あの日見た空の色も青かった

木立 花音

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第二章:彼女と別れるまでの十数日間

ラブホテルの一夜②

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 だが帆夏はすぐに立ち上がると、向けられた強い拒絶の意思にも臆することなく、逢坂部の隣に座った。花火の後、涙を流した彼を、慰めたときのように。

「はい、全部知っていますよ。その上で……逢坂部さんに近づいたんです。変わっているでしょう? でも、隠していた事を怒っているのなら謝ります。ごめんなさい」
「どうして……」と彼は質問する。「俺はテレビや新聞で何度も実名報道され、日本中に名前が知れ渡ってる男だぞ? もちろんあれは事故だが、それでも俺は紛れもなく人殺しだ。何故それを知っていて――」
「――関係ないよ」と帆夏は彼の言葉を遮った。「そんなの、どうでも良い。だって私は、逢坂部さんのことが心配だっけもん。あんなに酷い報道を繰り返して、みんなで寄ってたかって言うことないじゃん? ……酷いべ、あんなの。虐めと変わらんべ?」

 逢坂部との距離を一息に詰めると、帆夏は、正面から彼の体を抱きしめた。胸に顔を埋めるようにして、くすん、と鼻を鳴らした。

「アパートから短大までの通学で利用してた路線バスの運転手が、逢坂部さんだったんですよ。もちろん毎日ではありませんでしたが、時々バスの中で一緒になると、遠目に背中を眺めてました」

 その言葉に、様々な記憶が蘇ってくる。確かに事故を起こした時は、臨時で観光バスの運転をしていた。だが彼は、普段、路線バスの運行に携わっている運転手だった。
 言われてみると確かに居た。料金を支払って降りていく学生たちの中に、時々目を合わせて『お勤めご苦労様です』と声がけをしていく女子大生が。毛先に内巻きの癖があるミディアムボブの髪型が印象的で、整った顔立ちをした眼鏡をかけた女の子。

「ああ、そうか。君は確か眼鏡を……」
「思い出してくれたんですね。嬉しいです」と照れくさそうに、彼女は笑った。「こっちの方が可愛く見えるかな、と思いまして、最近コンタクトに変えました」

「なんてことだ……」彼は躊躇いがちに肩に置いていた手を、彼女の体に回して強く抱きしめた。その体躯は想像以上に華奢で、まるで今にも消えてしまいそうなほどだ。

『私に、恋をしてはいけませんよ』

 不意に、浄土ヶ浜に来た最初の日に、彼女に言われたこと思い出した。そして即座に、逆の可能性を考えた。『君は俺に、恋をするべきではない』
 なんとなく、彼女がそんなことを言い出す空気のようなものを感じ取って、その可能性を遠ざけねば、と思う。

「でも」と彼は首を振った。「君は俺に近づくべきではない。犯罪者である俺に構っても、メリットなんて存在しないぞ。むしろ後ろ指をさされて、辛い思いをするだけだ。執行猶予の期間が終えるまで――いや、たとえ終えた後でも、まともな職にこの先就けるという保証などない。俺の名前は、既に日本中に知れわたっているのだから。人並みの生活がおくれるかどうかすら、定かじゃないんだ」


 全くもってその通りだ。執行猶予期間が付いたとはいえ経歴に傷が付いた俺が、厚顔無恥に仕事を続けられる程、会社の中は住み易くなかった。だから俺は会社を辞めた。

 重症を負って数日間生死の境を彷徨い、目が覚めた時にはベッドの上だった。
 バス事故の詳細は、直ぐに両親から聞かされた。いや、たとえ聞かされなくても、事故の情報は逐一、俺の目にも、耳にも届いた。
 乗客八名が死亡するという近年最悪のバス事故。新聞各紙は一面でこの事故を報じ、テレビ各局も連日大々的に報道を加熱させた。逢坂部という珍しい苗字も相まって、俺の名前は瞬く間に全国民の知るところとなる。
 この瞬間から俺は、多くの人命を奪い、二十四人に重軽傷を負わせた犯罪者となった。
 物凄い衝撃だった。あまりにも心の傷が深すぎて、まともに受け止められない自分が居た。テレビで逢坂部賢悟の名前が報道されている様子を、何処か他人事のように見ている自分が居た。
 白昼夢のようだった。いっそ本当に夢だったら良かったのに、何度もそう思った。
 だが現実は残酷だ。
 目覚めてから数ヶ月間の入院生活は、文字通りの地獄だった。
 身体を起こせるようになると、毎日のように新聞記者やテレビの報道関係者がインタビューに訪れ、何度も同じ質問を繰り返された。今の気持ちは? 亡くなった方々の遺族に、何か伝えたいことはありますか? 今後同じようなバス事故が起こらないようにする為には、どうすれば良いと思いますか?
 度々訪れる刑事も同様だ。会社の業務内容、ドライバーの健康管理に不備はなかったのか? 車両に不具合は? 当日の体調は? とやはり何度も詰問された。

