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第三章「其々の、恋愛事情」
Part.27『雨』
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季節は七月初旬。梅雨、真っ只中。
発達した梅雨前線が日本列島を覆い隠し、昨日も雨、今日も雨、明日の予報も雨マーク、とジメジメした日が続いていた。
とはいえ、悪いことばかりではありません。駅まで向かう道すがらの住宅街。雨露に濡れた紫陽花の葉の上を、ゆっくりと這う蝸牛を見ながら私は思う。
先日、一人の男性の命を、救うことができたのだから。
それは、ほとんど奇跡的な成功とすらいえた。寿命が明滅している中年男性を街角で見つけ私が声をかけると、その直後に暴走した車が目の前の歩道に突っ込んできたのだ。
次の瞬間、男性の寿命が本来あるべき年数に変わった。そこまでを見届けて、彼が暴走車に轢かれて死ぬ運命だったのだと悟った。もはや偶然の巡り合わせ。それでも、人の命を救えたことに、私の心は満ち足りていた。
それにひきかえ――。
「先輩は、いつになったら、死にそうになるんですかね」
今泉先輩の頭上に浮かぶ、一年を示したまま変化しない寿命を恨めしそうに眺めてため息を吐く。
「いや、その言い草はオカシイ。しかも、なんでため息混じりなんだ」
ちょっと辛辣な言い方だっただろうか。返す先輩の声は心なしか震えている。
「すみません、いつもの癖です」
「そうか、癖なのか。俺が無事であることを確認して、ため息を漏らすのが習慣なのか」
私たちのすぐ後ろを歩いていた明日香ちゃんが、「ハイハイ、仲がよろしいことで」と大袈裟に両手を広げてみせた。
ここ数日間、私たちはこんな感じに、三人そろって帰宅するのが日課となっていた。
先輩の寿命、および身の周りに目立った変化はなく、事件めいたことも起きていない。平穏であるのはとてもありがたい。ありがたいのだけれども、気の抜けない状況がこうも続くと、次第に心が疲弊していくのも否めないわけで。
今日も駅から二つ手前の交差点まで到達すると、明日香ちゃんとは手を振り合って別れる。このあとは、駅まで先輩を送り届けたのち、私の自宅まで引き返す予定だった。
おやあ?
辺りが一段と暗くなったように感じて空を見上げる。
今朝からどんよりとした曇に覆われていた空は、気がつくと重苦しい鉛色にまで変化していた。こいつは、そのうちに一雨くるかもしれませんね。
「雨、降りそうですね」
「そうだなあ……。俺、傘持ってきてねーんだけど」
「私もです」
「いや、こんなときこそ、可愛い後輩が『傘、ありますよ』と笑顔で差し出してくるもんでしょ。そういうシチュエーションでしょ、今?」
「知りませんよ。ないものはないんです」
「フラグをへし折るメインヒロイン様ですね……」
先輩が肩を落とした。
「余計なお世話です」と私は思った。いや、声に出てた。「それはそうと──」
「ん?」
「先ほどの話は冗談ですが、本音をいうと心配でした。盗作騒ぎがあったとき、先輩が悲観して命を絶ってしまうんじゃないかと」
「そのわりに、心配してこなかったじゃん」
「ええ。先輩の目を見て確信したんです。確かにあのとき怒ってはいたけれど、そのことで塞ぎこんだり絶望しているようには見えなかったもので。瞳に強い光が宿っているうちは、そんなことにはならないだろうと」
先輩がふふっと小さな笑みをもらす。
「よくわかってんじゃん。ショックだったのは確かだけど、小説を書かなくなった俺に存在意義なんかないからね。そう簡単に筆を折ったりはしないよ」
「でも、スランプだった話は意外でした。そういうの、無縁の人だと思っていたんで」
そんな訳ないでしょ、と彼は自虐的に笑ってみせる。
「最近は本当に悩みっぱなしでね……。今、文化祭用に書いている小説も、似たような状況だった。自分に発破をかける目的でウェブにも並行して投稿してみたんだけど、案の定いろいろと悩み始めて行き詰ってたんだ」
「そうだったんですか?」
「ああ、目標が高すぎたんだろうね。だからちょっとでもうまくいかないと手が止まる。俺はさ、行く行くはプロの小説家になりたいと思っているからね。これを生業にして、生計を立てていくんだって気負い過ぎてたんだと思う。その辺を見直して、目指している目標を少し下げたら、だいぶ楽になった。だから最近は、結構調子が上がってきているんだ」
