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第一章:楠恭子の日記(サイドA)
20**/04/30(水)部活動
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◆20**年4月30日 (水曜日)
カキーン、という乾いた音と一緒に白球が宙に舞う。その音に釣られてあたしは練習の手を休めると、音楽室の窓から野球部の練習風景を見下ろした。
水色の絵の具を薄く塗り広げたような空に高く飛んでいったボールを、ライトの定位置から飛び出した晃君が、必死で追いかける姿が見えた。だんだんとその高さを失うボールを確認しながらやがて足を止めた彼は、前へ数歩踏み出しながらグラブでボールをキャッチすると、そのままノーステップでバックホームする。
――あの時の表情が、一番好き。
頬が緩んで、自然と口元まで綻んでしまう。
私立照葉学園。
栃木県宇都宮市の中心部に存在している、県内でも有数の進学校だ。
文武両道をスローガンとして掲げてこそいるものの、運動部は然程強くない。強豪だとはっきり言えるのは、インターハイ常連である女子バレーボール部くらいか。どちらかというと、文科系部活動の方が活動が盛んなのでは、と思う。
そんな照葉学園野球部の部員数は、十数人程度。県内の強豪校と比較すると、ハッキリ言って多くない。
晃君はあたしの贔屓目を抜きにしても、肩も強いし足だって速い方だ。それでも、レギュラーの座に収まるまでは、並々ならぬ苦労があった。公式戦で時々出場機会を与えられるようになったのが、昨年の甲子園予選会の頃。定位置の獲得が見え始めたのは、代替わりした、秋季大会の期間中になってようやくだった。
当初の守備位置は左翼だったけれど、後に右翼へとコンバートされた。打球への初期判断に課題があるため、強く大きい飛球が多くなる左翼では適正が無かったんだろう。打撃はそんなに悪いわけじゃない。内角低めの変化球は苦手だが、外角から高めの直球にはめっぽう強い。
けれども、決して高くない打率と四死球の少なさから出塁率は思わしくなく、先発出場する際の打順は概ね八番。打撃の調子が上向いてる時はひとつ上がって七番。
八番右翼 (ライト)の事を「ライパチ」なんて呼んで、「微妙な選手が収まるポジション」と、バカにする人もいる。
でも、あたしは知っていた。三塁までの遠投が要求されるから強肩じゃないとダメだし、右打者のライン側に切れて行く流し打ちの処理とか難しい判断だってあるから、思ったよりも難しいポジションなんだって事を。
──監督はさ、見る目ないんだよ。
窓の外を睨みながら唇を尖らせたそのとき、晃君が校舎の方角を見上げる。瞬間、白い歯が零れて笑みを浮かべた。目が合った!? と仰々しく狼狽えているあたしを他所に、彼は守備練習を終えてベンチの方に引き上げていった。
全然隠れられてもいないのに、中途半端に頭を抱えてあたしは思う。驚いた。その笑顔は心臓に悪いよ。
ひとつ深呼吸をして、練習に戻ろうと視線を正面に戻したそのとき、膝が譜面立てにあたってしまう。ばさばさと予想以上に大きな音を立て、楽譜が床の上に散乱した。
「ほら、恭子。ぼんやりしないで」
「……す……すみません」
タクトを持っていた顧問の小園先生に目撃されると、部長の広瀬君から、即座に注意の声が飛んできた。あたしは殊勝な態度で頭を下げると、屈んで楽譜を拾い集める。
(恭子、ページ間違ってる)
隣に座っている律が、ひそめた声で話しかけてくる。
(うわっ……ごめん)
律の譜面立てにちらりと目をやり、慌てて譜面を差し替えた。
「じゃあ、もう一度。最初から通しで練習をしてみましょう」
小園先生の声に頷くと、サクソフォンを構え直して指揮棒を注視する。
あたしが所属しているのは、吹奏楽部である。
譜面を読むのは正直得意じゃなかったけれど、野球部の全校応援には必ず帯同できるので、この部活を選択した。
