『境界線の濁流』

かおるこ

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第二話:診断名という盾

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第二話:診断名という盾

白い。

病院の待合室は、目に刺さるほど白かった。

壁も、床も、天井も。
すべてが漂白されたような色をしている。

プラスチックの椅子の硬さが、痩せた蓮の身体に直接響いていた。

空気清浄機の低い唸り。
時折響く、名前を呼ぶ無機質なアナウンス。

そのすべてが、どこか現実から切り離された場所のように感じられた。

蓮は膝の上で組んだ指先を見つめていた。

爪の隙間に、黒い汚れが残っている。

昨夜、部屋の影に向かって投げつけた空き缶の跡だった。

――九条蓮さん。一番診察室へどうぞ。

呼ばれた瞬間、心臓が跳ねた。

立ち上がる。

そのとき、視界の端で待合室の観葉植物の影が、不自然に伸びた気がした。

蓮は強く目を閉じる。

違う。

今は違う。

そう自分に言い聞かせ、重い扉を押し開けた。

---

診察室には、年配の医師が座っていた。

銀縁眼鏡の奥で、静かな目がこちらを見ている。

机の上には、問診票と検査結果の紙が並んでいた。

「どうぞ。九条さん」

穏やかな声だった。

「最近、眠れていますか?」

蓮は椅子に腰を下ろした。

手の震えが止まらない。

「……眠れません」

声が乾く。

「夜になると、音がして……それに、変なものが」

医師のペンが止まる。

「変なもの、とは?」

蓮は唾を飲み込んだ。

「影です」

しばらく沈黙が落ちた。

「黒い……煙みたいなものです」

「ほかには?」

「窓の外が、川に見えるんです」

医師は眉を動かさなかった。

ただ静かに頷く。

「それは、いつ頃から?」

「子供の頃からです」

蓮は視線を落とした。

「先生……僕は、おかしいんでしょうか」

医師はしばらく蓮を見つめた。

そこには恐怖も嫌悪もなかった。

ただの観察だった。

やがて医師は紙を一枚めくった。

「検査結果と、これまでのお話を総合するとですね」

蓮の心臓が強く打つ。

「九条さんには、発達障害の傾向があります」

蓮は息を止めた。

「自閉スペクトラム症、そしてADHDです」

紙が机の上で小さく音を立てる。

「それから、現在起きている幻覚や幻聴についてですが」

医師はゆっくり言った。

「統合失調症の疑いがあります」

その言葉が、頭の中で反響した。

統合失調症。

発達障害。

普通なら、絶望するはずの言葉。

けれど。

蓮の胸に広がったのは、奇妙な安堵だった。

「……病気、なんですね」

医師は頷いた。

「ええ。脳内の神経伝達物質のバランスが崩れている可能性があります」

「薬で抑えられるんですか」

「ええ。適切な投薬で、症状はかなり軽減しますよ」

蓮の視界が滲んだ。

そうか。

あの川も。

あの音も。

あの影も。

すべては呪いではなかった。

ただの脳の誤作動。

世界が狂っていたのではない。

壊れていたのは、自分の受信機だった。

「名前」がついた瞬間。

世界が少しだけ整った気がした。

診察室を出たとき、蓮の足取りは軽かった。

処方箋を握る手に力がこもる。

これで終わる。

そう信じていた。

---

その夜。

蓮は薬を水で飲み込んだ。

小さな錠剤。

白い粉薬。

「これで終わる」

そう呟いて、電気を消す。

部屋は真っ暗だった。

いつもなら恐怖が忍び寄る時間。

けれど今夜は違う。

あれは怪異ではない。

病気だ。

コントロールできるものだ。

そう思っていた。

パキ。

音がした。

蓮は目を閉じたまま、心の中で繰り返す。

(これは脳の誤作動だ)

(実際には鳴っていない)

(ただの聴覚過敏だ)

パキ。

パキパキ。

音は止まらない。

むしろ、いつもよりはっきりしている。

まるで耳元で小枝を折られているような音。

蓮はゆっくり目を開けた。

部屋の隅。

ゴミ袋の影の中に、それはいた。

黒い塊。

煙のように揺らぐ輪郭。

人の形をしている。

だが骨がない。

煤が空中で人型を保とうとしているような、不安定な存在。

顔はなかった。

ただ、空洞だけがある。

その空洞が、蓮を見ていた。

「……消えろ」

蓮の声は震えていた。

「お前は病気なんだ」

影は動かない。

「薬を飲んだんだ」

蓮は叫んだ。

「消えるはずなんだ!」

影が、ゆっくり動いた。

煙のような腕が伸びる。

床に落ちた雑誌に触れた。

カサリ。

紙が擦れる音。

雑誌がわずかに沈んだ。

蓮の背筋が凍った。

幻覚は物を動かさない。

はずだった。

その瞬間。

影は消えた。

「……ほら」

蓮は息を吐いた。

「やっぱり幻覚だ」

そう言いかけたとき。

首筋に冷たい息が触れた。

濁った水の匂い。

泥の匂い。

あの川の匂いだった。

「診断名」

背後で声がした気がした。

掠れた声。

「お前が名付けたのは」

蓮の思考が止まる。

「……何だ」

蓮は跳ね起きた。

壁際へ逃げる。

部屋には誰もいない。

薬のシートが月光に光っている。

影もない。

だが。

腕に跡が残っていた。

黒い指の跡。

湿った灰色の痕。

「嘘だ……」

蓮は震えた。

「病気のはずだ」

そうでなければ。

僕は。

蓮は薬袋を掴んだ。

だが手は震えて止まらない。

パキ。

パキパキ。

音が止まらない。

闇の中から。

無数の音が部屋を満たしていく。

嘲笑うように。

診断名という盾は、あまりにも薄かった。

蓮はゴミの山の中で膝を抱えた。

夜明けを待つしかなかった。

窓の外では。

存在しないはずの川の音が。

昨日よりも大きく。

重く。

部屋の壁を叩き続けていた。

境界線は、もう。

足元まで崩れてきている。

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