なんて言った? 驚きが一瞬で臨界点にまで達する。
え、胸、と呟いたきり二の句が告げない僕と水瀬の視線が正面からぶつかった。月明りを映しこんだ彼女の瞳は、なぜだろう、少し潤んで見えた。
胸って……おっぱいのことだよな?
『おっぱいに、触っていいんですか?(何故か敬語)』なんて到底訊けるはずもなく、それじゃあ、なんて手を差し出すわけにも勿論いかず。
完全に硬直してしまった僕の右手を、水瀬がぎゅっと握る。なにを、と訊ねる間も与えられず、そのまま水瀬の乳房に押し当てられた。
女の子が僕の手を取り自らのおっぱいに触らせているという非日常の光景に、一瞬で思考がショートする。
程よく膨らんだ乳房は、ふわっとした柔らかさと、一拍遅れてやってきた温かさをもって僕の意識を支配していく。もっともそこは華奢な水瀬のこと、サイズは決して大きい方じゃないんだろう。それでも、他人の体がこれ程正直な張りと弾力を伝えてくることは、想像の外だった。
え、なんなのコレは?
指、動かしていいのかな……ってダメに決まってるだろう。いったい何を考えてるんだ僕は。必要以上に指先に力をこめてぴんと伸ばし、間違って揉んだりしないよう心掛けた。
──下着、付けてないのかな。
指が沈んでゆく感触に戸惑う心。早鐘をうち始める僕の心臓。静寂漂う夜の丘で、鼓膜を叩くのは僅かな音だけだ。僕の肩に時折掛かる彼女の吐息と、抑えようと意識すればするほど耳障りに感じられる僕の呼吸音と。最早、どちらの息遣いなのかさえ分からなくなる極限状態の中、暫し呼吸の仕方を忘れてしまう。
そのまま、何分が経過したのだろう? やがて水瀬は僕の右手を解放すると、目尻を下げ、好色な顔で尋ねてきた。
「どうだった?」
どうだったと、言われましても……。
「凄く、柔らかかった」
返答に困った末に、正直すぎる感想を口にした。硬かった、なんて嘘をつくわけにもいかないし、と言い訳染みたことを思う。
「なんか、変じゃなかった?」
「そんな事は──ないと思うけど」
「ドキドキした?」
尋問するような水瀬の問い掛けは更に続く。
「それはもう……うん」
認めている自分が酷く滑稽に思える。まるでピエロにでもなった気分。
「そうなんだ……。あたしはね」
言いながら、どこかウットリとした顔で水瀬が両手を胸の辺りに添えた。つい先ほどまで、僕が触れていた場所。
「なんか、思っていたよりも怖くなかった。触ったのが、早坂君だからかな」
「え?」
驚いた僕の反応など歯牙にもかけず、彼女はぱっと立ち上がる。
「なんでもない! 遅くなっちゃうし、そろそろ帰ろうか」
結論を出すように言うと、彼女はくるりとターンをしてこちらを向いた。そんな水瀬の顔は、花の咲いたような笑顔で。何事もなかったかのように明るい声音で。
未だに思考が上手く回らない僕は、力なく「ああ」と頷くのが精一杯で。
均整の取れた細い体躯が、月明かりをバックにシルエットになる。
白磁の如く色白の肌が、月夜に艶かしく映える。
すらりと伸びた細い手足。こんなに可愛い女の子の体に触れていたんだ、と意識すると、たちまち熱を帯びていく手のひらと頬。
まだ、手のひらに残っている柔らかな感触が。
向けられた、澄んだ眼差しが。
僕の心を鷲づかみにして離さない。強い痛みをともなって、胸中がひとつの感情で侵食されていく。
この不可思議な感情に、もし名称を与えるとするならば。
きっとこれが──恋なんだと思う。
砂丘のように緩やかに起伏した草地が広がっており、白や、紫色の花をつけた植物が群生している。丘の奥側は断崖になっているらしく、満月を中心に添えた紺碧の空と、一望できる街の夜景が背景となってまるで一枚絵のようだ。
吹いた一陣の風が、下草を揺らす。煌々と降り注ぐ月明りが、植物の輪郭線を鮮明に際立たせる。
水瀬が描いた絵と寸分違わぬ構図。彼女に確認を取るまでもなく、ここが目的の場所なのだと理解した。
それにしても、と息を呑んでしまう。確かに水瀬の絵は上手いが、こうして実際の光景を目の当たりにすると迫力がまるで段違いだ。
「凄い」
ごく自然にもれる呟き。ずっと手を繋いでいたままだったのに気がつくと、「ごめん」と言いながら手を解いた。
「どうして謝るの?」と不思議そうな顔で水瀬が首を傾げる。
「ねえ、早坂君」
「……ん?」
「綺麗でしょ」
「ああ、最高だ」
言いながら、もっと上手い返しはないのかと自分の語彙力のなさに辟易する。
ぐるりと視線を巡らして、景観の良い場所を探し彷徨い歩く。やがて足を止めると、各々、景色を切り取るための作業に入った。
肩にかけていた鞄の中から一眼レフのカメラを取りだすと、三脚の高さを調節しながらセットした。写真が趣味である父親から無理を言って借りてきたもので、僕がカメラにわりと精通しているというのも、そもそも父親の影響なのである。