動機は自分でも不純だと思う。去年の秋季リーグ戦の応援でも晃君しか見ていなかったし、他の事柄に頭が回らなかったので、チームの勝敗についてすら記憶は曖昧だ。無論、対戦校の名前なんて全然思い出せそうにない。
けれど、三年目ともなると不思議なもので、自分でも驚く程真剣に練習に取り組んでいる。自覚が出てきた、とでもいうのだろうか。時々窓の外に気を取られてるあたしが言うと、部長の広瀬君に睨まれそうだけど。
全体練習を終えた後、パート毎に別れてロングトーンの練習に入る。ロングトーンとは、同じ高さの音をできるだけ長く出し続けることをいう。サクソフォン奏者やトランペット奏者など、管楽器奏者にとってスポーツでいうウォーミングアップ的に行われる行為でもあるが、同時にとても大切な練習方法である。
音がブレないように気をつけながら長く吹き続けるだけの、一見すると単調な練習。しかしながら、基礎、または礎となる大切なものである。自分がイメージする綺麗な音が出せているか確認しながら、じっくりと反芻した。
あたしは今年の春から、担当しているアルトサックスでソロパートを任せられるまでになっていた。自分よりも上手くて経験のある人が他にも居るのに、と正直驚いてしまったものだが。
でも、顧問の小園先生は、「楠は人一倍頑張っているし、実力もついて来てるから、そろそろ任せてみたい」と言ってくれた。自分に重要な役割を託してくれた先生のためにも……そして、晃君のためにも、頑張ろう。そう誓ったんだ。
ふと、窓の外へと視線を向けると、大半が散ってしまっていたはずの、桜の花びらが幾つか舞っていた。それはまるで、春のオワリを告げているかのようで。また同時に、移ろい行く季節を名残惜しんでいるかのようで。
もうすぐ新しい季節がやってくる。あたしたち三年生にとって、最後の勝負となる季節。
──よし! やるぞ!
……そう、今年で終わり。もう、来年なんてないのだし時間だって待ってはくれない。あたしは頬を叩いて、気合を入れ直した。
あたし達の、最後の夏が──やってくる。
カキーン、という乾いた音と一緒に白球が宙に舞う。その音に釣られてあたしは練習の手を休めると、音楽室の窓から野球部の練習風景を見下ろした。
水色の絵の具を薄く塗り広げたような空に高く飛んでいったボールを、ライトの定位置から飛び出した晃君が、必死で追いかける姿が見えた。だんだんとその高さを失うボールを確認しながらやがて足を止めた彼は、前へ数歩踏み出しながらグラブでボールをキャッチすると、そのままノーステップでバックホームする。
――あの時の表情が、一番好き。
頬が緩んで、自然と口元まで綻んでしまう。
私立照葉学園。
栃木県宇都宮市の中心部に存在している、県内でも有数の進学校だ。
文武両道をスローガンとして掲げてこそいるものの、運動部は然程強くない。強豪だとはっきり言えるのは、インターハイ常連である女子バレーボール部くらいか。どちらかというと、文科系部活動の方が活動が盛んなのでは、と思う。
そんな照葉学園野球部の部員数は、十数人程度。県内の強豪校と比較すると、ハッキリ言って多くない。
晃君はあたしの贔屓目を抜きにしても、肩も強いし足だって速い方だ。それでも、レギュラーの座に収まるまでは、並々ならぬ苦労があった。公式戦で時々出場機会を与えられるようになったのが、昨年の甲子園予選会の頃。定位置の獲得が見え始めたのは、代替わりした、秋季大会の期間中になってようやくだった。
当初の守備位置は左翼だったけれど、後に右翼へとコンバートされた。打球への初期判断に課題があるため、強く大きい飛球が多くなる左翼では適正が無かったんだろう。打撃はそんなに悪いわけじゃない。内角低めの変化球は苦手だが、外角から高めの直球にはめっぽう強い。
けれども、決して高くない打率と四死球の少なさから出塁率は思わしくなく、先発出場する際の打順は概ね八番。打撃の調子が上向いてる時はひとつ上がって七番。
