あの日見た空の色も青かった

木立 花音

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第二章:彼女と別れるまでの十数日間

芽吹き

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 宮古の駅前でレンタカーを返却すると逢坂部は、料金を支払った足でそのまま近場にあったこじんまりとしたバイク店に向かう。
 どういう風の吹き回しだろう、と自分でも思う。彼はそこで百十ccのスクーターバイクと、ヘルメットを二人分購入すると、帆夏と二人乗りで浄土ヶ浜にある民宿を目指し走り始めた。
 帆夏の豊満な胸が背中に密着する。
 速度を上げる度に、背中から回された両腕に力がこもる。
 ブレーキを軽く掛けると、より強く胸が押し当てられる。
 そんな、帆夏の一挙一動に、彼の胸は自然と高鳴っていた。
 民宿に着くと、タンデムシートから降りスカートの裾を直しながら帆夏が言った。

「また随分と思いきった買い物をしたもんですね。あと二十日程しか、岩手に滞在しないのでしょう?」
「まったくだな」と逢坂部も溜め息混じりに呟いた。「ここに来た当初は、なるべく出費を抑えるように努めていたはずだったんだがな。これで全部台無しだ。まあ、不要になったら売り払うさ」

 埼玉のアパートと同じようにね。と彼は心中でそっと付け加える。
 仕事を辞め埼玉を出るときに、彼は所有していた中古車を売却し、アパートの中に残っていた金目の物も大半売り払っていた。賃貸契約さえ解除してしまえば、何時でも住所変更が可能なくらいには身軽になっていたのだ。案外とこのまま、岩手に移住してしまうのも悪くない。そんな事を考え、すっかりほだされているな、と自嘲した。

「まあ、無駄遣いも時には良いですよね。使ったお金は、巡り巡って、また逢坂部さんのところに戻ってくるかもしれませんし」

 何処か悟ったような口調で言い、帆夏は大きく伸びをする。
「二日間、お世話になりました。そのうちまた、遊んでくださいね」と言いながら、民宿の方に向かっていった。
「ああ、また」
 彼女に手を振りながら、存外に心が弾んでいる自分をそっと意識する。彼女が告げた『また』という言葉が、再会の約束であるように思えていた。

「まったく。本当に俺はどうかしている」

 部屋に戻り机の上に日記帳を広げると、この二日間のことを早速綴った。よもや苦しい胸のうちを、帆夏に打ち明けることになるとは予想もしていなかった。自分にとってバス事故の話題は、絶対的タブーであったはずなのに。
 また同時に、帆夏が自分の事情を〝心得ていた〟ことにも衝撃を覚えていた。俺の罪を把握した上で、接近したとも言っていた。そんな彼女の本心は、いったい何処にあるのだろうか?

 惨めな男に対する同情心なのか、それとも、淡い恋心なのか。
 いっそ後者だったら良いのに、と自惚れたところで、頭を振って都合の良い妄想を打ち消した。そう……俺たちは惹かれ合うべきではない。
 だが、俺は彼女に惚れているのだろうか? という考えも浮かんでくる。恋愛感情なんてもう自分には必要ない。そう結論を与えたからこそ、埼玉の女とも関係を絶った。
 そのはずだったのに白木沢帆夏という少女は、忘れかけていた感情を、再び彼の元に送り届けようとしていた。
 再び溜め息をついて日記帳を閉じると、目を瞑って身体を横たえた。

 実際、心身共に疲れきっていたのだろう。翌日、彼は普段よりも遅い時間に目が覚める。時計を見ると、既に正午になろうという時間帯だった。
 うだるような暑さを一層引き立てるように、アブラゼミの奏でるノイズが和室の中に木魂していた。
 自堕落な生活だ、と苦笑いをしながら適当な衣服に着替えると、鏡で軽く身だしなみをチェックした後で部屋を出る。

 今日は、思い出したようにカメラを携えていた。外に出ると、一度も撮影したことの無かった民宿の全景と、建物周辺の景色をファインダーに収めた。フィルムの残量は、もう残りわずかとなっていた。
 思いの外、夢中になっていたのだろうか。民宿で昼食を摂り、無心で撮影を繰り返しているうちに、辺りは薄暗くなっていた。空の色は橙色に藍色が混じりあい、アブラゼミの鳴き声は、気が付くと、ヒグラシの涼し気なカナカナという響きに変化していた。
 軽めの夕食を済ませ自室に戻ると、畳の上に仰向けに寝転び、なんとなく、物足りなく感じている自分に気が付いた。
 なぜだ? と彼は自問する。
 今日だってたくさん良い写真が撮れたし、目だって何かをしたわけでもなかったが、充実した一日だったはず。
 暫し彼は考え、やがて思い至る。今日、宮古に来てから初めて、白木沢帆夏が姿を現さなかったことに。
 どうやら俺は、彼女と出会えなかったことを、「淋しい」なんて感じているらしい。

 やれやれ、と彼は肩をすくめた。

 だから、なのだろうか。二日間ほどたっぷりと焦らされた逢坂部の心は、すっかり彼女の姿を求めていた。
 そのまた翌日。民宿の入り口に備えられたソファに座っている帆夏の姿を見て、心が安堵し、また癒されていくのを感じていた。

「逢坂部さん。今日はまた、随分と早起きなんですね」
 彼女は座ったまま、首だけをこちらに向けてくる。
「この時間ならば、君に会える気がしたんだ」
「そうですか」と彼女は微笑んだ。「もし暇でしたら、二人で海に行きませんか?」
「海だって? 海なら、もう何度も行ってるだろう?」

 さも当然と言う体で答えると、帆夏はキョトンとした顔で数秒固まった後、「あははっ」と愉快そうに笑った。

「違いますよ。今日は、海水浴に行きませんか? というお誘いだべ」

 彼女はニヤリと口元をひん曲げると、脇に置いてあったビーチパラソルに視線を落とした。

「ああ、そうかなるほどね。だが残念なことに、俺は水着を持って来ていない」
「それなら大丈夫ですよ。逢坂部さんの分も、ちゃんと準備してますから」

 そう言って手荷物をぽんぽんと手で叩き、小悪魔的な笑みを向けてくる。そう迄されては、さすがに断る理由も無いだろう。

「申し訳ないね。じゃあ、せっかくだから、君の好意に甘えておくことにするよ」

 彼の言葉を合図に、彼女は元気よく立ち上がる。二人揃って民宿の玄関を出ると、肩を並べて海を目指した。
 けたたましく泣き続ける蝉の声が、二人の背中をじっと見守っていた。
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