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第三章「愛と葛藤の深化 」
【もどかしい彼女の触れ方……祐介との軋轢】
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驚く間もなく、彼女の唇が喉元に落ちた。柔らかくて熱い感触。まるで溶けた蜜が肌を滑るみたいに、彼女の唇が首筋をなぞる。ぞくぞくと背筋が震え、頭が真っ白になる。
「り、の…っ」
上げようとした声は吐息に変わる。彼女の唇が、首から耳の裏へと向かってゆっくりと、だが執拗に這う。熱い波が全身を駆け巡る。
「いけませんでしたか?」
「ううん。大丈夫」
りのの手が、胸元から背中に滑る。背骨にそってつーーと指でなぞられると、心臓を握られるみたいなその感触にぞくりとした。「んんっ」とくぐもった声が漏れた。
「……こらっ! まだ質問していないでしょ? ルール違反だよ」
「すみません。詩さんの反応がもっと見たくて」
「まったく、もう」
ぎゅっと強く抱きしめられて身動きが取れなくなる。彼女が熱い息を漏らすたびに、くすぐったさと快感の間で感情が翻弄される。
「近所の人で、よく挨拶を交わす人はいる?」
「不思議な質問をするんですね? ……えっと、あんまりいないかな。こちらから挨拶をしても、無視されることが多いので」
「そうなんだ」
地域コミュニティでは、親の態度が家庭全体のイメージに影響を与えることがある。親が近隣の住民と積極的に交流せず、挨拶や関わりを避けている場合、その家庭を「閉鎖的」と感じ子どもへの挨拶にも反応しづらくなる。
そういうことかもしれない。
りのの手のひらは私のお腹へ。指先がくるりと輪を描いて、おへそのあたりに留まる。
「私が十歳くらいのときかな? お母さんが近所のおばさんと口論になって、おばさんを殴ったことがあるの」
「それ、本当?」
「うん、本当だよ。何が原因だったかはわからないけど、お母さん、それから何年もおばさんのことを恨んでいるから」
少し気の強い人なのだろうとは思ってはいたが、近隣住民とのトラブルが実際にあったとまでは予測してなかった。
少ない会話。浮き沈みの激しい母親の態度。近隣住民とのトラブル。太ももに煙草の火を押し当てられ、それでも、母親のことは嫌いではないという。なぜだろう、どこかちぐはぐだ。
――被害者側は無意識のうちに現実から目を逸らすという。家庭内での虐待ならなおさらだ。
そういう、ことだろうか?
「今日は、母親に何か嫌なことをされたの?」
「えー? そんなことないよ。第一、今日はお母さん仕事でいないし」
「そっか。そうなんだ」
てっきり、母親とトラブルがあったと思っていたが違ったようだ。
嘘をついているんじゃないのか。職業柄、私は人の嘘を見抜くのに長けているが、そういった風には見えなかった。
ならどうして、彼女は傘も差さずにやって来たのか。あんなに顔色が良くなかったのか……?
お腹の上に乗った手は、ピアノの鍵盤を叩くみたいに指先が動くのみだ。それだけの刺激なのに、伝わってくる温もりで心が解けていく。もどかしくなっているのを見透かしたように、りのの指先が徐々に動き出す。円を描く手のひらの動きは、じれったいほどゆっくりだ。彼女の心臓の鼓動が、重なった身体から伝わってくる。彼女の手が、私の胸のふくらみを避けるように、しかし限りなく近くを彷徨う。ルールは崩れていく。
「お母さん、私のこと嫌いになっちゃったのかな」
彼女の声は潤んでいる。
「最近、私のこと、好きだと言ってくれない」
「そんなこと、ないと思うよ」
「詩さんがそう言ってくれると、嬉しいです」
りのの指が頤に触れ、顔を上げさせられる。正面から見つめ合うと、彼女の唇が落ちてきて私の唇と重なった。
私にできるのは、ただ抱きしめてあげることだけだ。りのを安心させるため背中を優しく撫でると、彼女は少し身じろぎした。
りのがキスを求めてくるたび、「ルール違反」と言ってかわしてきた。けれど、そのルールはすでにない。
これは、彼女から情報を得るための対価だから。そう言い訳をして、りのの唇の感触を味わう。柔らかくて、少し冷たい。
「詩さん……好き……」
キスの合間に漏れる言葉は、甘い囁きだった。
