『境界線の濁流』

かおるこ

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第一話:川のはじまり

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第一話:川のはじまり

「蓮くん、どうしたの? 早く行かないと遅刻しちゃうよ」

隣の家のサッちゃんの声が、どこか遠くから聞こえた。

初夏の湿った空気が、蓮の肌にまとわりついている。
ランドセルの革が背中で蒸れ、じっとりと重い。

蓮は返事ができなかった。

喉が乾いて、舌が上顎に張り付いている。

「……見えないの?」

かろうじて出た声は、轟音にかき消された。

サッちゃんは不思議そうに首をかしげる。

「何が?」

そして何事もないように、一歩踏み出した。

その瞬間、蓮の胸が凍りついた。

赤いランドセルが、濁流に飲み込まれると思ったからだ。

アスファルトは消えていた。

そこにあるはずの通学路は、跡形もなく消え失せていた。

代わりに広がっているのは、茶褐色に濁った巨大な川だった。

ゴォォォォ……

腹の奥を震わせる低い唸り。

水面には折れた枝、ビニール袋、泥の塊。
それらが渦を巻きながら激流に飲み込まれていく。

水は荒れ狂い、岸を削り、重たい濁流を押し流していた。

ここに落ちれば、二度と浮かび上がれない。

蓮はそれを、理由もなく理解していた。

「嘘だ……」

声が震えた。

「嘘だ、嘘だ……!」

蓮は泣きながら後ずさる。

しかしサッちゃんも、後ろから来た高学年の男子たちも、その川の上を平然と歩いていく。

靴が水面を踏んでも、飛沫ひとつ上がらない。

沈むこともない。

まるでそこに道があるかのように、空中を歩いている。

「蓮! 何してるの、危ないじゃない!」

背後から担任の松本先生が駆け寄り、蓮の肩を強く掴んだ。

「先生! 川が! そこに川がある!」

蓮は先生のスーツにしがみついた。

指が震え、爪が生地に食い込む。

松本先生は眉をひそめた。

「川? 何を言ってるの。ほら、ただの道でしょう」

先生は蓮の手を引いた。

「昨日の雨で水たまりがあるだけよ。さあ行きましょう」

「嫌だ! 流される!」

蓮は必死に抵抗した。

しかし先生の力は強い。

ぐい、と前に引きずられる。

蓮の靴が、水面に触れた。

その瞬間。

冷たい。

氷のような冷たさだった。

心臓を握り潰されるような冷たさ。

これは水たまりではない。

本物の水の重みだった。

泥の匂いが鼻を刺す。

腐った魚と湿った土が混ざった、生臭い臭気。

水飛沫が頬にかかる。

けれど先生の表情は変わらない。

「ほら、着いたでしょう」

気づくと、蓮は校門の前に立っていた。

振り返る。

そこには濁流など存在しない。

ただ陽炎の揺れる静かな通学路が伸びているだけだった。

靴下は乾いている。

泥の匂いもしない。

けれど。

蓮の指先には、あの水の冷たさが残っていた。

消えない痣のように。

その日から。

僕の世界は、壊れたままだ。

---

「……はぁ、はぁ……」

蓮は息を荒くして跳ね起きた。

布団が汗で濡れている。

カーテンの隙間から、街灯の光が六畳一間の部屋を切り裂いていた。

夢ではない。

記憶だ。

二十年近く経っても、あの川の音は耳の奥で鳴り続けている。

蓮は枕元のペットボトルを掴んだ。

中身は数日前の水。

ぬるい液体が喉を落ちていく。

現在。

二十七歳。

無職。

数ヶ月前まで小さな事務所で働いていたが、長くは続かなかった。

「蓮さん、壁に向かって誰と話してるんですか?」

同僚の困った顔。

「蓮さん、その……目が怖いんです」

上司のため息。

「どこを見てるのか分からなくて」

僕には見えているものがある。

僕には聞こえる音がある。

でも、それは誰にも共有できない。

社会からこぼれ落ちるのは簡単だった。

部屋は荒れていた。

コンビニ弁当の容器。

空のペットボトル。

散らばる求人誌。

何度も掃除しようとした。

けれど袋に詰めたはずのゴミが、翌朝にはなぜか床に散らばっている。

「僕が寝ぼけて出したのか……」

そう言い聞かせる。

しかし鏡に映る自分の顔を見れば、その言葉はすぐに崩れる。

目の下の隈。

光を失った瞳。

霊能者の言葉がよみがえる。

「後ろが、真っ黒だ」

そのときだった。

――パキ。

乾いた音。

蓮の身体が凍りついた。

家鳴りではない。

まるで硬い爪で壁を弾いたような音だった。

「……誰だ」

返事はない。

しかし空気が変わった。

部屋の湿度が、急に上がる。

肌にまとわりつく湿り気。

パキ。

パキパキ。

音が移動する。

壁から天井へ。

そして、蓮の背後へ。

クローゼット。

蓮はゆっくり振り返った。

建て付けの悪い扉。

わずかな隙間。

そこは完全な闇だった。

その暗闇が、動いた。

煙のような黒い揺らぎ。

形はない。

だが確かにそこに「何か」がいる。

それは隙間から這い出し、床のゴミの間を滑るように進んでくる。

「来るな……」

蓮は布団を引き寄せ、壁際へ後退した。

そのとき。

足の甲に触れたものがあった。

冷たい。

あの日の川と同じ冷たさ。

床を見る。

ペットボトルの影が、不自然に伸びていた。

影がうねる。

生き物のように。

蓮の足へ絡みつこうとしている。

そして遠くから、あの音が聞こえた。

ゴォォォ……

濁流の音。

パキ!!

大きな音が響く。

「やめろ! 出ていけ!」

蓮は空き缶を投げた。

缶は転がる。

影は一瞬だけ崩れる。

しかしすぐに形を取り戻す。

クローゼットの扉が激しく震えた。

パキパキパキパキ!!

「ああああ!」

蓮は耳を塞いだ。

視界が歪む。

床が波打つ。

壁のシミが巨大な目になり、こちらを見ている。

ゴミの山が崩れた。

その下から茶色い水が染み出してくる。

「病気だ……」

蓮は呟いた。

「これは病気なんだ……」

しかし。

水は冷たい。

あまりにも冷たい。

幻覚にしては、あまりにも重い。

蓮は床を這い、窓へ向かった。

窓を開ければ、外は現実のはずだ。

震える手で鍵を外す。

窓を開け放つ。

「助けて――」

言葉が止まった。

路地裏が消えていた。

そこには、濁流があった。

街灯の光を飲み込む巨大な川。

茶褐色の水が渦を巻き、轟音を立てて流れている。

隣の建物の影が、水面に獣のように揺れていた。

蓮は窓枠を掴んだまま動けない。

背後から音が聞こえる。

パキ……パキ……

今度は笑い声のようだった。

逃げ場はない。

あの九歳の朝から。

僕はずっと、この川の中にいる。

「……そうか」

蓮は小さく笑った。

涙が頬を流れる。

病気でもいい。

悪霊でもいい。

世界の真実でもいい。

どれでも構わない。

蓮は窓ガラスに映る自分を見つめ、呟いた。

「お前も、流れたいのか」

背後の影が、ゆっくりと立ち上がる。

そして遠くで。

濁流の音が、さらに大きくなった。

川は、まだ流れている。

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