 うるせえよ、と思った。
 何処に好き好んで事故を起こす人間が居るんだよ。
 何処に人の命を奪っておいて、何とも思わない人間が居るんだよ。
 そのあまりのしつこさに、不謹慎にもそんな事を考えてしまった。

 見舞いに訪れた家族からも、不満をくどくどと言われた。
 弁護士である父は開口一番、俺のことをどうやって弁護するか。その方針と答弁の対策など、早速仕事の話を切り出した。
 実際に父のおかげで刑期は軽くなったのかもしれないが、酷く事務的に感じられるやり取りに、内心では複雑な思いだった。
 対照的に、常日頃から世間体ばかりを気にしている母親は、とにかく小言を並べたてた。
 何故、もっと注意して運転しなかったんだ。疲れていたんじゃないのか? 気持ちが浮ついていたんじゃないのか? だから人の命を預かる仕事には反対だったんだ。親戚からも、色々と言われた。人目が良くない。どうしてこんな事になったんだ。何故? なんで……
 こんな時こそ優しく支えて欲しかった。母親に対する愛情は、この瞬間一気に覚める。
 そして、この母親の影響で俺は、他人の顔色ばかりを窺い、積極的に関われない性格になったのかもしれないなと初めて悟る。完全に、後の祭りだった。

『もうバス運転手は辞めろ。もっと普通の仕事を探せ』

 こう告げた父の言葉にも、反発を覚えた。
 普通ってなんだよ。人の命を扱わない仕事の事か? どんな仕事だって、巡り巡っていけば、何処かでは他人と関わって行くことになるだろう? それを恐れていたら、誰も医者や看護師になんかなれないだろう?
 激しい憤りを感じながらも、全て喉の奥に飲み干した。決して、口外する事はなかった。理由は単純明快だ。
 どんな理屈を並べ立てようとも、俺が”犯罪者”である事実は覆らないからだ。

 次第に自暴自棄になり始めていた。
 ある日俺が「死にたい」と弱音を漏らすと、大学生の弟に平手打ちをされた。
 彼は逃げるなと言った。辛いだろうけれど、自分の罪と向き合えと言った。毎日のように何処からかテレビ局のカメラが家の玄関を狙っていると不満を漏らしつつも、彼が一番の理解者だったのかもしれない。

 退院して、職場を逃げるように退職した現在でも、犯罪者のレッテルは常に付き纏った。
 正直、この名前でチケットを取ったり、ホテルのチェックインをすることも躊躇われるくらいだ。何度、偽名を使おうと考えたことか。
 それは気のせいだ、自意識過剰だ、と思いつつも、向けられる視線の全てが自分への憤りの眼。聞こえてくる囁きの全てが、自分への嘲笑に聞こえてくるほどだ。

◇◇◇

「だから俺は仕事も辞めて、付き合っていた女性との関係も解消した。全てを失った人間に相応しく、全部を捨てて一からやり直そうと考えていたんだ。……でも、思っていた以上に俺の名前は知れ渡っていた。予想よりも再就職への道は険しく、最近ではもう、上手くやっていける見通しが立たなくなっている。俺はそんな感じの、くそったれな男なんだ」

「本当に、辛かったのですね」帆夏はそう言いながら、彼の頭を優しく撫でた。「大丈夫です。大丈夫ですよ」

 あふれ出しそうになる感情に、視界が強く滲んだ。そうか、俺は許されたかったのか、と悟ると同時に、自分が今までどれ程乾いていたのか。どれほど孤独に過ごしてきたのか、を彼は知った。
 それでも彼は、敢えてこう突き放した。

「帆夏ちゃんの気持ちは凄く嬉しい。だが、もう一度だけ言おう。君はもう俺に関わるな。何も良いことなんてないんだぞ」
  
 もう自分には何も残されていない。どんな理屈を並べ立てようとも、犯罪者としてのレッテルを拭うことなどできやしない、と彼は俯く。君のような、ごく普通の女の子が関わってはならない男なんだ――俺は。

