痴漢を捕まえたら女の子だったので、好きに触らせてみた結果、私が百合にハマった話。

木立 花音

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第一章「関係の始まり」

【痴漢に毎日触らせてみた】

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 それから、私と赤嶺りのとの奇妙な関係が始まった。
 好きなようにさせるわけじゃない。触ることについていくつかのルールを定めた。
・触れるのは、人目を避けられる場所で。
・触れるのは衣服の上から。直接肌に触るのは禁止。
・キスはNG。
・性感帯への接触はNG。
・これは二人だけの秘密にする。家族や信頼できる友だちであっても言わないこと。

 これらをすべて厳守すること。守れなかったら、この関係は終わらせる。時間帯については特に決めなかったが、私とりのの帰宅時間は合わないようで、彼女と会うのはいつも朝のラッシュ時となった。

「おはよう」

 笑顔で手を差し出すと、りのは一瞬戸惑った顔をしてからためらいがちに私の手を取った。彼女の手はいつも少し冷たい。ふとしたことでひびが入り、粉々に砕けてしまうガラス細工のようだ。唇を噛んで俯いているその顔は、どこか奈緒を連想させた。繊細で、脆くて、危うい。
 りのを一人きりにしたくない。放っておけない。だから一緒にいる。そんな自分自身を欺瞞に満ちた偽善者だと自覚しながら、今日もりのに触れさせる。

 奈緒と過ごした日々のことを考える。
 自分が生きている意味がわからなくなったとき、決まって私はそれをする。その記憶は遠い忘却の彼方にあって、思い出せる奈緒の顔は限定的になってしまった。
 初めて会ったときのびっくりしたような顔、取り繕ったような微笑み、そして、私が彼女を拒絶してしまったときの、泣き笑いのような顔と。
 朝露に濡れた花びらのように儚いその笑みが、今のりのと重なって見えた。

【私は、どうすれば良かったのかな? 奈緒】

 答えが返ってくるはずのない問いを、いつもしている。
 君が死んでしまったあの日から、ずっと。

 りのの触れ方は、まるで壊れ物を扱うかのように優しいものだ。それは同時に、どこかもどかしくもあった。
 背中に回された手が、背筋を伝って下りていく。りのの唇が私の首筋に近付く。彼女は私の顔を見ない。首筋かうなじをじっと見ていることが多く、けれど、決して唇は触れない。真面目なのか、それとも本当に女性に興味がないのか、理由はわからないがルールは律儀に守る。
 私に触れているとき、彼女の瞳は性的な興奮を宿さない。性欲ではなく、心の隙間を埋めるために、ただ温もりを求めている。私に触れることで、なんとか自分を保とうとしているのではないか――。
 うなじに吐息がかかっても、私は気付かぬふりをする。周囲に勘づかれたくないので、りのも私も無言を貫く。
 私が降りる駅が近付くと、りのは私の背中から手を離す。それが終わりの合図だ。
 触れていた場所から温もりがスッと遠ざかり、いくばくかの寂寥感を覚える。彼女はもうこちらを見ない。そうして、潮が引くように終わるのが、いつもの流れだった
 最初はぎこちなかった触り方も、奇妙な関係が繰り返されるうちに慣れたものになっていく。手指の動きが、ちょっとずつ大胆になっていく。

「一ノ瀬さん」

 これまで話しかけてくることはなかったのに、どうしたことか。耳元で囁かれたので、吐息が耳朶をくすぐって肩が震えた。

「気持ちいいですか?」

 私が何も言わないので、不安になっているのだろうか。とはいえ答えるわけにいかず沈黙していると、腰に添えられていた手がためらいがちに下がっていった。

「あ、ちょっと」

 慌ててその手を掴む。りのは驚いたように私を見た。

「そこはダメ」
「……ごめんなさい」

 りのは基本的に素直だ。手が私の腰に戻り、指先が身体の線を確かめるみたいに円を描く。指一本での軽い接触はむしろくすぐったくて、吐息が漏れた。
 もし私が許していたら、奈緒もこんな風に触れたのだろうか。それとも、私を信頼しきって、無警戒に身を委ねてきただろうか。その答えを知る機会は、永遠に失われてしまった。
 少し大胆になったことで、これまであった均衡が崩れたのかもしれない。

「ねえ、あなた。顔色が悪いけど大丈夫?」

 背中から声がして振り向くと、三十代ほどの見知らぬ女性が私を見ていた。真面目そうな雰囲気の人だ。

「私のことですか?」
「あなたしかいないでしょ。嫌なら、ちゃんと声を上げたほうがいいわよ」
「だから、なんの話ですか?」
「その、あなた、今痴漢されてるんじゃないの?」
「……え?」