私は「そうか、借金の話をしているんだろうな」と察した。以前彼が、「小説を書くことは義務である」というニュアンスで話をしたのも、最終目標をプロと定めていたがゆえなのだろう。プロという足枷をいったん外したことで、彼の筆はすんなりと走るようになったに違いない。
同時に、彼の家が抱えている借金がいまだ結構な額であろうことを暗に示していたが、ひとまず自分の胸にしまっておこうと思う。
だから私は、シンプルにこれだけを伝えておいた。
「先輩なら、絶対に良い小説家になれますよ」
「当然だ。サインをもらっておくなら今のうちだぞ」
「……結構です」
そうこうしているうちに、本当に雨が降り出した。
最初小降りだった雨は次第にその激しさを増し、しまいには雷を伴う強い雷雨にまで発展してしまう。
襲い掛かかってくる雨音から逃れるように、近くの飲食店の軒先に駆け込んだ。黒々とした色に変化した空を、恨めしそうに見上げる。
「うわあ、止みそうにありませんね」
瞬間、ピシャッという激しい音と共に稲妻が虚空を切り裂いた。一拍遅れて響いた、地面を揺さぶるような轟く低音に、短く悲鳴を上げながら彼の腕をつかんだ。
「す、すいません!」
自身の行動に驚いてぱっと手を離す。
「あ、いや」
羞恥から熱を帯びた頬をさすりながら隣を見ると、こちらを向いていた先輩と目が合う。いや、正しく言えば……合ったように見えて合っていなかった。
視線が交錯しかけた刹那、彼は飛び跳ねるように顔を背けた。それら一連の動作はとても不自然に、だが、それを悟られたくないかのように、努めて自然に行われた。
なんですか──その反応。
不審に思い、彼の視線が向いていた先を目で追うと、自分の胸元に行き着いた。雨でしっとりと濡れたブラウスが肌にピッタリと貼りつき、青いブラがくっきりと透けて見えていた。
──ああ、そういうことなのね。
つまり先輩は、私のことをちゃんと異性として見てくれているということだ。私は素直に嬉しいと思った。けど、去年まで未来さんと付き合っていたんだし、こんな、胸を隠す布地くらい見慣れているでしょうに。
なんだか意外にも可愛い反応だな、と隣の顔色を窺ったそのとき、心の中で悪魔が囁いた。
【(悪魔)ふっふっふ、これはチャンスです。先輩を、からかってみましょうよ】
悪魔の言葉に、心の中の天使は難色を示す。
【(天使)悪いお人ですね。けど、たまにはそれも良いでしょう】
この瞬間、心の中の天使と悪魔ががっしり手を組んだ。
そっと手を伸ばして、ごく自然な動作で先輩の指先を軽く握ってみる。と同時に、彼の体がビクっと跳ねた。
上目遣いで、隣の顔を見上げる。
わずかに桜色に染まった頬。まっすぐ結ばれた口元。けれど、彼の瞳はこちらに向いてはいなくて、こわばった顔でただ前だけを見すえていた。
指先を絡めあっただけで、そんなに緊張しちゃうんですか。思いの外、初々しい反応ですね。
──……というか。
妙に手、冷たくないですか。氷のように冷え切っている彼の指先が、じわじわと私の体温を奪い去っていく。
「先輩──」
「ん、どうした?」
声、震えてますよ。
「うちのマンション、すぐそこなんですけど、寄っていきますか?」
「お前ん家ってマンションだったんだな」
「まあ、一応。説明したことないですもんね」
「でも、いいの?」
「だって、そのままじゃ風邪ひいちゃうでしょ。指先、異常に冷えてます」
「ああ、確かに」
彼は足元に落としていた視線を、逡巡するようにさまよわせた。
「でもなあ……、女の子の部屋って、なんだか緊張するんだよ」
ほんと、意外ですね。未来さんの部屋だって入ったことあるでしょうに。……というか、以前未来さんが言っていた通りキスは当然として、二人はどこまで『シテいる』んだろう? 二人が抱き合っている姿を妄想すると、ちょっとだけ拗ねた感情が浮かんで消えた。
なんだこれ、すごく腹立つ。変な対抗意識がわいてきた。
「俺を部屋に招き入れるってことはさ、加護が、何かあることを期待しているんじゃないかと──」
「──死んでください」
浮かんだ疚しい妄想を見透かされているようで、食い気味に彼の言葉を遮った。
「でも、これといって気遣いは不用ですよ。どうせ私の親は、仕事で遅くなりますから。しばらく、二人きりです」
彼が何かを言いかけたが、私は気づかない振りをして鉛色の空を見上げる。