「そんなの、嫌です」
「え?」
「八月一日、初めてバス停で見かけたあの日、逢坂部さんは泣いてたんですよ」
「俺が?」
「こんな場所に、たった一人で座って、眠ったまま涙を流している。なんて可哀そうな人なんだろうって思いました。同時にこの人、死んじゃうかもしれないって不安になりました。……だから、隣に座ったんです。何時の間にか私も眠っちゃったんで、目が覚めた時はちょっとばかり動転しちゃいましたけど」
「……君は、なんてお人よしなんだ」と呟きながら、彼は帆夏の細い肩を夢中で抱いた。
「だから私は、逢坂部さんの側に居続けますよ。この、宮古市に居る間だけですけどね。側に居るだけなら、良いでしょ?」

 犯罪者を心配してくれるという少女の出現。彼はその事実を、あってはならないことだと、悲しむべきなのだろう。それなのに逢坂部は、とても嬉しく感じていた。どうしようもなく、この少女の存在を、愛おしく感じていた。
 情けないものだと思いながらも、彼は自分を抱き締めてくれる帆夏の腕の中で、ただ、涙を流した。

 そのまま泣き疲れて布団の中に潜り込むと、帆夏の柔らかい胸に顔を埋めた。微かに聞こえてくる彼女の心音を聴いていると、母親の胎内で羊水に浸る、胎児のような気持ちになってくる。
 思えば俺は、こうして母親に慰めてもらった記憶がない、と彼は思う。
 豊満な乳房の感触を肌身で感じながら、疚しい気持ちを抱くこともなく、あっと言う間に眠ってしまった。
 恐らく、体以上に、精神の方が強く睡眠を欲していたに違いない。

 いつの間にか外では、雨が降り出していた。地面を叩く雨音が、遠く聞こえる。
 真夜中にふと目を覚ました彼が体験した出来事は、傷ついた心が生み出した、夢か幻の類だったのかもしれない。
 ふと、同じ布団の中で眠っていたはずの帆夏が、自分を見下ろしている気配を感じた。枕元に影が落ち、はらりと舞った髪の毛が、頬の辺りをくすぐった。自分の肌から漂うものと同じ、シャンプーの甘い香りが鼻腔をついた。
 敢えて目は開かずにおいた。このまま狸寝入りをしていた方が、良いような気がしていたから。
 彼女は逢坂部の頭にそっと手を乗せると、慈しむように撫でた。耳たぶに吐息が掛かる。きっと彼女は耳元に唇を寄せて何かを囁いたのだろうが、その声は雨音に掻き消されるほど小さくて、何を言ったのかまでは聞き取れなかった。
 むず痒い感覚に身を捩りそうになったとき、柔らかいものが逢坂部の頬に触れる。
 ふっくらとしていた。
 瑞々しい感触だった。
 そのまま帆夏は、何事もなかったかのように背を向け布団に潜り込むと、静かに寝息を立て始めた。
 微睡みのような意識の中で彼は思う。
 今頬に触れた柔らかい感触が幻だったとしたら、決して他人には告白出来ない、恥ずかしい妄想をしてしまったものだと。だが、これがもし、全て現実だったとするならば――彼の胸の内は、甘美な喜びと切なさで溢れそうになった。
 出会ったばかりの少女、白木沢帆夏に、自分はまんまと癒され、今もまた救われている。
 彼女が今日、この場所に居てくれなかったら。
 彼女がこの瞬間、同じベッドの中で眠ってくれていなかったら。
 はたして自分は、どれほど追い込まれていたのだろう、と彼は思う。だからこそ、彼女に見当違いな期待を寄せてはならない。自分は未来のない人間なのだ。そのことを決して忘れるな。間違っても彼女に、好意を抱いてはいけないし、抱かせてもいけない。
 そう結論を与え、骨抜きにされかけている自分の心を叩いて瞼を閉じる。地面を打つ雨の音を子守歌のように数えていると、再び眠りの中に落ちていった。

 翌朝、誰かが口ずさむ歌で目を覚ます。
 歌声の主は、帆夏だった。上機嫌で昨晩と同じ歌を歌いながら、着替えをしている最中だった。意図せず下着姿を見てしまい彼は慌てたが、彼女は恥ずかしがる素振りも見せず、普段と変わらぬ調子で言った。

「そろそろ帰りましょうか?」……と。彼はただ、「ああ」と頷くほかなかった。
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