痴漢を捕まえたら女の子だったので、好きに触らせてみた結果、私が百合にハマった話。

木立 花音

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第四章「試練と崩壊と」

【夕暮れに染まるアパート】

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 夕暮れ時の江戸川区小岩は、どこか寂しげだった。
 総武線の線路沿いに並んだ古びたアパート群が、薄オレンジ色の空の下で世界から隔絶されたみたいに静まり返っている。
 りのの家へと続く細い路地を歩きながら、胸の内でざわめく不安を抑えきれずにいた。手元の生徒記録のコピーに目を落とす。そこにはりののプロフィールと、赤嶺家の家庭環境についての素っ気ない記述のみが記されていた。ぶっちゃけ新しい情報はない。
 足音が、アスファルトに小さく響く。りのの背中に刻まれた紫色の痣のことを考える。あれは事故でできたものなんかじゃない。私は教師として、いや、りのを想う人間として真実を知らなきゃいけない。でも、「他校の生徒なのだから、線を越えるな」と囁く心の声が邪魔をしていた。
 りのの震える手を思い出して、理性の声をかき消した。
 あの日の電車の中で、彼女が私の腕をそっとなぞった感触が、あの温もりが、私をここまで連れてきた。
 もっとも、りのに会う気はない。二度と会わないと、祐介と約束をしたのだから。
 それでもこうしてりのの家を目指しているのは、普段の家の様子を一度見ておきたかったからだ。
 建物の外から眺めても、何もわからないかもしれない。それでも、一度この目で見ておかなければ納得できるはずがなかった。

「ここか」

 路地の突き当りに、古びた鉄筋アパートがあった。ここの二階にりのの家がある。錆びついた手すりの向こうで、白いカーテンが揺れていた。
 窓が開いているので、きっと誰か在宅しているだろう。りのの母親がいるときが良かったので、日曜日の夕方を選んだのは正解だった。
 立ち止まって、深呼吸をした。鼓動が、まるで総武線の電車が揺れるように身体を震わせる。あの朝、りのが私の腕に触れてきた瞬間がフラッシュバックする。奈緒の手を、私は握れなかったけれど、今はできる限りのことをする。
 これ以上後悔をしたくない。

「あら、赤嶺さんの家に用事?」

 背中から声がして、全身が総毛だった。人目に触れたくないので物陰に身を潜めようとしていた矢先だったので余計に驚いた。
 振り返ると、三十代後半くらいの女性がそこにいた。りのの母親かと一瞬焦ったが、「赤嶺さん」と言っていたのでそれはないか。

「ああ、いえ。他の家に用事があったのですが、どうも留守だったようで」

 咄嗟に嘘を付く。赤嶺家に用があると思われないほうがいい。

「あら、そうなの。勘違いをしてごめんなさいね」

 会釈をし、通り過ぎようとした女性に「あの」と声をかけた。ここで会ったのも何かの縁。ならば、存分に利用してやろうじゃないか。

「間違っていたらすみません。もしかして、赤嶺さん宅のお隣に住まわれている方ですか?」

 女性は「いいえ?」と困惑顔になる。しまった、ここで深堀りしたのは失敗だったろうか。

「赤嶺さんの隣の部屋は、もう半年ほど入居者がありませんから」
「ああ、そうなんですね。いえ、私の知り合いがこのアパートにいるのですが、いつも赤嶺さんの家から怒声が聞こえてきてうるさいとぼやいておりまして……」

 あはは、と愛想笑いをする。
 失言ついでに、嘘を重ねてみることにした。知り合いとしか言っていないから大丈夫だろうが、もし旗色が悪くなったら逃げてしまおう。
 女性は納得したように「ああ」と頷いた。どうやら怪しまれてはいなさそうだ。

「そうなのよ。あそこの奥様、いつも娘に怒鳴ってましてね。ああ、いえね、いつもっていうほどじゃないんですが、時々とはいえ大きな声を出しているからどうしても気になっちゃって」
「大きな声……ですか。躾に厳しい方、ということなのでしょうか?」

 よくいる井戸端会議が好きな主婦だろうか。ちょっと餌を撒いたら容易に食い付いてきた。

「むしろ逆じゃないかしら。あそこの娘さん、わたしとすれ違ってもろくに挨拶もしませんし」

 それはあなたが先に無視したからではないですか? と言いそうになってすんでのところで抑えた。

「まあ、反抗したくなる気持ちもわかるけどね。母親がたびたび若い男を連れ込んでいたら」
「男が出入りしているんですか?」
「出入りっていうか、家の中に四十手前くらいの男が入っていくのを見た人がいるのよ。ああ、私はよく知らないんだけどね」

 よく知らないのにそんな言い方をするのか。本当にろくでもない人だな、と苦笑いしそうになる。
 男、か。まあ、りのの母親なら、年齢を感じさせない美貌を保っていそうだしありうる話か。

「でも、お母さまはPTA会長をされているらしいじゃないですか。このへんでの評判は、あまりよろしくないのでしょうか?」

 PTA会長であることを、私が知っているのはいかにも不自然だが――ここで少し賭けに出た。

「そうなのよ。会長さんだから学校でも権力があるでしょうし、怖いったらありゃしない。誰もあの人には意見できないのよ」
「そうなのですね」

 回答としては微妙にずれていたが、少なくとも評判が良くはなさそうだった。
 そのとき、アパートから突然鋭い声が響く。「りの! いい加減にしなさい!」という女の声が。
 赤嶺真由美。りのの母親の声だろう。それを証明するみたいに「また始まったわ」と女性が顔をしかめた。

「虐待をしているんじゃないかって、噂もあるくらいなのよ。それでこの間も、児童相談所の人が来ていたし。私もいろいろ訊かれちゃって、本当にいい迷惑なのよね」

 そこまで言ったところで、女性の顔色が変わる。ペラペラと喋りすぎたと、今さら後悔しているのだろう。
 女性が苦笑いするのと、「何度言えばわかるの? あんたは私の言う通りにしていればいいの!」と刺々しい声が響いたのは同時だった。

「ごめんなさい。娘のご飯を作らないといけないから、わたし行かないと」

 私の返事を待つことなく、女性は逃げるように去っていく。
 赤嶺真由美のものらしき怒声はまだ続いている。ガラスか何かが床に落ちる激しい音がした。
 いつも、こんな感じなのか。予想以上の声の激しさに、心臓を鷲づかみにされるような恐怖を覚える。
 足が一歩前に出る。家の中の様子が気になって仕方ない。
 それでも、アパートの外部階段を上る気にはなれなかった。今踏み込んだところで、私にできることはない。むしろ、赤嶺真由美の怒りの火に油を注ぐ結果になるだけだ。
 恐怖と怒りを押し殺し、りのの家をそっと見上げる。窓は開いているものの、ここから中の様子は窺い知れない。

「必ず、助けるからね」

 決意の声を落とし、私は踵を返した。
 虐待がある事実はつかんだ。あとは、どうやってりのにそれを認めさせるかだ。
 この環境からりのを救い出さない限り、彼女の心にあるトラウマは消えない。
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