りのの両手足が絡み付いてきて、身体が密着する。りのの太ももが私の足の間に割り込んできて、服の上から膝を押し付けられると、甘やかなその刺激に身体がじわっと熱くなった。隙間なく密着しているせいで、胸同士がこすれ合って落ち着かない。
それなのに、抱きしめてくる彼女の手は背中から動かなくてもどかしい。
「詩さん」
りのが何度も私の名前を呼ぶ。彼女の吐息と体温が耳元をかすめるたびに体温が上がっていく。
彼女が上体を起こした。見下ろす瞳には涙が溜まっていて、今にも零れそうだ。
零れそうなそれを指で拭う。彼女は私の手を取って、指先を口に含んだ。まるで飴を舐めるように、私の指先を舌の上で転がし、丹念に指の形をなぞっていく。
「詩さん」
ブラウスの上から、りのが両手で胸のふくらみに触れた。乱暴に揉むことはせず、摩るように手のひらを滑らせる。くすぐったいようなゾクゾクするような感覚が走り、気持ちのいい吐息が漏れて、そんな反応をしてしまう自分が恥ずかしい。
「りの」と呼んだ唇を、キスで塞がれた。
キスを続けながら、空いている方の手が下半身に伸びてくる。ショートパンツのボタンがぷち、と外されて、ファスナーがゆっくり下ろされていく。
「あ、や……」
ショートパンツの中に侵入しようとした手を、慌てて押さえた。
「もうおしまい!」
「えー……」
「もう充分堪能したでしょ? その先はまた今度ね」
その先ってなんだろう。絶対にしたくないとは思わないが、したいわけでもない。
つまり、嫌ではない。そう思った自分に困惑する。
りのは不満そうな表情を浮かべていたが、やがて諦めたのかゆっくりと身体を離した。
「詩さん、ありがとう。楽しかったです」
りのが照れたように頬を赤らめる。唐突にするそのリアクションは可愛いなと思う。彼女の頬を両手で挟んで引き寄せ、額に口付けた。ちゅ、と小さな音を立てて離れると、彼女は驚いたように目を丸くしていた。
「この続きは……また今度ね」
そのとき、部屋の外でガタッと物音がした。寝室の扉が開き、驚いて目を向けると開いた扉の向こうに祐介が立っていた。
「……何してるんだ、詩?」
祐介の顔は凍り付いている。声は低く震えていて、怒りが滲んでいる。
「祐介!? な、なんでここにいるの……?」
祐介は一歩踏み込んでりのを睨んだ。布団を手繰り寄せ、背を丸めたりのを、私は背中に庇った。
「なんでだって? 詩、俺はお前の恋人だぞ? 合鍵を使って入ってきて何が悪い? そんなことより、なんだこの子は……? こんな……こんなこと!」
思い付く限りの言い訳を頭に並べた。「親戚の女の子なの」「学校の生徒が遊びに来て」だが、このくらいの歳の親戚はいないし、学校の生徒だったとしても布団の中で抱き会うなんてありえない。言い逃れできそうになかった。
これは、養護教諭として社会的に抹殺されるような失態だ。
「ご、ごめんなさい……。私が……私が悪いんです」
謝罪したりのの肩を押さえ、「大丈夫」と呟く。祐介に向き直り、声を抑えて冷静さを装う。
「祐介、落ち着いて。違うの、これは……りのを慰めていただけ。彼女、精神的に不安定なところがあって……」
もとより言い逃れの余地はなかったが、彼女の謝罪によっていよいよ否定できなくなった。角を立てず、本当のことを伝えるしかない。
それにしても、なぜ。
彼は今日「用事があって家には来られない」と言っていたのに。インターホンを鳴らしてくれてもよかったのではないか——。
そんな疑問が次々と頭をよぎる。
扉が開くまでまったく気付かなかったのは、
物音が一切しなかったからだ。
もしかしてわざと足音を忍ばせていたのか……と一瞬疑いそうになったけれど、すぐに思い直す。
そんなことを疑う資格なんて、私にはない。
「慰める? 布団で二人で抱き合ってか? 詩、俺を馬鹿にしてるのか? この子、他校の生徒だろ! 教師が……こんなことするなんて!」
胸が締め付けられるように疼いた。罪悪感が冷たく心を刺して、彼女への愛情が温かく胸を満たした。相反する熱量を持った想いが交錯し、抑えきれない震えとなって全身を揺さぶった。
「違う、祐介! りのは……特別な子なの。彼女、家庭で虐待されてて……私が支えないと……」
「虐待だって? 証拠はあるのか?」
「……まだないわ」
実際、明白なものはまだなかった。
祐介は嘲笑うように鼻で笑い、私を指差す。社会規範を盾に攻撃されている気分だ。