「部屋。きますか?」と念押しで訊ねると、彼は無言で頷いた。
心臓が──トクン──と跳ねた。
発達した梅雨前線が日本列島を覆い隠し、昨日も雨、今日も雨、明日の予報も雨マーク、とジメジメした日が続いていた。
とはいえ、悪いことばかりではありません。駅まで向かう道すがらの住宅街。雨露に濡れた紫陽花の葉の上を、ゆっくりと這う蝸牛を見ながら私は思う。
先日、一人の男性の命を、救うことができたのだから。
それは、ほとんど奇跡的な成功とすらいえた。寿命が明滅している中年男性を街角で見つけ私が声をかけると、その直後に暴走した車が目の前の歩道に突っ込んできたのだ。
次の瞬間、男性の寿命が本来あるべき年数に変わった。そこまでを見届けて、彼が暴走車に轢かれて死ぬ運命だったのだと悟った。もはや偶然の巡り合わせ。それでも、人の命を救えたことに、私の心は満ち足りていた。
それにひきかえ――。
「先輩は、いつになったら、死にそうになるんですかね」
今泉先輩の頭上に浮かぶ、一年を示したまま変化しない寿命を恨めしそうに眺めてため息を吐く。
「いや、その言い草はオカシイ。しかも、なんでため息混じりなんだ」
ちょっと辛辣な言い方だっただろうか。返す先輩の声は心なしか震えている。
「すみません、いつもの癖です」
「そうか、癖なのか。俺が無事であることを確認して、ため息を漏らすのが習慣なのか」
私たちのすぐ後ろを歩いていた明日香ちゃんが、「ハイハイ、仲がよろしいことで」と大袈裟に両手を広げてみせた。
ここ数日間、私たちはこんな感じに、三人そろって帰宅するのが日課となっていた。
先輩の寿命、および身の周りに目立った変化はなく、事件めいたことも起きていない。平穏であるのはとてもありがたい。ありがたいのだけれども、気の抜けない状況がこうも続くと、次第に心が疲弊していくのも否めないわけで。
今日も駅から二つ手前の交差点まで到達すると、明日香ちゃんとは手を振り合って別れる。このあとは、駅まで先輩を送り届けたのち、私の自宅まで引き返す予定だった。
おやあ?
辺りが一段と暗くなったように感じて空を見上げる。
今朝からどんよりとした曇に覆われていた空は、気がつくと重苦しい鉛色にまで変化していた。こいつは、そのうちに一雨くるかもしれませんね。
「雨、降りそうですね」
「そうだなあ……。俺、傘持ってきてねーんだけど」
「私もです」
「いや、こんなときこそ、可愛い後輩が『傘、ありますよ』と笑顔で差し出してくるもんでしょ。そういうシチュエーションでしょ、今?」
「知りませんよ。ないものはないんです」
「フラグをへし折るメインヒロイン様ですね……」
先輩が肩を落とした。
「余計なお世話です」と私は思った。いや、声に出てた。「それはそうと──」
「ん?」
「先ほどの話は冗談ですが、本音をいうと心配でした。盗作騒ぎがあったとき、先輩が悲観して命を絶ってしまうんじゃないかと」
「そのわりに、心配してこなかったじゃん」
「ええ。先輩の目を見て確信したんです。確かにあのとき怒ってはいたけれど、そのことで塞ぎこんだり絶望しているようには見えなかったもので。瞳に強い光が宿っているうちは、そんなことにはならないだろうと」
先輩がふふっと小さな笑みをもらす。
「よくわかってんじゃん。ショックだったのは確かだけど、小説を書かなくなった俺に存在意義なんかないからね。そう簡単に筆を折ったりはしないよ」
「でも、スランプだった話は意外でした。そういうの、無縁の人だと思っていたんで」
そんな訳ないでしょ、と彼は自虐的に笑ってみせる。
「最近は本当に悩みっぱなしでね……。今、文化祭用に書いている小説も、似たような状況だった。自分に発破をかける目的でウェブにも並行して投稿してみたんだけど、案の定いろいろと悩み始めて行き詰ってたんだ」
「そうだったんですか?」
「ああ、目標が高すぎたんだろうね。だからちょっとでもうまくいかないと手が止まる。俺はさ、行く行くはプロの小説家になりたいと思っているからね。これを生業にして、生計を立てていくんだって気負い過ぎてたんだと思う。その辺を見直して、目指している目標を少し下げたら、だいぶ楽になった。だから最近は、結構調子が上がってきているんだ」
私は「そうか、借金の話をしているんだろうな」と察した。以前彼が、「小説を書くことは義務である」というニュアンスで話をしたのも、最終目標をプロと定めていたがゆえなのだろう。プロという足枷をいったん外したことで、彼の筆はすんなりと走るようになったに違いない。