夜間の撮影は、昼間と違ってレンズに入ってくる光の量が著しく少なくなるため、長い間露出 (長時間露光)する必要がある。その為手ぶれがあると、ぶれた分だけ光の筋が写ってしまい写真がぼやける結果をうむ。
これが、三脚が必須である理由。もちろん全て父親の教えである。
血の繋がっていない父親だが、普段から他人行儀な態度はおくびにも出さない。正直、家族仲はいい方だと思う。家の中で顔を合わせれば、本物の親子より少しだけ気を遣った口調で話しかけてくる。カメラの扱い方について尋ねたとき、熱を帯びたように語ってくれた姿を、まるで昨日のことのように覚えている。
なのに、ギクシャクしてしまう瞬間というのはやはりあって、そうなってしまうのは、多分、僕が過剰な遠慮をして壁を作ってしまうのが原因で。そんな事実を認識するたび、心がひりっとした痛みをうったえる。
暗い場所での撮影というのは想像通り難易度が高い。だが、絞り優先オートに設定してしまえば、そこまでカメラに精通していなくても難易度を下げられる。絞り優先オートとは、撮影者が絞り設定のみを決めると、周りの明るさに合わせてシャッター速度をカメラが自動で調節してくれるというもの。暗い場所だとオートフォーカスが上手く機能しない時があるので、ピントだけは自分で合わせるほかないが。
視界いっぱいに広がる丘陵地の姿に圧倒されつつも、無心でシャッターを切った。似かよった構図ばかりにならぬよう、場所と角度を変えながら撮影を繰り返していく。
スケッチブックの上にペンを走らせていた水瀬だが、やがて紫色の花の側にしゃがみ込んだ。おおよそ満足できる写真を撮り終えていた僕も、彼女に倣って隣にしゃがんでみる。
花を付けている植物の樹高はそんなに高くない。硬質な濃い緑色の葉っぱを枝いっぱいに付け、五枚の花びらを付けた白や紫色の花を幾つも咲かせていた。
「綺麗な花だね」
「そうでしょ? これはね、匂蕃茉莉という名前の花なの」
「においばんまつり? 聞いたことが無い名前だ」
「そうかもね」と屈託なく水瀬が笑う。「この花は、ブラジルやアルゼンチンなどの南アメリカが原産地だから」
その後も水瀬は熱を帯びたように話し続ける。艶やかな赤い唇がなめらかに旋律を紡ぎ、睫毛の長い瞳が何度か瞬いた。
花の色には白、淡い紫、濃い紫と様々あれど、全て匂蕃茉莉の花だということ。咲き始めは濃い紫色から始まり、次第に淡い紫に変化し最後は白色になること。花の魅力はむしろ芳香にあり、夜になると特に香りが強くなるということ。
匂蕃茉莉が夜に咲く花、と呼ばれてる所以について、そう説明を加えたあと、水瀬は一旦言葉を切った。細い鼻筋。整った彼女の横顔が、寂しげな表情をたたえ月明かりの中シルエットとなり浮かび上がる。
持病のせいもあり、僕は女の子の顔を注視した経験に乏しい。生まれて初めて見た気すらしてしまう儚げな表情に、胸の奥深いところで、小さな疼きが芽吹いたのを感じる。なぜ彼女はそんな顔をするのだろう、と暫し考え、結局、なにひとつ心当りがなかった。
「水瀬」
反射的に彼女の名前を呼ぶと、ハッと我に帰ったように、水瀬がこっちを向いた。
「ごめん」と照れくさそうに顔を伏せる。「あたし一人で喋りすぎたかな」
「いや、そんなことないよ。普段と違う君の姿が見られて、なかなかに興味深かった」
「アハハ……。やめて、なんだか恥ずかしいよ」
「でも、本当に綺麗な場所だと思う。夜景もだけど、何より花と香りかな。水瀬がこの場所を題材にしたいと言ったのも頷けるっていうか。よくこんな場所を知っていたね?」
頭に浮かんだ疑問を口にすると、水瀬がすっと目を細めた。半開きになっていた唇をきゅっと結び、それから視線を正面に戻した。
「ここはね、隣町から引っ越してきた最初の頃に、お母さんと二人で来た思い出の場所なの」
「お母さんと。……二人だけで?」
「そうだよ。あたしのお父さん。小さいときに亡くなっちゃったから」
「あっ、ごめん」
迂闊な発言を、即座に後悔した。話の流れから予見できることだったのに、なぜ、不用意に話題をふくらませたのか。
「ううん、平気。もう何年も前の話だしなんともないよ」
そう答えた水瀬の顔は、こちらに向かない。
「なんか、辛いことを思い出させちゃったね。お父さんは、その、どんな感じの人だったの?」
話題を変えようとするも、微妙に気の利かない台詞だなって思う。
「うーん、仕事熱心で優しい人かな。あたしはお父さんのこと、大好きだった」
それはどこか寂しげな声で。
「そっか。じゃあ、いいお父さんだったんだね」
僕の声も、自然と沈む。