八番右翼 (ライト)の事を「ライパチ」なんて呼んで、「微妙な選手が収まるポジション」と、バカにする人もいる。
でも、あたしは知っていた。三塁までの遠投が要求されるから強肩じゃないとダメだし、右打者のライン側に切れて行く流し打ちの処理とか難しい判断だってあるから、思ったよりも難しいポジションなんだって事を。
──監督はさ、見る目ないんだよ。
窓の外を睨みながら唇を尖らせたそのとき、晃君が校舎の方角を見上げる。瞬間、白い歯が零れて笑みを浮かべた。目が合った!? と仰々しく狼狽えているあたしを他所に、彼は守備練習を終えてベンチの方に引き上げていった。
全然隠れられてもいないのに、中途半端に頭を抱えてあたしは思う。驚いた。その笑顔は心臓に悪いよ。
ひとつ深呼吸をして、練習に戻ろうと視線を正面に戻したそのとき、膝が譜面立てにあたってしまう。ばさばさと予想以上に大きな音を立て、楽譜が床の上に散乱した。
「ほら、恭子。ぼんやりしないで」
「……す……すみません」
タクトを持っていた顧問の小園先生に目撃されると、部長の広瀬君から、即座に注意の声が飛んできた。あたしは殊勝な態度で頭を下げると、屈んで楽譜を拾い集める。
(恭子、ページ間違ってる)
隣に座っている律が、ひそめた声で話しかけてくる。
(うわっ……ごめん)
律の譜面立てにちらりと目をやり、慌てて譜面を差し替えた。
「じゃあ、もう一度。最初から通しで練習をしてみましょう」
小園先生の声に頷くと、サクソフォンを構え直して指揮棒を注視する。
あたしが所属しているのは、吹奏楽部である。
譜面を読むのは正直得意じゃなかったけれど、野球部の全校応援には必ず帯同できるので、この部活を選択した。
動機は自分でも不純だと思う。去年の秋季リーグ戦の応援でも晃君しか見ていなかったし、他の事柄に頭が回らなかったので、チームの勝敗についてすら記憶は曖昧だ。無論、対戦校の名前なんて全然思い出せそうにない。
けれど、三年目ともなると不思議なもので、自分でも驚く程真剣に練習に取り組んでいる。自覚が出てきた、とでもいうのだろうか。時々窓の外に気を取られてるあたしが言うと、部長の広瀬君に睨まれそうだけど。
全体練習を終えた後、パート毎に別れてロングトーンの練習に入る。ロングトーンとは、同じ高さの音をできるだけ長く出し続けることをいう。サクソフォン奏者やトランペット奏者など、管楽器奏者にとってスポーツでいうウォーミングアップ的に行われる行為でもあるが、同時にとても大切な練習方法である。
音がブレないように気をつけながら長く吹き続けるだけの、一見すると単調な練習。しかしながら、基礎、または礎となる大切なものである。自分がイメージする綺麗な音が出せているか確認しながら、じっくりと反芻した。
あたしは今年の春から、担当しているアルトサックスでソロパートを任せられるまでになっていた。自分よりも上手くて経験のある人が他にも居るのに、と正直驚いてしまったものだが。
でも、顧問の小園先生は、「楠は人一倍頑張っているし、実力もついて来てるから、そろそろ任せてみたい」と言ってくれた。自分に重要な役割を託してくれた先生のためにも……そして、晃君のためにも、頑張ろう。そう誓ったんだ。
ふと、窓の外へと視線を向けると、大半が散ってしまっていたはずの、桜の花びらが幾つか舞っていた。それはまるで、春のオワリを告げているかのようで。また同時に、移ろい行く季節を名残惜しんでいるかのようで。
もうすぐ新しい季節がやってくる。あたしたち三年生にとって、最後の勝負となる季節。
──よし! やるぞ!
……そう、今年で終わり。もう、来年なんてないのだし時間だって待ってはくれない。あたしは頬を叩いて、気合を入れ直した。
あたし達の、最後の夏が──やってくる。
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