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終章:そして別れの春がくる

【そして別れの春がくる】

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 雨と雪に汚れ泥にまみれた庭先で蕗の薹ふきのとうが顔を出し、平凡だった街の風景も桜の花に彩られ、春の気配を演出している。辺りは春の陽気に包まれ、咲き始めた花の甘い香りが漂い始めていた。
 新年度を迎え、幾つもの出会いと別れを見守ってきたであろう駅の待合室。細い体躯にはおよそ不釣合いであろう、大きくて赤いスーツケースを携えて、あたしは佇んでいた。手元の腕時計に視線を落としてみる。宇都宮駅を出発し、茨城方面に向かう上り線電車の到着までは、あと二十分ほどだった。
 同じ電車を待っているであろう人の姿は、他にも数多く見受けられた。ある者は期待に胸を膨らませ、ある者は家族との別れを惜しみ抱き合い、またある者は、不安そうに一人顔を俯かせていた。

「気をつけて行って来いよ。何かあったら、すぐに連絡を寄越せ」

 父親はいつになく、不安そうな低い声で話した。

「アパートに到着したら、取り敢えずは連絡を頂戴ね」

 反面母親は、あたしが不安がらないようにと配慮してのことだろう。務めて明るい声で話した。
「寂しくても泣くなよな。姉ちゃんは、泣き虫だからな」母親の背中に隠れるようにして、小学生の弟が舌をだす。「泣き虫ってなによ! 生意気だぞ!」逃げ回る弟を捕まえると、その頭を軽く小突いた。
 それは、幾度となく繰り返されてきた、何でもないやり取り。けどそれも、まもなく失われる日常の一つであることを思い出すと、ちくりと胸が痛んだ。
 スーツケースを押しながら、電車が到着するホームへと移動する。荷物がとても重く感じられた。これから移り住む土地には、家族も友だちも居ない。また一から作り上げていかねばならぬ人間関係。初めての一人暮らしに、住み慣れない環境。抱える大きな不安は、スーツケースと比較にならないほど重い。
 相変わらず後ろ向きな自分に辟易してしまう。こんなあたしのことだから、どうせ直ぐに壁に当たり、塞ぎこむ日がやってくるに違いない。スーツケースの中に忍ばせた玲の手紙は、辛くなった時あたしの一助となってくれるだろうか。
 手紙に綴られてた言葉を思い出しながら、電車が入ってくる場所で足を止めた。

 律は一足先に宇都宮市を出て、全寮制の警察学校に入る準備を始めたと聞いている。日々忙しく過ごしているようで、時々、彼女の愚痴に付き合ってあげていた。美也はスポーツ推薦で、東京にある体育大学に進学。悠里は隣町のパン屋への就職が決まった。元来物づくりが好きな彼女のことだから、ひょっとすると天職になるかもしれない。
 そんなことを、ふと思う。
 晃君は、宇都宮に拠点を置く商社への内定が決まったらしい。──らしいと言うのには理由があり、卒業式のあと疎遠となってしまった彼とは、ずっと連絡を取り合っていなかったから。
 みんな各々に目標を見つけて、新生活に向けての準備に忙殺されながらも、前を向いて歩き始めた。だから、見送りに来てくれたのは家族だけ。
 でも……それでいいと思った。あたしもいい加減に弱い自分にサヨナラを告げて、一人立ちしないといけないのだから。
 楽しかった思い出も。辛かった日々の記憶も。その双方を、生まれ育ったこの街に置いたまま、あたしは旅に出ます。既に旅立ちの日を迎えた、晃君と律を追いかけるようにして。

 ふと、学校が見えるまでの坂道の事を思い出していた。
 どうしてこんな場所に、と悪態をつきながら、長い長い坂道を登りきると、ようやく真新しい白い校舎の姿が見えてくる。懐かしい校舎の姿。三年間変わることなく、あたしを出迎えてくれた校舎。朝から膝が痛くなるような坂道の存在が、本当に嫌だと思っていた。部活動に顔を出すのが、嫌な日もあった。クラスに馴染む事が出来ず、塞ぎこんだ日もあった。彼と少しだけ会話出来たことに、心を弾ませた日もあった。それらは単調に、ただただ、穏やかに流れていた。代わり映えはしなくても、掛け替えの無い日常だったんだ。
 もう全てが過ぎ去った日々の思い出。どんなに泣いても嘆いても、取り戻すことは出来ないんだ。
 視界が僅かに滲んで、空を見上げる。もう一度だけ彼に──会いたかった。