「だとしても、教師が生徒とこんな関係になるのが許されるわけ? 詩、わかってるだろ? これは不適切だ。学校が知ったら……いや、PTAが知ったら終わりだぞ!」
脅迫されているのだと、心が理解した。
「詩さんのせいじゃない! 私が……私がお願いしたの! 詩さんはただ、私に優しくしてくれただけ……」
りのが涙声で告げる。あくまでも自分のせいだと訴えて、私を庇ってくれている。
「優しくだって? 詩、俺にはそんな優しさ見せなくなったよな。最近は、デート中もどこか上の空だし。俺の手を避けて……全部この子とこんなことをしていたからか? 俺が気付いていないとでも思っていたのか……?」
祐介の言葉が胸に刺さる。彼に隠れてしていたことなので、弁解の余地がない。
「もういいよ」
吐き捨てて、祐介が寝室を出ていった。
祐介への裏切りを自覚して、私はその場に呆然と立ち尽くした。
「……ごめんなさい……。私のせいで、祐介さんを怒らせてしまった」
「いいの、気にしないで。全部好きでやったことだから。全部私が悪いから」
「追いかけてください」
りのの言葉に背筋が伸びた。わかっている。彼女はすべて自分の責任なのだと感じ、罪悪感で潰れそうになっている。ここで私が祐介を追わなかったら、いよいよ彼女は潰れてしまう。
けれど。けれど……。
「祐介さん、絶対に誤解したままですよ」
「それは……そうかもしれない。でも、どうやって?」
「包み隠さず、本当のことを話してください。私との間に、恋愛感情がないことも」
それでどうにかなるだろうか?
それであなたはいいの?
一瞬躊躇した。けれど。
「わかった、ごめんね。りの」
行くしかなかった。着替えをして、スマホとバッグをつかんだ私に彼女が言った。
「もう、二人で会うのはやめましょう」
「でも……本当にそれでいいの?」
「今日話を聞いてもらえて、心がほっとしていたんです。私ならもう大丈夫だから、詩さんは、詩さんの恋を優先して」
「わかった」
ジンプルな返答に留め、部屋を出る。
りのの顔を立てたのもあるが、淡泊なやり取りにしたのは意図的だった。もうすぐ夏休みがやってくる。距離を置くにはちょうどいいタイミングだった。世の中にあるすべてのものが、彼女に優しくあってほしい。
そう、自分に言い聞かせた。
「り、の…っ」
上げようとした声は吐息に変わる。彼女の唇が、首から耳の裏へと向かってゆっくりと、だが執拗に這う。熱い波が全身を駆け巡る。
「いけませんでしたか?」
「ううん。大丈夫」
りのの手が、胸元から背中に滑る。背骨にそってつーーと指でなぞられると、心臓を握られるみたいなその感触にぞくりとした。「んんっ」とくぐもった声が漏れた。
「……こらっ! まだ質問していないでしょ? ルール違反だよ」
「すみません。詩さんの反応がもっと見たくて」
「まったく、もう」
ぎゅっと強く抱きしめられて身動きが取れなくなる。彼女が熱い息を漏らすたびに、くすぐったさと快感の間で感情が翻弄される。
「近所の人で、よく挨拶を交わす人はいる?」
「不思議な質問をするんですね? ……えっと、あんまりいないかな。こちらから挨拶をしても、無視されることが多いので」
「そうなんだ」
地域コミュニティでは、親の態度が家庭全体のイメージに影響を与えることがある。親が近隣の住民と積極的に交流せず、挨拶や関わりを避けている場合、その家庭を「閉鎖的」と感じ子どもへの挨拶にも反応しづらくなる。
そういうことかもしれない。
りのの手のひらは私のお腹へ。指先がくるりと輪を描いて、おへそのあたりに留まる。
「私が十歳くらいのときかな? お母さんが近所のおばさんと口論になって、おばさんを殴ったことがあるの」
「それ、本当?」
「うん、本当だよ。何が原因だったかはわからないけど、お母さん、それから何年もおばさんのことを恨んでいるから」
少し気の強い人なのだろうとは思ってはいたが、近隣住民とのトラブルが実際にあったとまでは予測してなかった。
少ない会話。浮き沈みの激しい母親の態度。近隣住民とのトラブル。太ももに煙草の火を押し当てられ、それでも、母親のことは嫌いではないという。なぜだろう、どこかちぐはぐだ。
――被害者側は無意識のうちに現実から目を逸らすという。家庭内での虐待ならなおさらだ。
そういう、ことだろうか?