同時に、彼の家が抱えている借金がいまだ結構な額であろうことを暗に示していたが、ひとまず自分の胸にしまっておこうと思う。
だから私は、シンプルにこれだけを伝えておいた。
「先輩なら、絶対に良い小説家になれますよ」
「当然だ。サインをもらっておくなら今のうちだぞ」
「……結構です」
そうこうしているうちに、本当に雨が降り出した。
最初小降りだった雨は次第にその激しさを増し、しまいには雷を伴う強い雷雨にまで発展してしまう。
襲い掛かかってくる雨音から逃れるように、近くの飲食店の軒先に駆け込んだ。黒々とした色に変化した空を、恨めしそうに見上げる。
「うわあ、止みそうにありませんね」
瞬間、ピシャッという激しい音と共に稲妻が虚空を切り裂いた。一拍遅れて響いた、地面を揺さぶるような轟く低音に、短く悲鳴を上げながら彼の腕をつかんだ。
「す、すいません!」
自身の行動に驚いてぱっと手を離す。
「あ、いや」
羞恥から熱を帯びた頬をさすりながら隣を見ると、こちらを向いていた先輩と目が合う。いや、正しく言えば……合ったように見えて合っていなかった。
視線が交錯しかけた刹那、彼は飛び跳ねるように顔を背けた。それら一連の動作はとても不自然に、だが、それを悟られたくないかのように、努めて自然に行われた。
なんですか──その反応。
不審に思い、彼の視線が向いていた先を目で追うと、自分の胸元に行き着いた。雨でしっとりと濡れたブラウスが肌にピッタリと貼りつき、青いブラがくっきりと透けて見えていた。
──ああ、そういうことなのね。
つまり先輩は、私のことをちゃんと異性として見てくれているということだ。私は素直に嬉しいと思った。けど、去年まで未来さんと付き合っていたんだし、こんな、胸を隠す布地くらい見慣れているでしょうに。
なんだか意外にも可愛い反応だな、と隣の顔色を窺ったそのとき、心の中で悪魔が囁いた。
【(悪魔)ふっふっふ、これはチャンスです。先輩を、からかってみましょうよ】
悪魔の言葉に、心の中の天使は難色を示す。
【(天使)悪いお人ですね。けど、たまにはそれも良いでしょう】
この瞬間、心の中の天使と悪魔ががっしり手を組んだ。
そっと手を伸ばして、ごく自然な動作で先輩の指先を軽く握ってみる。と同時に、彼の体がビクっと跳ねた。
上目遣いで、隣の顔を見上げる。
わずかに桜色に染まった頬。まっすぐ結ばれた口元。けれど、彼の瞳はこちらに向いてはいなくて、こわばった顔でただ前だけを見すえていた。
指先を絡めあっただけで、そんなに緊張しちゃうんですか。思いの外、初々しい反応ですね。
──……というか。
妙に手、冷たくないですか。氷のように冷え切っている彼の指先が、じわじわと私の体温を奪い去っていく。
「先輩──」
「ん、どうした?」
声、震えてますよ。
「うちのマンション、すぐそこなんですけど、寄っていきますか?」
「お前ん家ってマンションだったんだな」
「まあ、一応。説明したことないですもんね」
「でも、いいの?」
「だって、そのままじゃ風邪ひいちゃうでしょ。指先、異常に冷えてます」
「ああ、確かに」
彼は足元に落としていた視線を、逡巡するようにさまよわせた。
「でもなあ……、女の子の部屋って、なんだか緊張するんだよ」
ほんと、意外ですね。未来さんの部屋だって入ったことあるでしょうに。……というか、以前未来さんが言っていた通りキスは当然として、二人はどこまで『シテいる』んだろう? 二人が抱き合っている姿を妄想すると、ちょっとだけ拗ねた感情が浮かんで消えた。
なんだこれ、すごく腹立つ。変な対抗意識がわいてきた。
「俺を部屋に招き入れるってことはさ、加護が、何かあることを期待しているんじゃないかと──」
「──死んでください」
浮かんだ疚しい妄想を見透かされているようで、食い気味に彼の言葉を遮った。
「でも、これといって気遣いは不用ですよ。どうせ私の親は、仕事で遅くなりますから。しばらく、二人きりです」
彼が何かを言いかけたが、私は気づかない振りをして鉛色の空を見上げる。
「部屋。きますか?」と念押しで訊ねると、彼は無言で頷いた。
心臓が──トクン──と跳ねた。
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