 ──恭子。

 あたしの名前を呼ぶ声が聞こえた。毎日でも、あたしの名前を呼んで欲しいと願っていた人の声。これは痛み続ける自分の心が生み出した幻聴だ。
 かぶりを振って、有り得ない妄想を振り払う。

「恭子!!」

 もう一度はっきりと彼の声が聞こえて、ゆっくりと振り返る。そこには、灰色のスーツの上から薄手のコートを羽織った晃君が、ホームに佇む人たちに紛れるようにして立っていた。

「晃君……なんで、ここにいるの?」

 あたし、出発の日時を教えていない。そもそもバレンタインデー以降、連絡を取り合ってもいないのに。

「電車の時間、律に聞いたんだ」

 かなり急いで来たのだろうか? 肩が上下するほどに息を切らせながら、彼はこちらに向かってきた。その時『○番ホームに電車が入ります。足元に、ご注意下さい』というアナウンスが流れる。あたしが乗る予定の電車が、まもなく到着することを告げる声。

「すまん、思ったよりも時間が無さそうだから、黙って聞いてくれ」

 あたしはこくんと、無言で頷いた。こんなぎりぎりのタイミングで彼は、何を伝えようというのだろう。不安と期待がない交ぜになる中、彼の言葉に耳を傾ける。

「まずは、ずっと連絡してなかった事。そして、恭子があんなにも勇気を出して告白してくれたのに、返事もせずにフッてしまったことを許して欲しい。本当にごめん」

 うん、平気だよ、という意思をこめて頷く。そうか、やっぱりあたしフラれてたんだなあと認識しながら、それでもこの人のことが好きなんだと自分を笑いそうになる。

「もしかすると薄々勘付いてたかもしれないけれど、俺は玲の事が好きだったんだ。……たぶん、今でも」

 うん、知ってたよ、という意思をこめて頷く。途端に瞼の奥からじわじわと熱いものが溢れてきた。とっくに諦めたつもりでいたのに、内心では全く吹っ切れていなかった。

「でも、それと同じくらいに、恭子の事が気になってた。バレンタインに告白された時、本当は凄く嬉しかったんだ。でもあの時は気持ちの整理が全然ついてなくて……ハッキリと気持ちを伝えない俺のせいで、結局は二人とも傷つけてしまった」

 その直後、緑色の電車がホームへと滑り込んできた。車体の巻き起こす緩い風が、あたしの髪を微かに揺らす。晃君は舞い上がった髪を左手で抑えるように優しく触れてくると、少しだけ、あたしの顔を上に向かせた。

「あれからずっと悩んで、考えて、そんで、俺が出した答え──」

 頬に触れていた手を顎に移すと、素早く唇を重ねてきた。一度唇を離してから、「好きだ」と彼が囁いた。
 ゆっくりと顔を離すと、そのまま二人で見つめ合う。ゆらゆらと揺れ動いた彼の瞳の中には、あたしの姿だけが投影されていた。

「晃君──」

 一瞬とはいえ触れた唇の柔らかさと暖かさ、彼が放った言葉の意味を噛み締めた瞬間、晃君へのすがるような想いが全身に満ちた。でも──やっぱりダメだよ、と僅かな逡巡を覚えた直後、開いた電車の扉から溢れ出してきた人の波に、二人の間は引き裂かれる。何か言いたそうに動いた彼の唇から視線を逸らし、未練を断ち切るように背を向けた。
 あたしは電車に乗り込んでから振り向き、ホームに一人佇む彼を見た。コートの前ボタンを外し、隙間から真新しいスーツを覗かせた大人になった晃君。