「今日は、母親に何か嫌なことをされたの?」
「えー? そんなことないよ。第一、今日はお母さん仕事でいないし」
「そっか。そうなんだ」
てっきり、母親とトラブルがあったと思っていたが違ったようだ。
嘘をついているんじゃないのか。職業柄、私は人の嘘を見抜くのに長けているが、そういった風には見えなかった。
ならどうして、彼女は傘も差さずにやって来たのか。あんなに顔色が良くなかったのか……?
お腹の上に乗った手は、ピアノの鍵盤を叩くみたいに指先が動くのみだ。それだけの刺激なのに、伝わってくる温もりで心が解けていく。もどかしくなっているのを見透かしたように、りのの指先が徐々に動き出す。円を描く手のひらの動きは、じれったいほどゆっくりだ。彼女の心臓の鼓動が、重なった身体から伝わってくる。彼女の手が、私の胸のふくらみを避けるように、しかし限りなく近くを彷徨う。ルールは崩れていく。
「お母さん、私のこと嫌いになっちゃったのかな」
彼女の声は潤んでいる。
「最近、私のこと、好きだと言ってくれない」
「そんなこと、ないと思うよ」
「詩さんがそう言ってくれると、嬉しいです」
りのの指が頤に触れ、顔を上げさせられる。正面から見つめ合うと、彼女の唇が落ちてきて私の唇と重なった。
私にできるのは、ただ抱きしめてあげることだけだ。りのを安心させるため背中を優しく撫でると、彼女は少し身じろぎした。
りのがキスを求めてくるたび、「ルール違反」と言ってかわしてきた。けれど、そのルールはすでにない。
これは、彼女から情報を得るための対価だから。そう言い訳をして、りのの唇の感触を味わう。柔らかくて、少し冷たい。
「詩さん……好き……」
キスの合間に漏れる言葉は、甘い囁きだった。
りのの両手足が絡み付いてきて、身体が密着する。りのの太ももが私の足の間に割り込んできて、服の上から膝を押し付けられると、甘やかなその刺激に身体がじわっと熱くなった。隙間なく密着しているせいで、胸同士がこすれ合って落ち着かない。
それなのに、抱きしめてくる彼女の手は背中から動かなくてもどかしい。
「詩さん」
りのが何度も私の名前を呼ぶ。彼女の吐息と体温が耳元をかすめるたびに体温が上がっていく。
彼女が上体を起こした。見下ろす瞳には涙が溜まっていて、今にも零れそうだ。
零れそうなそれを指で拭う。彼女は私の手を取って、指先を口に含んだ。まるで飴を舐めるように、私の指先を舌の上で転がし、丹念に指の形をなぞっていく。
「詩さん」
ブラウスの上から、りのが両手で胸のふくらみに触れた。乱暴に揉むことはせず、摩るように手のひらを滑らせる。くすぐったいようなゾクゾクするような感覚が走り、気持ちのいい吐息が漏れて、そんな反応をしてしまう自分が恥ずかしい。
「りの」と呼んだ唇を、キスで塞がれた。
キスを続けながら、空いている方の手が下半身に伸びてくる。ショートパンツのボタンがぷち、と外されて、ファスナーがゆっくり下ろされていく。
「あ、や……」
ショートパンツの中に侵入しようとした手を、慌てて押さえた。
「もうおしまい!」
「えー……」
「もう充分堪能したでしょ? その先はまた今度ね」
その先ってなんだろう。絶対にしたくないとは思わないが、したいわけでもない。
つまり、嫌ではない。そう思った自分に困惑する。
りのは不満そうな表情を浮かべていたが、やがて諦めたのかゆっくりと身体を離した。
「詩さん、ありがとう。楽しかったです」
りのが照れたように頬を赤らめる。唐突にするそのリアクションは可愛いなと思う。彼女の頬を両手で挟んで引き寄せ、額に口付けた。ちゅ、と小さな音を立てて離れると、彼女は驚いたように目を丸くしていた。
「この続きは……また今度ね」
そのとき、部屋の外でガタッと物音がした。寝室の扉が開き、驚いて目を向けると開いた扉の向こうに祐介が立っていた。
「……何してるんだ、詩?」
祐介の顔は凍り付いている。声は低く震えていて、怒りが滲んでいる。
「祐介!? な、なんでここにいるの……?」
祐介は一歩踏み込んでりのを睨んだ。布団を手繰り寄せ、背を丸めたりのを、私は背中に庇った。
「なんでだって? 詩、俺はお前の恋人だぞ? 合鍵を使って入ってきて何が悪い? そんなことより、なんだこの子は……? こんな……こんなこと!」
