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第二章「雨の日の記憶」
【今でも、雨の日になると思い出す(1)】
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その日は、急に雨が降り出したのだと思う。
高三の六月、梅雨の気配が色濃く漂っていたある日のことだ。いつものように漫画談義で盛り上がりながら、奈緒と二人で帰り道を歩いていたら、突然の強い雨に見舞われた。
「どうしよう……急に降ってきちゃった」
逃げ込んだ商店の軒下で、奈緒が空を見上げて呟く。空は墨をぶちまけたような漆黒で、雲間で稲妻が鋭く閃き、奈緒が小さな悲鳴を上げる。彼女は雷が苦手だった。
駅を出たときは小雨だったのに、瞬く間にバケツをひっくり返したような土砂降りになった。雨粒が激しくアスファルトを叩く音が、耳を圧する。
「これじゃ濡れちゃうな……」
「雨が止むまでうちに来る? シャワーでも浴びてさ、その間に濡れた服を乾かすといいよ」
「え、でも……」
「私の家、すぐそこだから。この雨だとしばらく止みそうにないし……ね?」
奈緒の家は駅から少し遠く、いつも自転車で駅まで通っている。家で傘を貸してもいいけど、雷鳴が響いている中、傘を差して自転車に乗るのは危ない。それに、彼女が風邪を引いたら大変だ。
「じゃあ……お邪魔してもいい、かな?」
奈緒は遠慮がちにそう言った。彼女の頬が、ほのかに赤らんでいるように見えたのは、雨の冷たさのせいだけではなかったかもしれない。
この時間、家には誰もいない。それを説明すると、奈緒はリラックスした空気になった。
二人で順番にシャワーを浴び、濡れた制服は私の部屋のハンガーに吊るした。余っていたティーシャツとスウェットを奈緒に貸すと、「お揃いみたいだね」と彼女がくすっと笑う。その笑顔が妙に艶めかしくて、私は慌てて目を逸らした。
雨で冷えた身体を温めるために、キッチンで紅茶を淹れた。棚で見つけたクッキーも一緒に持っていく。
「このカップ、すごく可愛いね」
奈緒がティーカップを手に持ち、目を細めた。金色の縁取りが施された白いカップには青い薔薇の模様が繊細に描かれていて、それなりに値が張るものだった。
「うん、買ったとき母さんが気に入ってさ」
「ふーん」と奈緒は気のない返事をしたが、彼女が指でカップの縁をそっとなぞる仕草から、なぜか目が離せなかった。
「これ、うちにも欲しいなー」と奈緒がぽつりと言う。
「お母さんに頼んでみたら? 売っているお店、教えてあげるよ。少し値が張るかもしれないけどね……」
奈緒の表情が少しだけ曇った。カップをテーブルに置き、「ダメなんだ」と首を振る。
「え? なんで?」
「うち、お母さんいないからさ」
これには言葉を失う。
いつも奈緒と一緒にいたのに、私はそんなことも知らずにいた。無神経なことを言ってしまった自分に強く失望した。
「ごめんね……私、奈緒のことなんにも知らなくて」
「なんであやまるの? こっちこそごめん。なんか変な空気になっちゃったね」
奈緒の寂しげな顔を見ていると、胸に何かが引っ掛かる。こんなに大事なことを彼女が今まで話してくれなかったのは、私が彼女の心にちゃんと寄り添えていなかったからじゃないのか。
もっと彼女に近付きたい。同時に、近付いてほしい。
「うちもね、奈緒の家と少し似ているんだ。うちの場合、いないのは父親のほうだけど」
「え、詩、どういうこと?」
「外に女の人作って出て行っちゃって。それから、姉と母親と私の三人暮らし」
奈緒が目を丸くして、私の顔をじっと見つめた。
「え、ほんと? それ……いつ頃の話?」
「んー、小学校のときかな。もう結構経つよ。最初はさ、なんか信じられなくて、母さんも私もボロボロだったけど……今は、まあ、支え合いながらなんとかやってるって感じ」
私もそうだったが、特に姉は「自分が母親を支えなければ」という思いを強く抱いていたのだろう。教師になることを志し、高校を卒業後、地元から遠く離れた場所にある大学に進学した。
私が養護教諭を目指したのは、間違いなく姉の影響だった。
「そっか……詩も、そういうのあったんだね。全然、知らなかったよ」
「うん。なんかさ、こういう話って、タイミングないとなかなか言えないよね。奈緒が話してくれて、ちょっとホッとしたっていうか……私も、話してみようかなって思ったの」
お互いに似た境遇にあるとは思っていなかった。いつも一緒にいたのに、心から語り合ったことがなかったのだと、今になって痛感する。
「お互い様だね」と奈緒が笑う。「詩も話してくれてありがとう。なんか、ちょっとだけ安心したかも」
「え、なんで?」
「詩って、傍から見ていると完璧なんだよね。成績はいいし、性格は明るくて友だちが多いし。隙がないっていうか。……でも、こうして、私と似た悩みを抱えているんだなってわかると、親近感が湧くっていうか。……これっておかしいかな?」