「あの、恭子」

 数秒続いた気まずい沈黙を破るように、彼が言った。あたしは「うん」と擦れた声を出すことしかできない。

「恭子ならきっと――大丈夫だから!」

 晃君が声も限りに叫んだ。既に彼は泣いていたけれども、最後くらいは笑って別れようと考えたのだろう。唇の端を歪めつつも、必死に笑みを湛えてみせた。

「晃君! 連絡……するから! 手紙も!」

 からからに乾いてしまった喉から搾り出した叫びは、同時に閉まり始めた電車の扉に虚しく引き裂かれた。
 忌々しいほどに重いスーツケース引き摺って、閉まった窓際に移動する。電車が走り始め、あたし達はガラス越しにお互いの手のひらを重ねた。それは直ぐに離れてしまったけれど、確かに一瞬重なった。


 走り出した電車の中で、いつまでもあたしはドアの側に立ち尽くしていた。


 晃君の手が触れた、ガラスにそっと手を添える。重ねた手のひらが離れたあとから、彼の姿を視界の隅にとらえ続けた。しかし電車は、彼の存在も、あたしの気持ちも、全てをかき消してしまう勢いでプラットホームから離れていく。見慣れた街の景観を置き去りにして、電車はどんどんスピードを上げ加速していく。
 もはや、彼の姿も、駅のホームも完全に見えない。

 感傷に浸っている場合じゃないと、ドアの側を離れようとしたそのとき、照葉学園の校舎がガラス越しに見えた。吸い寄せられるように窓際に顔を寄せた刹那、トンネルに入り振動音が変わる。車内が唐突に暗くなって、水の中に潜ったような圧迫感が襲ってくる。重苦しい感覚が消え去り視界に光が戻った頃には、校舎の姿は見えなくなっていた。
 そうだ、と不意に気がついた。あたし達はこれから一人きりで、それぞれ生きていかないといけない。この街で──三人で──楽しく過ごした高校生活も、もう戻ってはこない。
 震える手でスマートフォンを取り出すと、晃君にメッセージを打ち始める。「あたしも、晃君のことが……」打ち始めて、一旦消した。それからも、打っては消して、打っては消して……何度も繰り返した。
 繰り返しているうちに、画面が滲んで見えなくなってくる。結局あたしは、最後もこんな感じで中途半端に終わってしまうんだな。せっかく玲が、何度も何度もチャンスを譲ってくれてたのに、生かすこともなく終わってしまうんだな。でも──今はこれでいいと思った。スマートフォンをポケットに仕舞うと、スーツケースを押して空いている席に座る。
 スーツケースの中から、日記帳と玲の手紙を取り出した。こんなにも早くお世話になるとは、自分でもちょっと想定外だ。
 ゆっくりと、日記帳のページを捲っていった。「懐かしいな……」そこに綴られていたのは、思い出すのも辛くなるほど臆病だった自分の姿。それでも、決して忘れてはいけない自分の姿。止め処なく零れ始めた涙が、あたしの膝を濡らしていった。

 ──私の分まで幸せになって下さい。

 手紙の中の玲の言葉が、彼女の声で再生される。
 うん、わかってる。もう一度やり直すから。弱かった自分の心も記憶もしっかりと受け止めた上で、あたしはこの場所からリスタートするんだ。手紙を丁寧に畳んで日記帳と一緒に仕舞い込むと、涙を拭って顔を上げる。
 もっと時間が必要だ、とあたしは思う。
 玲の告白を彼がちゃんと受け止めて、答えを見つけるまでの時間。
 それまで二人の勝負はおあずけにしよう。
 確かにこの世界に玲はもう居ないけれど。それでも、あたしと晃君の心の中で彼女は生きているのだから。

 ──今度の敵は、思い出の中の彼女か。

「手強いな」

 あたしは玲とともに旅立ちます。今度こそは輝く未来へ辿り付けると信じて。「もう、振り返らない」心の中で天国に居る親友に、そう、誓いを立てた。
 電車は静かに走り続けた。

* * *

 ──あれから、二年。

『うつのみやー、うつのみやー』

 アナウンスの声と一緒にプラットホームに吐き出される。ホームの出口に殺到する人波を見ながら、湿気の多い八月の空気を胸一杯に吸い込んだ。
 プラットホームに掛かる細長い屋根の隙間から覗いた空は、雨で煙った灰色の空。

 あれから二年と数ヶ月振りに、あたしは宇都宮駅のホームに降り立った。
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