思い付く限りの言い訳を頭に並べた。「親戚の女の子なの」「学校の生徒が遊びに来て」だが、このくらいの歳の親戚はいないし、学校の生徒だったとしても布団の中で抱き会うなんてありえない。言い逃れできそうになかった。
これは、養護教諭として社会的に抹殺されるような失態だ。
「ご、ごめんなさい……。私が……私が悪いんです」
謝罪したりのの肩を押さえ、「大丈夫」と呟く。祐介に向き直り、声を抑えて冷静さを装う。
「祐介、落ち着いて。違うの、これは……りのを慰めていただけ。彼女、精神的に不安定なところがあって……」
もとより言い逃れの余地はなかったが、彼女の謝罪によっていよいよ否定できなくなった。角を立てず、本当のことを伝えるしかない。
それにしても、なぜ。
彼は今日「用事があって家には来られない」と言っていたのに。インターホンを鳴らしてくれてもよかったのではないか——。
そんな疑問が次々と頭をよぎる。
扉が開くまでまったく気付かなかったのは、
物音が一切しなかったからだ。
もしかしてわざと足音を忍ばせていたのか……と一瞬疑いそうになったけれど、すぐに思い直す。
そんなことを疑う資格なんて、私にはない。
「慰める? 布団で二人で抱き合ってか? 詩、俺を馬鹿にしてるのか? この子、他校の生徒だろ! 教師が……こんなことするなんて!」
胸が締め付けられるように疼いた。罪悪感が冷たく心を刺して、彼女への愛情が温かく胸を満たした。相反する熱量を持った想いが交錯し、抑えきれない震えとなって全身を揺さぶった。
「違う、祐介! りのは……特別な子なの。彼女、家庭で虐待されてて……私が支えないと……」
「虐待だって? 証拠はあるのか?」
「……まだないわ」
実際、明白なものはまだなかった。
祐介は嘲笑うように鼻で笑い、私を指差す。社会規範を盾に攻撃されている気分だ。
「だとしても、教師が生徒とこんな関係になるのが許されるわけ? 詩、わかってるだろ? これは不適切だ。学校が知ったら……いや、PTAが知ったら終わりだぞ!」
脅迫されているのだと、心が理解した。
「詩さんのせいじゃない! 私が……私がお願いしたの! 詩さんはただ、私に優しくしてくれただけ……」
りのが涙声で告げる。あくまでも自分のせいだと訴えて、私を庇ってくれている。
「優しくだって? 詩、俺にはそんな優しさ見せなくなったよな。最近は、デート中もどこか上の空だし。俺の手を避けて……全部この子とこんなことをしていたからか? 俺が気付いていないとでも思っていたのか……?」
祐介の言葉が胸に刺さる。彼に隠れてしていたことなので、弁解の余地がない。
「もういいよ」
吐き捨てて、祐介が寝室を出ていった。
祐介への裏切りを自覚して、私はその場に呆然と立ち尽くした。
「……ごめんなさい……。私のせいで、祐介さんを怒らせてしまった」
「いいの、気にしないで。全部好きでやったことだから。全部私が悪いから」
「追いかけてください」
りのの言葉に背筋が伸びた。わかっている。彼女はすべて自分の責任なのだと感じ、罪悪感で潰れそうになっている。ここで私が祐介を追わなかったら、いよいよ彼女は潰れてしまう。
けれど。けれど……。
「祐介さん、絶対に誤解したままですよ」
「それは……そうかもしれない。でも、どうやって?」
「包み隠さず、本当のことを話してください。私との間に、恋愛感情がないことも」
それでどうにかなるだろうか?
それであなたはいいの?
一瞬躊躇した。けれど。
「わかった、ごめんね。りの」
行くしかなかった。着替えをして、スマホとバッグをつかんだ私に彼女が言った。
「もう、二人で会うのはやめましょう」
「でも……本当にそれでいいの?」
「今日話を聞いてもらえて、心がほっとしていたんです。私ならもう大丈夫だから、詩さんは、詩さんの恋を優先して」
「わかった」
ジンプルな返答に留め、部屋を出る。
りのの顔を立てたのもあるが、淡泊なやり取りにしたのは意図的だった。もうすぐ夏休みがやってくる。距離を置くにはちょうどいいタイミングだった。世の中にあるすべてのものが、彼女に優しくあってほしい。
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