「……お母さんとは、今でもこの場所によく来るの?」
「ううん。一回来たっきりだね。たぶん、もう来れないかも」そう言って、否定するように水瀬は首を横に振った。「だって、あの人は忙しい人だから」
──あの人。
いい間違いだろうか、と最初は思った。だが、なんど水瀬の発言を頭の中で再生しても間違いない。確かに彼女はそう言った。
母親の事をあの人と呼んだこと。
水瀬の表情に、うっすら影が差したこと。
違和感が二つ、頭の中でぐるぐると渦を巻く。
親子間の関係は、いったん拗れると修復が難しいのだという。父親がいなくなったことで、家庭環境に変化が生じたのだろうか。母親との間に、確執でもあるのだろうか。そこまで考えたところで、自分の余計な勘繰りを戒めた。
直接訊く勇気もなければ、そこまで親しくもない癖に。
返す言葉を失うと、気まずい沈黙がおとずれる。丘の上を抜けていく風が、少し肌寒くなっているのに気が付いた。
「この花、あたしに似てるかな?」
その時、静寂した空気を破るように、水瀬のひそやかな声が忍びこんだ。
「どうだろう? 淡い色合いといい、儚い感じはよく似ているかもね。それに、茉莉って字も同じ漢字を書くんでしょ? なんだか偶然とは思えないよね。こう言っちゃ大袈裟だろうけど、なにか運命的なものを感じない?」
どうにか会話を繋ぎたくて、努めて明るい声をだした。
水瀬が愛情を注いでいるあらゆる花の中で、最も好きなのがきっと匂蕃茉莉だろう。それと似ていると告げたのだから、絶対に彼女は喜んでくれるはず。そう──思っていた。
ところが水瀬が見せた反応は、予想と真逆のものだった。
「そう、なのかな」
そして。
「やっぱり、あたしとこの花、似てるんだ」
ふたつ呟きを落としたきり、浮かびかけていた笑顔が再び引っ込んだ。
「うん」
取り繕うだけの同意。感情のこもっていない軽薄な呟きが、まるで自分のものじゃないみたい。
この場所に着くまで殆ど無口だった水瀬が、いまさっきまで饒舌に語っていたのに。自分だけが知っている彼女の姿が、また一つ増えたと喜んでいたのに。完成間近の陶器を落として割ったときみたいな失望がやって来て、高揚感が瞬く間に失われていく。
なにかを間違えたのは明白だった。だが、間違えた内容の輪郭線はサッパリ見えず、結局僕も、口を噤んでしまう。
会話が途切れると、水瀬は再びスケッチブックを広げて、正面の風景を描き始める。
無言で、ただ作業を見守るほかなかった。彼女の存在を間近に感じることで、気に留めたことのなかった首の細さと、透き通るような肌の白さに目を奪われた。
水瀬の握ったペン先が踊るようにスケッチブックの上を滑ると、下絵の線がどんどん描き出されていく。稔が以前言っていた、「絵はめちゃめちゃ上手い」も、やはりお世辞じゃなさそうだ。
辺りはすっかり闇に閉ざされていた。暗くてはっきり目視できないだろうに、という僕の心配を他所に、水瀬のペン先は迷いなく輪郭線を再現していく。花びらや葉の形も、繊細なタッチで描いていく。素早く走り続けるペン先に、僕の視線は釘付けになっていた。
「クラスアートの実行委員に推薦したこと、怒ってない?」
一旦作業の手を休め、不安そうな声で水瀬が言う。こちらを向いた彼女の顔が思いのほか近かったことに、心臓が大きく飛び跳ねた。
「怒ってなんか、いるわけないじゃん。嫌だったらそもそも引き受けないし、こんな夜遅い時間に水瀬と……えと、その、こんな場所まで来たりなんてしないから」
文法ってなんだっけ、と思えるほど大袈裟にうろたえた。
すると水瀬は、「そっか、安心した」と安堵したように呟き、再びペン先を躍らせ始める。
肩が触れあいそうなほどの距離感。唐突に気恥ずかしさに襲われた僕は、脇に置いていたカメラと三脚を手に取り立ち上がろうとした。
「ねえ……」
そんな僕を繋ぎとめるように響いた水瀬の震えた声音。
「ん、どうしたの?」
浮きかけていた腰の位置を正し、隣の水瀬に問いかけた。
ところが水瀬は何も答えない。ペンの動きは完全に止まり、膝の上できつく握った一方の拳をじっと見つめている。まるで内なる混乱と戦っているかのよう。「どうしたの?」ともう一度問いかけるも、やはり彼女から返事はない。
ややあって、彼女は意を決したように顔を上げた。ふう、とひとつ息を吐いてから、弱々しい口調でこう告げた。
「お願いがあるの。あ……あたしの胸、軽くでいいから触ってみて」
今、なんて言った? 驚きが一瞬で臨界点にまで達する。
え、胸、と呟いたきり二の句が告げない僕と水瀬の視線が正面からぶつかった。月明りを映しこんだ彼女の瞳は、なぜだろう、少し潤んで見えた。
胸って……おっぱいのことだよな?