「いや、全然! 私も、奈緒が自分のことを話してくれて、ちょっと嬉しかったよ」
高三の六月、梅雨の気配が色濃く漂っていたある日のことだ。いつものように漫画談義で盛り上がりながら、奈緒と二人で帰り道を歩いていたら、突然の強い雨に見舞われた。
「どうしよう……急に降ってきちゃった」
逃げ込んだ商店の軒下で、奈緒が空を見上げて呟く。空は墨をぶちまけたような漆黒で、雲間で稲妻が鋭く閃き、奈緒が小さな悲鳴を上げる。彼女は雷が苦手だった。
駅を出たときは小雨だったのに、瞬く間にバケツをひっくり返したような土砂降りになった。雨粒が激しくアスファルトを叩く音が、耳を圧する。
「これじゃ濡れちゃうな……」
「雨が止むまでうちに来る? シャワーでも浴びてさ、その間に濡れた服を乾かすといいよ」
「え、でも……」
「私の家、すぐそこだから。この雨だとしばらく止みそうにないし……ね?」
奈緒の家は駅から少し遠く、いつも自転車で駅まで通っている。家で傘を貸してもいいけど、雷鳴が響いている中、傘を差して自転車に乗るのは危ない。それに、彼女が風邪を引いたら大変だ。
「じゃあ……お邪魔してもいい、かな?」
奈緒は遠慮がちにそう言った。彼女の頬が、ほのかに赤らんでいるように見えたのは、雨の冷たさのせいだけではなかったかもしれない。
この時間、家には誰もいない。それを説明すると、奈緒はリラックスした空気になった。
二人で順番にシャワーを浴び、濡れた制服は私の部屋のハンガーに吊るした。余っていたティーシャツとスウェットを奈緒に貸すと、「お揃いみたいだね」と彼女がくすっと笑う。その笑顔が妙に艶めかしくて、私は慌てて目を逸らした。
雨で冷えた身体を温めるために、キッチンで紅茶を淹れた。棚で見つけたクッキーも一緒に持っていく。
「このカップ、すごく可愛いね」
奈緒がティーカップを手に持ち、目を細めた。金色の縁取りが施された白いカップには青い薔薇の模様が繊細に描かれていて、それなりに値が張るものだった。
「うん、買ったとき母さんが気に入ってさ」
「ふーん」と奈緒は気のない返事をしたが、彼女が指でカップの縁をそっとなぞる仕草から、なぜか目が離せなかった。
「これ、うちにも欲しいなー」と奈緒がぽつりと言う。
「お母さんに頼んでみたら? 売っているお店、教えてあげるよ。少し値が張るかもしれないけどね……」
奈緒の表情が少しだけ曇った。カップをテーブルに置き、「ダメなんだ」と首を振る。
「え? なんで?」
「うち、お母さんいないからさ」
これには言葉を失う。
いつも奈緒と一緒にいたのに、私はそんなことも知らずにいた。無神経なことを言ってしまった自分に強く失望した。
「ごめんね……私、奈緒のことなんにも知らなくて」
「なんであやまるの? こっちこそごめん。なんか変な空気になっちゃったね」
奈緒の寂しげな顔を見ていると、胸に何かが引っ掛かる。こんなに大事なことを彼女が今まで話してくれなかったのは、私が彼女の心にちゃんと寄り添えていなかったからじゃないのか。
もっと彼女に近付きたい。同時に、近付いてほしい。
「うちもね、奈緒の家と少し似ているんだ。うちの場合、いないのは父親のほうだけど」
「え、詩、どういうこと?」
「外に女の人作って出て行っちゃって。それから、姉と母親と私の三人暮らし」
奈緒が目を丸くして、私の顔をじっと見つめた。
「え、ほんと? それ……いつ頃の話?」
「んー、小学校のときかな。もう結構経つよ。最初はさ、なんか信じられなくて、母さんも私もボロボロだったけど……今は、まあ、支え合いながらなんとかやってるって感じ」
私もそうだったが、特に姉は「自分が母親を支えなければ」という思いを強く抱いていたのだろう。教師になることを志し、高校を卒業後、地元から遠く離れた場所にある大学に進学した。
私が養護教諭を目指したのは、間違いなく姉の影響だった。
「そっか……詩も、そういうのあったんだね。全然、知らなかったよ」
「うん。なんかさ、こういう話って、タイミングないとなかなか言えないよね。奈緒が話してくれて、ちょっとホッとしたっていうか……私も、話してみようかなって思ったの」
お互いに似た境遇にあるとは思っていなかった。いつも一緒にいたのに、心から語り合ったことがなかったのだと、今になって痛感する。
「お互い様だね」と奈緒が笑う。「詩も話してくれてありがとう。なんか、ちょっとだけ安心したかも」
「え、なんで?」
「詩って、傍から見ていると完璧なんだよね。成績はいいし、性格は明るくて友だちが多いし。隙がないっていうか。……でも、こうして、私と似た悩みを抱えているんだなってわかると、親近感が湧くっていうか。……これっておかしいかな?」
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