 女性が、疑いの目をりのに向ける。異変を察知したりのが素早く手を離したので、気のせいだったのかと悩んでいる様子だ。

「あの、私なら大丈夫です。電車が揺れたときに、偶然手が触れただけじゃないかと」
「え、そうなの?」

 女性は納得していないようだったが、それ以上の詮索はしてこない。
 りのは我関せずといった顔で窓の外を見ている。私もりのを一度も見なかった。

「紛らわしいことしないでほしいわ」

 迷惑そうな顔で悪態をつき、女性は首を傾げながら離れていった。
 どうにか誤魔化せた。
 いつもの駅で電車を降り、りのにチャットアプリでメッセージを送った。

『彼女、気付いてたみたい。もう、電車ではやめたほうがいいかも』

 既読はすぐについたが、返信はなかった。
 なんか気まずい。顔を上げると、電車の中のりのが目に入った。彼女の視線はこっちに向いてはいない。やれやれとため息を落とし改札へ向かった。
 それから、りのは私の前に姿を現さなくなった。
 与える側である私から連絡をするのは変な話で、なら、向こうから声をかけてくるのを待つしかないのだが、りのからは待てど暮らせど音沙汰がない。毎日のように顔を合わせていただけに、なんとなく落ち着かない。

 りのがいなくなって一週間。同じような毎日を繰り返していた。朝起きて学校へ行き、帰宅して眠るだけ。暇を持て余してテレビをつけてみても、内容が頭に入ってこない。どうしてりのがいないというだけで、こんなにも退屈なのだろうと自分でも不思議だった。
 惰性で、なぞっていただけの日常に変化があったのは、十日後のことだった。
 仕事終わり、駅に向かい電車に乗ると、ふと視線が隣に吸い寄せられる。そこには赤嶺りのがいた。吊り革を強く握り、じっと足元を見ている。

「ねえ」
「……っ」

 私に気付いてなかったのか、弾かれたように顔を上げた。

「返信くらい、してくれたらよかったのに」

 一度合った目をりのが逸らす。顔を逸らしたまま、「すみませんでした」と小さく呟いた。

「別に気にしてないよ」

 空席が二人分できたので並んで座る。逡巡する仕草を見せてから、彼女はためらいがちに口を開いた。

「一ノ瀬さんは……どうして私に触ってもいいと許してくれるんですか?」

 俯いている彼女の瞳は不安げで、叱られるのを恐れている子どもみたいだ。
 これを機に、身を引こうと思っていたのだろうな。

「うーん、なんでだろう」

 りのを助けたかった。私が更生させるべきだと思った。でも、「なぜ?」の部分をきちんと言語化してなかったので、この機会に考えてみる。
 奈緒のことを思い出すから? それとも……。

「罪悪感、かな」
「え?」
「あなたに優しくしたい。そう思うからかも」

 話の流れが見えないとでも言わんばかりに、りのは虚を突かれた顔をしていた。
 まあ、この話の流れじゃわからないよなって思う。

「罪悪感って……それはおかしいです。触ったのは私からです。私が罪悪感を持つならともかく、どうして一ノ瀬さんが」
「うん、最初は嫌だったよ。でも今は違う。あなたが私に触れることで落ち付くのなら、それでいい。別に減るものじゃないしね。……だから、今こうして話しかけているわけで」
「ごめんなさい、私……」
「いいってば」

 彼女の言葉を遮った。いたずらに罪悪感を抱かせたくない。

「気にしないでって何度も言ってるでしょ。だから謝らないで。それとも、私が何か悪いことした?」
「……いえ、とんでもないです!」

 りのはぶんぶんと首を振って否定する。

「私ね、昔、友だちを殺してしまったことがあるの」

 りのが驚いた顔をしたが、私は構わず続ける。

「その子は赤嶺さんと同じで、女性の身体に触りたいという欲求のある女の子だった。でも、私は彼女を救えなかったの。そのことを、今でも悔いているの。だから、これは私の罪滅ぼしみたいなもの。私が望んでやっていることだから、あなたは何も気にしなくていいんだよ」

 りのは何か言いたげだったが、言葉にならず唇を噛んだ。その表情を見て、奈緒とりのが似ていると感じた。面影がある――だが、同時にどこか異なる。
 あらゆる物事には深度がある。それは川の流れのようでもある。足を濡らしても浅瀬ならすぐ岸に戻れるが、深淵に一度嵌まったら流れに呑まれて戻れなくなる。
 今ならまだ、彼女は戻れる。

「ねえ赤嶺さん、うちに来ない? 一人暮らしだから誰もいないよ」
「え……?」
「もちろん嫌なら断ってくれていいんだけど」

 私の降りる駅に着いたとき、そんな言葉がふと口をついて出た。
 りのが小さく息を呑む。
     

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