『おっぱいに、触っていいんですか?(何故か敬語)』なんて到底訊けるはずもなく、それじゃあ、なんて手を差し出すわけにも勿論いかず。
完全に硬直してしまった僕の右手を、水瀬がぎゅっと握る。なにを、と訊ねる間も与えられず、そのまま水瀬の乳房に押し当てられた。
女の子が僕の手を取り自らのおっぱいに触らせているという非日常の光景に、一瞬で思考がショートする。
程よく膨らんだ乳房は、ふわっとした柔らかさと、一拍遅れてやってきた温かさをもって僕の意識を支配していく。もっともそこは華奢な水瀬のこと、サイズは決して大きい方じゃないんだろう。それでも、他人の体がこれ程正直な張りと弾力を伝えてくることは、想像の外だった。
え、なんなのコレは?
指、動かしていいのかな……ってダメに決まってるだろう。いったい何を考えてるんだ僕は。必要以上に指先に力をこめてぴんと伸ばし、間違って揉んだりしないよう心掛けた。
──下着、付けてないのかな。
指が沈んでゆく感触に戸惑う心。早鐘をうち始める僕の心臓。静寂漂う夜の丘で、鼓膜を叩くのは僅かな音だけだ。僕の肩に時折掛かる彼女の吐息と、抑えようと意識すればするほど耳障りに感じられる僕の呼吸音と。最早、どちらの息遣いなのかさえ分からなくなる極限状態の中、暫し呼吸の仕方を忘れてしまう。
そのまま、何分が経過したのだろう? やがて水瀬は僕の右手を解放すると、目尻を下げ、好色な顔で尋ねてきた。
「どうだった?」
どうだったと、言われましても……。
「凄く、柔らかかった」
返答に困った末に、正直すぎる感想を口にした。硬かった、なんて嘘をつくわけにもいかないし、と言い訳染みたことを思う。
「なんか、変じゃなかった?」
「そんな事は──ないと思うけど」
「ドキドキした?」
尋問するような水瀬の問い掛けは更に続く。
「それはもう……うん」
認めている自分が酷く滑稽に思える。まるでピエロにでもなった気分。
「そうなんだ……。あたしはね」
言いながら、どこかウットリとした顔で水瀬が両手を胸の辺りに添えた。つい先ほどまで、僕が触れていた場所。
「なんか、思っていたよりも怖くなかった。触ったのが、早坂君だからかな」
「え?」
驚いた僕の反応など歯牙にもかけず、彼女はぱっと立ち上がる。
「なんでもない! 遅くなっちゃうし、そろそろ帰ろうか」
結論を出すように言うと、彼女はくるりとターンをしてこちらを向いた。そんな水瀬の顔は、花の咲いたような笑顔で。何事もなかったかのように明るい声音で。
未だに思考が上手く回らない僕は、力なく「ああ」と頷くのが精一杯で。
均整の取れた細い体躯が、月明かりをバックにシルエットになる。
白磁の如く色白の肌が、月夜に艶かしく映える。
すらりと伸びた細い手足。こんなに可愛い女の子の体に触れていたんだ、と意識すると、たちまち熱を帯びていく手のひらと頬。
まだ、手のひらに残っている柔らかな感触が。
向けられた、澄んだ眼差しが。
僕の心を鷲づかみにして離さない。強い痛みをともなって、胸中がひとつの感情で侵食されていく。
この不可思議な感情に、もし名称を与えるとするならば。
きっとこれが──恋なんだと思う。
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